第6話 消えた産声
翌朝、角田は七時前に目が覚めた。
窓の外は白かった。夜のうちに積もった雪が、昨日よりさらに高くなっている。空は鉛色。雲の切れ目がない。
炬燵の上に、昨夜並べた書類がそのまま残っていた。チェックリストのコピー。死亡届の記載事項証明書。養子縁組届の断片。角田はそれらを一つずつクリアファイルに戻し、鞄に入れた。
携帯電話を開いた。秋田地方法務局の開庁時間は八時半。まだ一時間以上ある。
隣の部屋から、黒田のいびきが聞こえた。壁が薄い。
角田は階段を降り、一階の食事処に行った。女将がすでにストーブの前で新聞を読んでいた。
「おはようございます。朝食前に、電話をお借りできますか」
「いいですよ。帳場のを使ってください」
八時三十二分。角田は秋田地方法務局に電話をかけた。
「秋田地方法務局ですか。行政書士の角田と申します。旧雄勝郡鴉森村の本籍者に係る出生届の記載事項証明書について、お尋ねしたいことがあります」
担当者が出るまでに三分かかった。戸籍課の職員が電話に出た。
「昭和三十二年の出生届ですか。……相当古い資料ですね」
「保存期間は承知しています。廃棄されている可能性があることも。ただ、旧鴉森村分の届書が合併時に横手市経由で移管されたかどうかだけでも、確認いただけませんか」
「お調べしますが、お時間をいただきます。午後には回答できると思います」
「お願いします」
角田は電話を切った。期待はしていない。七十年前の届書が残っている確率は低い。だが可能性がゼロでない限り、確認する。
食事処に戻ると、黒田がすでに座っていた。湯気の立つ味噌汁を啜っている。
「お前、朝から電話してたろ」
「法務局に確認を」
「出生届?」
「ええ。残っていないとは思いますが」
「残ってなかったらどうすんだ」
「別の手段を使います」
黒田は味噌汁の椀を置き、焼き魚を箸で崩した。
「別の手段ってのは」
「須藤さんです」
黒田の箸が止まった。
「志織が言ってた、蔵を見張ってた近所の人か」
「元役場勤務だと聞きました。善造と同じ時代に鴉森村の役場にいた人間がいるなら、当時のことを知っている可能性がある」
「……角田、お前は書類の人間じゃなかったのか」
「書類がないなら、書類を知っている人間に当たります」
角田は朝食の膳に手をつけた。白米、味噌汁、焼き鮭、漬物。漬物の中に、茶色い薄切りが二枚あった。表面に燻されたような色がついている。角田は一切れを箸で取り、口に入れた。
硬かった。歯で押しても、すぐには割れない。奥歯で噛みしめると、乾いた音がして、燻製の匂いが口の中に広がった。大根とは思えない密度。煙の苦みと、塩の甘さが交互に来る。
「いぶりがっこだな」
黒田が自分の皿の分を一枚つまみ、バリバリと音を立てて噛んだ。
「こいつはうめえ。東京のスーパーで売ってるのとは別モンだ。噛むたびに煙が出る」
角田は二枚目には手をつけなかった。一枚で十分だった。味の記憶は残った。
*
午前九時半、志織が宿に迎えに来た。
「須藤さんに連絡しました。午前中なら家にいるそうです」
「ありがとうございます」
三人は志織の車で集落に向かった。草薙家の手前で右に折れ、二百メートルほど進んだところに、須藤の家があった。トタン屋根の平屋。煙突から煙が上がっている。
玄関のチャイムを押すと、すぐにドアが開いた。
七十代後半の男性。小柄で、顔の皺が深い。灰色のフリースに作業ズボン。足元はスリッパ。
「須藤さんですか。角田と申します。志織さんの代理人で——」
「ああ、聞いてる聞いてる。東京から来た先生だべ。さ、入って。寒いから」
居間に通された。石油ファンヒーターが唸っている。座卓の上にみかんが山盛りになった籠と、使い古しの灰皿。黒田が灰皿を見て、胸ポケットの煙草に手を伸ばした。
「吸っていいですか」
「どうぞどうぞ。俺も吸うから」
黒田が煙草に火をつけた。須藤も自分の煙草に火をつけた。二人の煙が天井に向かって昇っていく。角田は煙草を吸わなかった。
「須藤さん。いくつかお聞きしたいことがあります」
「善造のことだべ」
「はい。まず、慎二さんが蔵から箱を持ち出したのを見たのは、いつですか」
「四日前だ。朝の六時頃。俺は毎朝五時に起きるから、窓から見えた。慎二が蔵の鍵を開けて、段ボール箱を一つ抱えて出てきた」
「箱の中身は見えましたか」
