涙すら出ないほどに
(嘘よ。そんなはずない。あり得ない)
ぐわんぐわんと頭が揺れ、今すぐ床に胃の中のものをぶちまけてしまいそうな感覚に襲われる。
これはエルエベの妄言に過ぎないと、分かっているのに。
「ああ、可哀想なルーファス。悪魔の女に騙されて婚約までさせられて、なんて哀れなのかしら」
わざとらしい声を上げる彼女に、いますぐ平手打ちをしたいのを必死に堪える。
「そうよ。アロナはあなたの家族である私達に酷い嫌がらせをしたのよ!?それに従者であろうと他人の婚約者であろうと、男ならすぐに裏で誘うようなあんな女、あなたには相応しくないわ!」
(お願いだから、嘘だと言って)
「そんな顔をしないでルーファス。これは仕方のないことなの。由緒あるアルフォンソを守る為、私達だって望んで手を下すわけではないのだから」
(ああ、どうか)
「どっちが正義か分かってくれるわよね?ルーファス」
(お願い、やめて)
「…ああ。分かっているよ」
その声は紛れもなく、アロナの最愛の人だった。姿は見えないが、聞き間違えることなどありえない。
彼女の全身から力が抜け、恥も外聞もなくその場にへたり込む。体が扉にぶつかり、微かな音を立てた。
今のアロナはもう、何も考えられなかった。
「あら、いやだわ。盗み聞きなんて淑女のすることなのかしら」
エルエベの声が聞こえる。その後、ククルの金切声も。けれどアロナは、その場から一歩も動けなかった。
部屋の隅で目を驚いたように見開き、こちらを見つめているルーファスから一瞬も視線が逸らせない。そこにいたのはやはり、紛れもなくルーファス本人。アロナの生きる希望そのものだった。
「アロナ…どうして…」
「ルーファスが扉を閉め忘れたのね。もう、うっかり屋さんなんだから」
「僕は…その…」
自身の殺害計画。それだけでも恐怖で身が凍りそうな思いだったが、まさかそこにルーファスも加担していたとは夢にも思わなかった。
(どうしてなの…)
アロナの瞳からは最早、一滴の涙も出なかった。彼女の群青色の瞳にはたった一人、愛するルーファスだけが映っている。
(私が今まで、どんな思いで)
ククル達に二度も殺され、精神が崩壊してしまいそうだった。それでも気丈でいられたのは、ルーファスという最愛の婚約者がいたから。人生を何度もやり直しているのは、きっと神がルーファスと私に与えてくれた運命なのだと、アロナは信じていた。
気が弱く積極的に前に出る性分ではないが、誰にでも分け隔てなく優しく慈悲深く、嘘が下手で素直で純粋だった。アロナの知っているルーファスは、ずっとそうだった。
「…今までもずっと、ご存知だったのですね」
アロナの呟きに、ルーファスは怪訝そうな表情を見せる。
「何も知らない愚か者は、私だけだったというわけ」
「これは報いよ!今まであなたが傷つけ陥れてきたたくさんの人達に、心から謝罪しなさい!」
思いがけないアロナの登場に少したじろいでいたククルだったが、今は口元が歪んでいる。本当は高笑いしたい気分なのだろうが、必死にそれを隠そうとしていた。
「ルーファス」
「アロナ…僕はずっと、君を信じていたんだ。けれどもう、限界だ…」
(どちらが嘘かも、分からないのね)
ルーファスにとって自分はそれほど、取るに足らない存在だったのだとアロナは理解する。
彼だけは違うと思っていた彼女の恋心は、逸らされた視線によってばらばらに砕けて散った。




