第4話
「おはよー」
「おはよう、珠絵衣」
私は力なく、珠絵衣に手を振る。
頭痛は、相変わらず止まらない。
全身にべったりと貼りつく違和感が消えない。
私は何も変わっていないはずなのに、突然異世界に放り込まれたかのような世界への馴染まなさを感じていた。
「愛ちゃん、顔色悪いよ。今日、休んだ方がよかったんじゃない?」
「んーん、大丈夫。休んでられないじゃない」
私は、ふと口から出た自分の言葉に驚いた。
休んでられないじゃない。
何故。
私は、学校が好きなわけではない。
友達と遊ぶのは好きだが、勉強は嫌いだから。
テスト前であれば無理してでも出席しておきたいが、今はそんな時期でもない。
じゃあ、何故。
何故、休んでられないなどと思ったのだろう。
いや、待って。
私、最後に休んだのいつだっけ。
私、最後に家に帰ったのいつだっけ。
漠然とした違和感が、全く違う言葉になって、頭の中を駆け巡る。
私は咄嗟に窓の外を見る。
広がるのは、学校の周囲の景色。
建物に、道路に、公園に。
どこにでもある普通の町。
あれ、私の家って、どこだ。
一つ浮かんだ疑問が、頭の中でどんどん増えていき、私は教室を見回した。
クラスメイトの名前が分からない。
数人分からない相手がいてもおかしくはないが、珠絵衣と結友と景以外の名前が分からない。
いや、もっと酷いかもしれない。
今、視界に入っているクラスメイト全員の顔に、見覚えがない。
なに、これは。
心臓が、バクバクと胸を叩く。
喉が急激に乾いて、目が開いたまま固まった。
一体、これはなんだ。
混乱の余り目の前が真っ暗になり、真っ暗の中に景の姿だけがくっきりと浮かび上がった。
気まぐれでしか登校しない、景の姿が。
にも関わらず、私の中に景が登校していない日の光景が存在しなかった。
チャイムが鳴る。
せんせんが入ってくる。
私はショートした思考のまま、ホームルームでせんせんの話を聞く。
せんせんの口は、早送りをしているように動いていた。
こんなに、早口だったっけ。
ガラガラと、扉が開かれる。
景が教室へと入ってくる。
私は景を無感情に見つめ、景もまた私を見る。
いつもなら睨みつけているだろう私の変化に、景は首を傾げながらも、私との席は別の場所に向かって歩いていく。
「今ならいけるかもな」
そう呟きながら、珠絵衣の席へ。
「よお。そろそろ、相手してくれてもいいんじゃねえか?」
「え、あ……」
「お前だって、興味がねえ訳じゃねえだろ?」
景の手が、珠絵衣の胸に触れる。
私の反応を伺いながら、景は自分の指を珠絵衣の胸へと沈めていく。
珠絵衣の目にじわりと涙が浮かび、珠絵衣は助けを求めるように私を見た。
「……! あんたっ! 何やってんの!」
私の脳の中で花火が打ちあがったように、私の意識は覚醒した。
何を私は、ぼーっとしていたんだろう。
椅子が倒れるのも気にせずに立ち上がり、珠絵衣の元へと駆け付け、景の腕を掴んで珠絵衣から話した。
景は一瞬呆気にとられていたが、すぐにいつも通りの気色悪い笑みを浮かべた。
「ちっ! まだかよ! いい加減飽きて来たぜ!」
「何がよ!?」
「こっちの話だ!」
景が腕を強引に振ると、私は景の力に逆らえず、隣の席の机に突っ込んだ。
「痛っ!」
床に倒れる私の上に、机の上に載っていた筆記用具が降ってくる。
「おら、来い!」
「え、や……っ!」
景は倒れた私など見向きもせずに、珠絵衣の腕を掴んで、無理やり教室の外へと連れだそうとした。
机にぶつかった時の体の痛み。
悪化する頭の痛み。
二重の痛みが、私の体を縛り付ける。
「待ちなさい!」
が、珠絵衣の悲鳴が、私の体を無理やり動かした。
痛みも傷も二の次。
私はふらつきながらも、教室の外に出た景を追いかけた。
足は景の方が速かったが、景は珠絵衣を無理やりひっぱっている。
そんな景に追いつくのは簡単だった。
珠絵衣がトイレに連れ込まれるよりも早く、私は景の元へ辿り着いた。
「その手を、離しなさい!」
私は景のほっぺたを、思いっきり平手打ちする。
「いでえ!?」
景が自分の頬っぺたを押さえながら、私を睨みつける。
景の右手は珠絵衣の腕を積み、景の左手は頬っぺたを抑えている。
私は、無防備になった景の股間を、思いっきり蹴り上げた。
「あびばぶぐえあいいああああ!?」
景は、この世の物とは思えない叫び声をあげた後、両手で股間を押さえたままうずくまった。
私は景から解放された珠絵衣の手を取って、景から離れようと走り始める。
「く、くそ! てめえ! 気がつええのがいいとは言ったが、ここまでは望んでねえよ!」
景が訳の分からないことを叫んでいたが、私の想像以上に痛みがあるのだろう、私たちを追いかけてくることはなかった。
「愛ちゃん……」
「もう、大丈夫だから」
私は珠絵衣と一緒に走りながら、どこへ向かうか考える。
教室に戻るのは、走っている方向的に無理だ。
女子トイレに立てこもるのも無理だ。
景なら、躊躇いなく入ってくる。
それに、トイレの個室は上側が開いている。
景の身体能力なら、よじ登れてしまうだろう
いや、考え方を変えよう。
そもそも学校に、完全な個室なんて存在しない。
悩んでいる中、私はただ昨日行ったという理由だけで思い浮かんだ保健室へと向かった。
保健室であれば、扉に鍵をかけられる。
扉の前にベッドでも置けば、簡易なバリケードも作れる。
窓ガラスを割って入ろうとしても、うちの学校は何故か防犯用の網目ガラスを使っているので、割ることはできないだろう。
私は保健室に入るとすぐに珠絵衣をベッドに寝かせ、余ったベッドや棚を扉の前に置く。
火事場の馬鹿力と言うやつだろうか、私がやったとは信じられない速度で、バリケードは完成した。
景の足音は、未だに聞こえない。
そんなに蹴りが痛かったのかとも思ったが、罪悪感なんて感じなかった。
景は、それほどのことをしてきたのだから。
「珠絵衣」
やることをやり終え、私が珠絵衣の方を向くと、珠絵衣は静かにベッドの上で眠っていた。
そして、ベッドの横には、スーツを着た男が立っていた。
「!? だ、誰!?」
私は咄嗟に拳を握って、男をいつでも殴れるように構える。
が、すぐに男の近くに珠絵衣がいることを思い出し、男を珠絵衣から引き離さなければと後先考えずに駆け出した。
「君、世界に違和感を感じているね?」
直後、私に生れていた怒りは、足は、男の言葉ですぐに止まった。