「蓋が開いてて、中に本みたいなもんが見えた。母子手帳だと思った。俺も昔、役場で手帳の交付をやってたから、あの大きさは見覚えがある」
「須藤さんは、旧鴉森村の役場に勤めていたんですね」
「昭和四十年から平成十七年の合併まで。四十年だ。最初は庶務。最後は会計」
「戸籍の事務は」
「戸籍は善造がやってた。俺はノータッチだ。善造は戸籍だけは人に触らせなかった」
角田の指が、膝の上で止まった。
「触らせなかった」
「そうだ。戸籍の台帳は善造の机の引き出しに入っていて、鍵をかけてた。俺が何かの用で台帳を見ようとしたら、善造が飛んできて取り上げた。あれは善造の聖域だった」
「善造さんが役場に入ったのはいつですか」
「昭和四十二年だ。俺の二年後。善造は高校を出て少ししてから役場に入った。二十一の時だ。親父が決めたんだろう」
「それ以前は?」
「善造の親父さん——善蔵じいさんが、役場の戸籍をやっていた。善蔵じいさんは村長も兼ねてたから、村のことは全部あの家が仕切ってた」
角田は鞄からクリアファイルを出した。
「須藤さん。一郎さんのことを聞いてもいいですか」
須藤の煙草を持つ手が、わずかに揺れた。
「……一郎か」
「一郎さんは昭和三十二年生まれとされています。善造さんの長男として」
「されている、ね」
「……須藤さん。一郎さんが善造さんの実の子でないことを、ご存じですか」
居間の空気が変わった。ファンヒーターの唸りだけが聞こえる。黒田が煙草を灰皿に押しつけた。
須藤は新しい煙草に火をつけなかった。空の手で、みかんを一つ取った。皮を剥き始めた。ゆっくりと、爪で皮に筋を入れ、剥いていく。
「……知ってるよ」
「いつから」
「最初からだ。俺が役場に入った昭和四十年には、もう一郎は善造の息子として育ってた。八つか九つだった。だが、村の年寄りは皆知ってた。一郎がどこから来たか」
「どこから来たんですか」
須藤はみかんを一房取り、口に入れた。噛みながら、窓の外を見た。雪が降り続けている。
「……善蔵じいさんの弟の子だ」
角田の目が動いた。
「善造の叔父の子」
「善蔵じいさんには弟がいた。千蔵っつう男だ。体が弱くて——肺だったか。農業はできなかった」
須藤は煙草に火をつけず、指で転がした。
「善蔵じいさんが面倒を見てた。千蔵には嫁がいたが……嫁は子を産んですぐに死んだ。産後の肥立ちが悪くて。千蔵も、その翌年だったか、死んだ。残ったのは赤ん坊だけだ」
「その赤ん坊が一郎さん」
「……あの家のことは、あんまり聞くもんじゃなかった。善蔵じいさんは恐ろしかった。役場の廊下で会うだけで、背筋が冷えたもんだ」
須藤はみかんの房を一つ取り、口に入れた。種を灰皿に吐いた。
「善蔵じいさんが赤ん坊を引き取った。だが養子縁組はしなかった。善造の子として届け出た。善造はまだ十一の餓鬼だ。だが善蔵じいさんは戸籍を握ってたから——」
「十一歳の子の長男として出生届を出した」
「そうだ。誰にも文句は言わせなかった」
「なぜ養子縁組にしなかったんですか」
須藤がみかんの二房目を口に入れた。
「草薙の家は、男の子がいなきゃならなかった。千蔵の子を養子にしたら、戸籍に『養子』と残る。善蔵じいさんはそれが嫌だった。一郎を善造の長男にしておけば、善造が嫁を取って子が生まれても、一郎が長男だ。草薙の跡取りは、戸籍上は善造の血を引く長男。誰にも文句は言わせない」
「しかし善造は十一歳です」
「善蔵じいさんは、そんなことは気にしなかった。村の戸籍は善蔵じいさんが握ってたんだ。紙の上で何を書こうが、誰も見ない。村の人間は全員知ってたが、誰も何も言わない。草薙に逆らう奴はいなかった」
黒田が口を挟んだ。
「村ぐるみか」
「村ぐるみ——というか、善蔵じいさんには誰も逆らえなかっただけだ。土地も持ってる、役場も握ってる。逆らったら、村にいられなくなる」
角田は須藤を見ていた。須藤はみかんの皮を座卓の上に散らかしたまま、柑橘の鋭い匂いが居間に充満していた。
「須藤さん。もう一つだけ」
「何だ」
「一郎さんの元の名前を、ご存じですか」
須藤の手が止まった。
「……千一郎」
「千一郎」
「千蔵の子だから、千一郎。善蔵じいさんが『千』を取って『一郎』にした。草薙千一郎では千蔵の子だとバレるからな」
角田は赤ペンを取り出し、手帳に書いた。千一郎。千蔵。善蔵。
名前の断片「千」。志織が子供の頃に桐の箱の中で見たという、産着に添えられた名前。
