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エチカ 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第五章 平成七年
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同じ船

平成七年一月十七日 五時四十六分五十二秒 阪神淡路大震災


 平成七年の一月十一日に飛鳥の誕生日を祝ったばかりだったから、まさか、一週間もしないうちに、こんな陰鬱な気分で過ごす事になるとは、燐子は(つゆ)程も思っていなかった。


 十七日の明け方、燐子は、地面が大揺れに揺れている夢を見た。


 ビルが山の様で、地面が波の様なのだ。

 燐子は、サーフィンの様に、地面に何とか立って、驚きながら、周囲の建物を見ていた。

 全てが波打っている。

 燐子は、物凄い恐怖に襲われた。

 本当に、ビルの隙間から波も見えたからだ。

 其の波は、燐子の方に向かってきた。

 大きな波の中に、黒い大量の海藻が踊っていて、其れが、今にも燐子に向かって伸びて来そうに思える。 


 其れ等は、何本もの、指の歪んだ手を持つ腕に見えて来た。


 近寄ると、其れは、『あれ』だった。


―あの、黒い塊だ。


 燐子が、ハッとして目覚めると、家の電話が鳴り響いたところだった。


 綜一が、大慌てで電話に出て、程無く紘一が車でやって来た。


 結局、毎朝六時起きだから、という事で、家族で、着替えて、仏間に紘一を通し、残りの家族はリビングに集まった。


 紅子と燐子で、起きて泣いてしまった飛鳥と美紅をあやしていると、既に仕事着に着替えた玖一が、リビングのテレビを付けた。


 撮影用ヘリの音が響く。


 玖一は、信じられない、という顔をした。




 燐子は、抱いていた美紅を玖一に預けると、仏間に向かって駆け出した。


 仏間の襖を乱暴に開け、似た様な黒っぽい着流しを着て、向かい合って話をしている綜一と紘一の傍に、身を投げ出す様にして(うずくま)り、如何(どう)して、と言った。


「結局あれは何なの?!如何(どう)して?やっぱり、黒いもののせいで、こうなったの?うちに出なくなっても、こんな…」


 落ち着いて、と紘一が言った。


「黒いもの自体には、そんな大きな事を仕出かす力は無いんだよ。前にも言ったけど、残り(かす)みたいな物さ。瀬原集落には作用するかもしれないけれどね。今、元号が如何(どう)のと言ってみたところで、『平成』という元号自体は幕末にも候補に挙がっているし、全ては、色々なものが重なって起きた事だ。一つだけが原因じゃないし、一つ一つは、其れ程大きな事じゃないし、人間には防げない。儀式では、今出来る最善を尽くした。天に穴が無数に空いたのも、地の(くびき)が緩んでしまったのも、誰のせいでもない。時間も巻き戻せない。其れより、現実に起きた被害に対応する事の方が大事だ。うちも、社を上げて、支援物資を送る手筈を整えているから。関西の支社に、全国の支社から助けを送る。全員で持ち場を守って、一人一人に出来る事をしよう。こんな時間に御邪魔して申し訳ないけど、今日は火曜日で、平日でしょう。君達の家族は、朝食も出勤も有る筈なんだから。さぁ、落ち着いて、顔を上げて」


 そうだね、と綜一も言った。


「玖一、六時半には朝御飯食べて、七時には出て行くもんね。何時(いつ)もよりちょっと早いけど子供達も起きちゃった事だし、倫理(エチカ)ちゃんも何か食べないと」


 でも、と言って燐子は泣いた。


「怖い。やっぱり、そんな事じゃ納得出来ない。夢を見たの。そりゃ、夢だけど。大きな波の中に、黒い海藻が沢山有って、あたしに向かって伸びて来て、其れが…手なの。真っ黒い沢山の手。其れが、近寄ると、あの…黒い塊だったの」


 綜一は、泣きそうな顔をして燐子を見た。


 紘一は、分かったよ、と言った。


「太陽の黒点、(おお)(がらす)。太陽が海に沈んでも、其の部分だけ温められない。()()に通じる。(なつ)にも太陽の光を差さず、米を実らせない、其れが、あの黒い塊だ。太陽の陽に触れた太陰、月の陰と合わさった悪い物が(こご)って海に沈み、海から這い上がってくる。そう、元々、海の外からやってきたものなのさ」


