終.再び、裏通りの贋作屋
学問と芸術の都、ヴェレス。
今日も人通りの多い表通りは、楽しげな会話や陽気な掛け声、闊達な議論を交わす人々で賑わっている。
一方、そこから一歩踏み入った裏通りは、途端に建物の影が重なり昼なお暗く、相変わらずどこか湿った空気が漂っていた。
今、そんな裏通りにはふさわしくない、ヴェレスが誇る名門校の白い制服に身を包み、怪しげな店の前に佇む少年がいた。
彼は、懐から銀の懐中時計を取り出して時間を確かめると、真面目そうな顔でこくりと一つ頷き、おもむろにその扉を開けた。
カランコロン……
扉の先に取り付けられた鐘が鳴るのと同時に、彼は足を踏み入れる。
狭く、暗い店である。
四角い窓から差し込む光がきらきらと舞う埃を輝かせ、それ以外のものはひっそりと息を殺して横たわっている。
絵筆、キャンバス、イーゼルに、パレットや額縁、絵具。比較的きれいに並べられたそれらの商品の間に挟まるようにして、レターセットや事務用品、マッチやインク壺などが、肩身狭そうにひしめいている。
いや、それだけならこの店の通常の光景なのだが、そこには二つ、以前とは異なる点があった。
一つは、所どころに押し込まれている、場違いな程に豪華な花束。
薔薇に百合、ガーベラに菫、種類も季節も様々だが、美しい花々がこれでもかと言わんばかりに方々で溢れていた。
どうやら最初は花瓶に活けていたようであったのが、新しい花束になるほど、まるで諦めたというように床に転がされている。
そしてもう一つは、
「ふあ……」
伏せていたカウンターから身を起こし、眠そうに目を擦る、蜂蜜色の髪の少女。
なぜか頬に絵具をべったりと付けているが、その肌はミルクのように白く、頬は先程の薔薇のように赤く、そしてゆっくりと開かれた瞳は、まるで宝石のような翡翠色だ。
彼女は、少し襟足の伸びてきた短い金髪を掻き上げて、「くあ……」ともう一つ欠伸を漏らした。
「あれ……ルドルフ。いらっしゃいませ……?」
「焦点の合ってない目で人を出迎えるな、ライ」
少年――ルドルフは仏頂面で告げたが、それは、彼女の接客態度がたるんでいるからというよりは、潤んだ瞳に動揺したからであるようだ。
彼はきょろきょろと周囲を見回し、「イーヴォは?」と尋ねた。
「ああ、買い出しに」
「君はこの裏通りの店で、いつ厄介な客が来るとも知れないのに、女一人でうたた寝していたのか」
呑気に答えるライルに、ルドルフが眉を寄せる。ライルはあからさまに面倒そうな顔をしつつ、
「えー。こんな男女、誰も襲いやしませんて」
首を傾げてみせたので、そのほっそりとした白い首を見たルドルフは、ますます視線を険しくして訴えた。
「変装を解いてから連日男性客につけ狙われておいて、何を言う。だいたい、この花束はなんなんだ」
「ああ、それはね、イサベル様とか火曜会の方からです。新装開店のお祝いに、ですって」
お祝いの花束と片付けるには、やたら情熱的な花言葉を持つそれらを、そこらへんに雑草を放り投げるように床に転がす人物もそういまい。
複雑な面持ちで非難の意を示すルドルフに、ライルはひょいと肩を竦めた。
「最初はイサベル様だけだったんですけど、他の二人が聞きつけて競うように花を送りつけてきて。毎日わさわさ届くものだから、副業に花屋でも検討していたところですよ。ねえ、口の軽いルドルフくん?」
「……そういえば、イサベル様には開店の話をしてしまった。すまない」
「イサベル様、普段はもっと慎み深いんですけどねえ」
まあいいですけど、と遠い目をしてそれを片付けると、ライルは改めてルドルフに向き直った。
「それで? 今日は何用で? 鉛筆なら残念ながら――」
「鉛筆もインク壺も必要ない。ライ、君の贋作屋の知識を生かして、助けてほしいんだ」
生真面目な青灰色の瞳に懇願の色が滲んだのを見て、ライルが「うえ」と声を上げた。
「やだやだ、また火曜会がらみですか? いい加減友人割引やめますよ?」
「そう言って毎回報酬はきっちり取って行くじゃないか。――それにライ、俺だけが君とこうして会えていることを妬んで、彼らはまるで姑か小姑かのように、難しい宿題ばかり出してくるんだ」
「いつの間に火曜会は、そんな芸術家養成塾みたいな組織になったんですかねえ……」
呆れたように言うものの、彼女の口調には以前のような激しい嫌悪感はない。
出会った頃は口にすら出さなかった「火曜会」の名をきちんと呼んでいることにも、ルドルフは密かに気付いていたが、それを指摘することはしなかった。
なにせ彼女は、一度機嫌を損ねると、治るまでに時間がかかる。
「頼む。君にしか頼めない難問なんだ」
ルドルフがじっと目を見つめて頼み込むと、ややあってライルは、はあと溜息を吐いた。
「……贋作屋に依頼する時は、合言葉を、という約束でしょう?」
「『ルヴァンツの絵は』」
「おっと、違います」
彼女はカウンターから腕を伸ばし、細い人差し指でルドルフの口を塞いだ。
ぐっと顔をよせ、まるで悪戯っ子のように翡翠の瞳を輝かせる。
「新装開店に伴い、合言葉も変えたんです。教えたでしょう?」
「……だが、女性の前でその手の言葉を言うのは……」
「決めた当人なんだから、問題ないに決まってるでしょう」
ほら、ほら、とにこやかに促される。
ルドルフは暫く悩むように眉間に皺を寄せていたが、やがて自ら扉を開け、外に掛かっていた札を「閉店」にひっくり返した。
そして、カウンターで肘をついてにこにこしているライルに向かって、覚悟を決めて口を開く。
「……『もげろ、ルヴァンツ。変態野郎』」
「大変よくできました」
彼女は満足げに頷くと、改めて客に向かって微笑んだ。
「ようこそ、ヴェレス裏通り贋作屋へ」
これをもちまして完結となります。
作者得でしかないお話に最後までお付き合いくださり、誠にありがとうございました。