角田は手帳を閉じた。
「須藤さん。蔵の中に、桐の箱がありませんでしたか。産着や着物が入った」
「ああ、あったよ。千一郎のもんだ。善蔵じいさんが死んだ後も、善造が蔵にしまっておいた。捨てられなかったんだろう」
「その箱を、最後に見たのはいつですか」
「……五年くらい前かな。善造に頼まれて蔵の掃除を手伝った時に、奥にあった。それからは見てない」
角田は立ち上がった。
「ありがとうございます。大変助かりました」
須藤がみかんの最後の一房を口に入れ、種を灰皿に吐いた。
「角田さん」
「はい」
「善造は悪い人間じゃなかった。千一郎を——一郎を、本当の息子として育てた。戸籍の嘘はあったが、愛情は嘘じゃなかった。それだけは言っておく」
角田は頭を下げた。何も言わなかった。
*
須藤の家を出ると、雪が強くなっていた。視界が白い。
「角田」
黒田が煙草の煙を吐きながら言った。
「善蔵が出生届を操作して、善造が電算化を操作した。親子二代で戸籍をいじってたわけだ」
「ええ」
「一郎——千一郎は、善造の従兄弟の子。善造の叔父の子。血は繋がってるが、親子じゃない」
「ええ」
「じゃあ、問題は変わってないな。千一郎が三回死んでる理由だ。一回目は認定死亡で、善造が届けた。二回目は平成二十六年、肝硬変。三回目は令和三年、慎二が届けた。なんで三回死ぬ必要がある」
「それは——」
角田の携帯電話が鳴った。秋田地方法務局からだった。
「角田さん、お問い合わせの件ですが、昭和三十二年の出生届の届書は、当局には保管されておりません。保存期間経過後に廃棄されたものと思われます」
「分かりました。ありがとうございます」
角田は電話を切った。
「法務局、空振り。出生届は廃棄済みだそうです」
「だろうな。七十年前だもんな」
「ただ——」
角田は鞄から手帳を出した。須藤の証言を書き留めた頁を開いた。
「出生届がなくても、戸籍の記載は残っている。そして今、須藤さんの証言がある。千一郎という名前が実在したこと。善蔵が出生届を操作したこと。善造が戸籍事務を引き継いだこと。主張の骨格は組み立てられる。ただし立証には、さらに客観的な裏付けが要ります」
「組み立てるって、どうやって」
「親子関係不存在確認の訴えです。志織さんが家庭裁判所に申し立てる。確定判決を得れば、戸籍法百十六条で戸籍の訂正ができる。一郎が善造の実子でないことが確定すれば、戸籍上の『長男』記載は抹消される」
「つまり一郎は相続人じゃなくなる」
「単純にはそうならない。二つ問題がある」
角田は手帳の余白に書き込みながら話した。
「一つ目。虚偽の出生届であっても、養子縁組の意思と実態があったと認められれば、出生届を養子縁組届として扱う判例がある。善造が千一郎を実の子として育てた事実があるから、この主張が出てくる可能性がある」
「誰が主張するんだ」
「千一郎の利益を代弁する側です。つまり、千一郎の名前を使って相続手続きを進めた人間」
黒田が眉を上げた。
「二つ目は?」
「一郎の死亡時期です。善造が亡くなったのは令和六年。一郎が善造より先に死亡していれば、そもそも相続人にならない。問題は、三つの死亡届のどれが『本当の死』なのか。認定死亡なら昭和六十二年だが、認定死亡は反証があれば覆る。善造が電算化で一郎を生存者として残したのは、認定死亡を事実上なかったことにするためだ。一郎が善造の死亡時に生存していたことにすれば、一郎は善造の法定相続人になる」
「……誰かがそれを利用した」
「ええ。一郎——千一郎は善造のいとこにあたる。いとこには法定相続権はない。だが戸籍上『長男』として記載されている限り、相続人として扱われる。その記載を維持し、一郎の死亡時期を操作すれば——」
「相続を乗っ取れる」
黒田が煙草を雪の中に捨て、踵で踏んだ。
「……角田。お前、最初からこれを狙ってたのか」
「いえ。千蔵という名前を聞くまで、ここには辿り着けなかった」
「にしちゃ、手際がよすぎるがな」
角田は答えなかった。手帳を閉じ、鞄にしまった。指先が震えているのを、自分で気づいていた。
志織が車の中から二人を見ていた。角田が車に戻ると、志織が小さな声で言った。
「角田先生。須藤さんが言ったこと……千一郎という名前……」
「志織さんが子供の頃に見た名前は、『千』で始まっていた。千一郎のことだと思います」