「え?」


 燐子がキョトンとしていると、人間の業だよ、と紘一は言った。


「海の事まで分かるとは、君はやっぱり、何か有るんだろうね。動物的勘とでも言うのかな。『夏』という字は、昔は季節を表さず、踊る人間を示す文字だったのさ。音が似ていた事から、舞の種類に『雅』という字が使われ始めた。其処から『雅』に『みやび』という意味が生まれたが、本来は『雅』は『鴉』と同じで、カラスを指す言葉だった。『()』という踊りが、(なつ)の時期に行われる、祖先の為の祭りで奉納されていた事から、季節の『(なつ)』という字が成り立った。此れも、言霊と似た様な話だよ。違うものだったものが、音でドンドン繋げられて、意味を持つようになった」


 全然分かんないけど、と燐子は言った。


「あれは…カラス?悪い物が集まって出来たカラス?」


 そう、と紘一は言った。


「そして、踊る(うで)なんだよ。カラスであり、単なる海藻であり、無数の腕であり。海の中の腕は」

 踊っていたんだと思うよ、と、紘一は続けた。


 燐子は総毛立ち、黙った。


「さ、海の中で踊る腕に、人間が何かしてやれることは無いのさ。働いて、食べて、寝て、生きよう。怖がってばかりいられない。向こうも、此方(こちら)を怖がっているのだから」


「え?…向こうも?」


「最も汚いものは、最も聖なるものと同じ。両義性だ。昔話では、馬糞は小判になるし、尊い王族は生贄になる。最も卑しい者が、聖なる力を持つ事が有る。最も悪い物と、最も善い物は、同じ棒の端と端だ。自然の中では、其れ等には善悪は無い。良いも悪いも人間が決めている。人間には何も出来ない。(エロス)(タナトス)の臭いを恐れる様に、(タナトス)(エロス)の強さを恐れている。生きている人間の方が、余程恐ろしい事も有るものだよ。生きているか如何(どう)かも分からない、黒い塊よりね」


 燐子は、ハッとして、目を見開いて紘一を見た。


「人間には、全部は出来ない。人間を全員救う事も出来ない。せめて、出来る事を。頼み事をしてくる人間の頼みを聞いてあげようじゃないか。出来ない事は出来ない。出来る事を選んで、実行しよう。出来る人が出来る事を行う事しか、結局出来ない。其れ以上は、誰にも何も出来ない。頼まれた事の中で、自分に出来る事を遣るしかない。君に今出来る事は?御母さん」


「あたしに出来る事は…?御母さん…」


―…ああ、そうか。


「あの子達の傍に居て、朝御飯を食べさせます。あの子達だって、起きちゃって、怖がって泣いてたんだもの…」


 其れは素敵だ、と紘一は言った。


 そうね、と燐子は言った。


「黒い塊と関係の有る家だって事は分かってて家族になったんだった。其れが今更…。そう、『あれ』だけが何かをするんじゃない。人間の方が恐ろしいって、あたしも、そう思ってたのに」


 何か食べなさい、と紘一は言った。


「自分に出来る事は、其れから考えよう」


「そうですね…。御祓いも人命救助も出来ないけど、だからって、泣いている子どもと、今一緒に居る事も出来ないわけじゃない…」


「そうだね、家族が居るだろう」

 紘一の其の言葉に、燐子は、綜一の顔を見た。


 綜一は、悲しそうに微笑んで、燐子の肩を、そっと叩いて、言った。

「同じ船に乗せてごめん」

 燐子は、慌てて首を振った。

「海の中に何が居たって、此の船を降りない。…あたしに何が出来るわけじゃないけど」


 しかし、綜一は、知ってて同じ船に乗ってくれただけで充分、と言った。


 燐子は、結局、仏間に綜一と紘一を残してリビングに戻り、玖一達と共に朝食を取り、娘二人と、紅子と一緒に、出勤する玖一を見送った。


 同じ頃、紘一も、黒塗りの高級車に乗って帰っていった。


 燐子よりは、救援物資を沢山送れる様な、出来る事の多い立場なのだろう、と、燐子はボンヤリと思った。

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