第4話 排水溝
内装工事中の店舗。墨田区内。駅から五分。
ガラスのドアに養生テープが貼ってある。中から電動工具の音がしていた。角田と花森が着いた。リュカと美咲が先に来ていた。リュカが内装業者と話していた。美咲が通訳していた。
角田は鞄から図面のコピーを出した。赤ペンの✓と「要確認」が書き込んであるもの。保健所に持っていったのと同じ図面。
花森が「わあ、できてきてますね」と言った。角田は図面を見ていた。
「中に入ります」
養生シートを踏んだ。厨房。まだ工事中だった。壁のタイルが途中だった。床は仕上がっていた。長尺シート。防水仕様。光っていた。
角田が図面を持ったまま歩いた。一つずつ確認した。
*
シンク。二槽。据え付け済み。角田が蛇口を見た。レバー式。メールで指示した通りだった。赤ペンの蓋を開けた。手帳に✓。
手洗い設備。角田が位置を確認した。調理場の入口横。前の図面ではシンクから遠かった。修正されていた。入口から二歩。作業台を回り込まない。直線で手を洗える。自動水栓。センサー式。手をかざすと水が出た。止まった。手帳に✓。
排水溝。
角田がしゃがんだ。床に近づいた。厨房の中央寄りに一本。排水溝がある。蓋がある。グレーチング。金属製の格子。角田が指で触った。固定されている。外れない。隙間にゴミが詰まっていないか見た。詰まっていなかった。新品だった。
角田はしゃがんだまま手帳に書いた。「排水溝——グレーチング設置済。固定良好」。
花森が角田を見ていた。角田が排水溝をしゃがんで覗いている姿を見ていた。
「角田先生、排水溝そんなに大事なんですか」
「蓋がないと検査で落ちます」
「そうなんですね……」
角田は立ち上がった。膝を払った。
冷蔵庫。まだ搬入されていなかった。壁にコンセントと排水口だけがある。手帳にメモした。「冷蔵庫——未搬入。搬入後に温度計外部表示確認」。
換気扇。壁上部。設置済み。✓。
仕切りの壁。スイングドア。✓。
トイレ。販売スペースの奥。✓。
角田は図面のコピーと手帳を見比べた。メールで指示した五項目のうち、四項目が完了していた。残りは冷蔵庫の搬入待ち。
「工事は順調です」
角田がリュカに言った。美咲が訳した。リュカが頷いた。
*
角田が排水溝をしゃがんで見ている間、花森はリュカとショーケースの話をしていた。
販売スペース。ショーケースのガラスが入ったところだった。照明はまだついていない。花森がガラスに顔を近づけていた。
「リュカさん、ここにケーキ並べるんですよね。照明は暖色がいいですよ。白い光だとクリームが青白く見えちゃうんです」
美咲が訳した。リュカが頷いた。花森が続けた。
「あと、焼き菓子の棚もここに置きましょう。ショーケースの横。レジの手前。手土産に買いやすい位置です」
リュカの顔が曇った。美咲がリュカを見た。
「花森先生、焼き菓子の件なんですけど……」
「やりましょうよ!」
花森が一歩前に出た。
「リュカさん、フィナンシェやりましょう。マドレーヌでもいいです。フランスの焼き菓子。リュカさんが作れば絶対おいしいです」
美咲が訳した。リュカが首を振った。「Non」。前にも聞いた返事だった。
「僕の仕事はアントルメとタルトです。焼き菓子は……」
美咲が訳した。リュカの声は静かだった。誇りがあった。パティシエの誇り。生菓子が自分の領域。焼き菓子は別の仕事。
「リュカさん」
花森が言った。声のトーンが変わった。さっきまでの勢いが消えた。
「日本のお客さんは、手土産を買いにケーキ屋に来るんです。誰かにあげるために買うんです。生菓子は持ち運びが難しい。焼き菓子は持ち運べます。箱に入れて、渡せます」
美咲が訳した。リュカが花森を見ていた。
「それで、焼印を入れるんです。お店のロゴで。Aって。フィナンシェの表面に、金色の焼き目で。一つずつ。リュカさんが一つずつ押すんです」
リュカが黙った。美咲も黙った。花森が続けた。
「リュカさんが作ったものに、リュカさんの名前が入るんです」
リュカが何か言った。フランス語。短かった。美咲が笑った。
「考えるって」
花森が「やった」という顔をした。
角田は手帳に書いていた。「防火管理者届出——不要。収容人数三十人未満」。花森の焼き菓子の話は一言も書いていなかった。
*
外に出た。リュカと美咲は「仕込みがあるので」と帰っていった。リュカが美咲の荷物を持っていた。二人で歩いていった。
角田と花森だけになった。
花森が選んだ店はパスタ屋だった。テーブル席。二人で座った。
花森がカルボナーラを頼んだ。角田がメニューを見た。カルボナーラ。ボロネーゼ。ペスカトーレ。ペペロンチーノ。
角田はペペロンチーノを頼んだ。八百五十円。
「角田先生、パスタ屋でペペロンチーノなんですね」
「具がないので」
「具がないから選んだんですか」
「オイルとにんにくと唐辛子です。それだけです」
花森が笑った。「角田先生らしい」と言った。角田は何がらしいのか分からなかった。
パスタが来た。花森のカルボナーラは白かった。卵とチーズとベーコン。角田のペペロンチーノは赤かった。唐辛子の赤。オリーブオイルが光っていた。
角田が食べた。にんにくの匂いがした。辛かった。塩味。シンプルだった。長谷川のかけと同じ構造。必要なものだけ。余計なものがない。
花森がカルボナーラを食べながら言った。
「角田先生、来週から出張なんですよね」
「はい。大阪です」
「何日くらいですか」
「五日ほどです」
「リュカさんの件、何かやっておくことありますか」
角田は鞄から図面のコピーを出した。赤ペンの✓がついたもの。テーブルの上に置いた。パスタ皿の横に。
「内装が完成したら、ここに✓がついている箇所を確認してください」
花森が図面を受け取った。赤い✓と「要確認」の文字を見た。
「角田先生の字ですね」
「はい」
「分かりました。ちゃんと確認します」
花森が図面をクリアファイルに入れた。丁寧に入れた。
角田はペペロンチーノを食べ終わった。皿の上にオリーブオイルが残っていた。パンがあれば拭いたかもしれない。パンはなかった。
「角田先生、大阪楽しんできてくださいね」
「仕事です」
「串カツ食べてくださいよ」
「串カツですか」
「おいしいらしいですよ! 二度漬け禁止なんですって」
角田はコップの水を飲んだ。
「じゃあ食べたら教えてくださいね」
角田は頷いた。
会計は別々だった。角田は八百五十円を出した。花森は千二百円を出した。カルボナーラの方が高かった。