志織は頷いた。だが、何か言いかけて、口を閉じた。角田はそれに気づいていた。
「何か」
「……いえ。あとで」
また、あとで。角田は志織の横顔を見た。この人は、まだ何かを持っている。
「蔵に行きます」
角田が言った。
「桐の箱がなくなっている。慎二さんが持ち出したのなら、他にも持ち出されたものがあるかもしれない。蔵の中を確認する必要がある」
「……はい」
「志織さんは相続人です。蔵は遺産の一部だ。立ち入る権利はある」
車は草薙家に向かった。門の前に慎二の姿はなかった。雪かきの跡も新しくない。留守だった。
蔵の前に着いた。錠前はまだ外れたままだった。扉の隙間から、冷えた紙の匂いがした。
角田は扉に手をかけた。重い木の扉が、雪を噛んで軋んだ。
中は暗かった。スマホのライトを点けた。白い光が、蔵の中を照らした。
棚が壁面を覆っている。茶色いファイル、段ボール箱、古い帳簿。埃が厚く積もっている。足跡が二種類あった。ゴム長靴と、女性の靴。志織がうつむいた。
「……この奥です。桐の箱があったのは」
蔵の奥に進んだ。棚の最上段に、空いたスペースがあった。埃の形が箱の跡を残している。四角い痕跡。確かにここに箱があった。
角田はスマホのライトを棚の隅に向けた。箱の跡の横に、何かが落ちている。小さな紙片。
拾い上げた。
写真だった。
白黒の、古い写真。端が黄ばんでいる。裏に鉛筆書きで日付がある。昭和三十三年。
表を見た。
男が一人、赤ん坊を抱いている。男の顔は若い。二十代前半。頬がこけている。体が細い。だが赤ん坊を抱く腕に力が入っているのが、写真越しに分かる。
裏の鉛筆書きをもう一度読んだ。
「千蔵と千一郎。昭和三十三年一月」
角田は写真をビニール袋に入れた。
蔵の中で、角田は動かなかった。手元の写真を見ていた。千蔵と千一郎。昭和三十三年。この写真が撮られた翌年、千蔵は死んだ。千一郎が草薙一郎になる前の、最後の記録だった。
「角田」
黒田の声がした。蔵の入口に立っている。
「どうした。何かあったか」
「写真です。千蔵と千一郎の」
「……見せろ」
黒田が蔵の中に入ってきた。写真を見た。黒田の顔から、いつもの軽さが消えた。
「こいつが千蔵か。……痩せてるな」
「体が弱かったと、須藤さんが言っていました」
「赤ん坊を抱いてる腕だけは、しっかりしてるがな」
黒田は写真を角田に返した。
「角田。これで一郎が誰か分かった。だが三回死んだ理由はまだだ」
「ええ」
「一回目の認定死亡。昭和六十二年。転落による死亡と認定——千一郎は本当に転落して死んだのか? それとも、善造が千一郎を『殺した』のか。書類の上で」
角田は蔵の出口に目を向けた。扉の隙間から、白い雪が見えた。
「善造が千一郎を書類上で殺す動機がない。千一郎は善造の長男として育てられていた。相続人として、家を継ぐはずの人間だった。殺す理由がない——普通なら」
「普通じゃなかったんだろ」
「……ええ。何かがあった。昭和六十二年に、何かが」
角田は蔵を出た。雪が靴に積もった。
門の前に、軽トラックが停まっていた。さっきまでなかった車だ。
母屋の玄関が開いている。
「……慎二が帰ってきたな」
黒田が声を低くした。
玄関の奥から、声がした。慎二の声ではなかった。年配の男の声。低く、落ち着いている。
「——草薙さん。遺産分割の件ですが、急いだ方がよろしいかと」
角田の足が止まった。
「志織さん。慎二さんが頼んだ『先生』というのは——」
「……はい。あの声です」
母屋の中から、足音が近づいてきた。玄関に、男が現れた。
六十代。グレーのコート。革靴。角田と違って、この雪の中で革靴を履いている。右手に黒い鞄。左手に名刺を持っていた。
「おや。あなたが東京から来た行政書士さんですか」
男が名刺を差し出した。角田は受け取った。
宮城行政書士事務所。宮城泰三。横手市。
「宮城先生。慎二さんの代理人ですか」
「代理人というほどのものではありません。草薙家とは先代からのお付き合いでしてね。善造さんの頃から、いろいろとお手伝いさせていただいています」
角田は名刺を見つめた。先代からの付き合い。善造の頃から。
宮城が微笑んだ。唇は柔らかく弧を描いていたが、その上の瞳は角田の鞄の底を見透かすように動かなかった。
「角田先生、少しお話しませんか。この家の事情は、東京の方が思われているより、少々複雑でしてね」




