第5話 稲庭の沈黙
宿は鴉森村の集落を抜けた先にあった。
県道沿いの、古い二階建ての建物。看板は「山荘かわむら」とあるが、山荘というほどの規模はない。玄関の引き戸を開けると、灯油ストーブの重い匂いがまず来た。その奥に、湿った畳の匂いが沈んでいる。
「すみません、予約していた草薙です」
志織が声をかけると、奥からエプロンをした六十代の女性が出てきた。
「あら草薙さん、お待ちしてましたよ。……お連れさんは」
「東京から来た方です。二部屋お願いしてあります」
「はいはい。二階の角と、その隣ね」
角田と黒田は靴を脱ぎ、階段を上がった。廊下の窓から、雪に覆われた裏山が見えた。杉の枝が垂れ下がり、重そうに揺れている。風はないのに、時折、枝から雪の塊が音もなく落ちた。
「お食事、七時でいいですか」
女将の声が階段の下から聞こえた。
「お願いします」
角田は部屋に入り、鞄を畳の上に置いた。六畳間に炬燵と座椅子。窓の外は暗くなり始めている。午後四時半。日が短い。
鞄からチェックリストのコピーと、養子縁組届の紙片を入れたビニール袋を取り出した。炬燵の上に並べた。
赤ペンを手に取り、チェックリストを見た。善造の署名。これと照合すべき書類がもう一つある。角田は鞄の底から、別のクリアファイルを引き出した。死亡届の記載事項証明書のコピー。三通。
一枚目を開いた。昭和六十二年の認定死亡に係る届出。届出人「草薙善造」の署名。
チェックリストの署名と並べた。
筆圧、字の大きさ、偏と旁のバランス。角田の目が二枚の紙の上を何度も往復した。善造の「善」の字。四画目の横棒が右に長く伸びる癖。両方に同じ癖がある。
だが、チェックリストの備考欄——「照会の結果、入力対象と判断。担当確認済」の追記は、署名とは筆跡が違った。
角田はペンを止めた。
善造は入力確認者として署名している。だが、備考欄の追記を書いたのは善造ではない。別の人間が「入力対象と判断」した。善造の名の下で、しかし善造の手ではなく。
では、誰が。
隣の部屋から、黒田の声がした。壁が薄い。
「角田ァ、飯まだか。腹減って死にそうだ」
「七時です」
「まだ二時間もあんのかよ」
角田はチェックリストをクリアファイルに戻した。養子縁組届の紙片を、もう一度見た。昭和——年。筆文字。この書式は昭和三十年代から四十年代に使われていたものに見える。紙の質と変色の度合いからも、少なくとも五十年以上前のものだろう。
角田はペンを置き、天井を見た。木目が染みで変色している。
昭和三十二年。一郎の生年。
昭和二十一年。善造の生年。
差は、十一。
十一歳の父親は存在しない。
角田は目を閉じた。この数字は、志織が事務所に来た日から手元にあった。改製原戸籍に書いてあった。善造の生年も、一郎の生年も。計算すれば済む話だった。
だが、十一歳の父親は存在しない。
指先でなぞった「昭和三十二年」の数字が、急に熱を帯びた。公正証書原本不実記録。刑法百五十七条。だが七十年前の犯罪だ。公訴時効はとうに過ぎている。問題は罪ではない。この操作が、今の相続に何をもたらしているかだ。
角田は炬燵から出て、窓を開けた。冷気が部屋に流れ込んだ。雪の匂いがする。
書類が嘘をつくのは、嘘を書いた人間がいるからだ。草薙善造は、自分の戸籍に、血の繋がらない人間を「長男」として入れた。養子縁組届の断片は、その痕跡かもしれない。だが養子縁組なら戸籍に「養子」と記載される。一郎の記載は「長男」だ。養子ではなく、実子として。
実子として入れるには——。
出生届の虚偽記載。あるいは、別人の戸籍との接合。いずれにしても、善造が戸籍担当者でなければ不可能な操作だ。
角田は窓を閉めた。七時まであと一時間四十分。
*
一階の食事処は八畳ほどの広さで、座卓が三つ並んでいた。他の客はいない。
角田と黒田が座ると、女将が盆を運んできた。
「今日は稲庭うどんにしましたよ。お鍋もありますけど、まずはこれを食べてみて」
座卓の上に、丸い漆塗りの器が置かれた。器の中に、氷水で締められたうどんが盛られている。
白かった。
紙の白さではない。もっと透き通っている。光を受けて、麺の一本一本が薄く影を落としている。細い。均一に細い。角田は箸を取り、一本だけ持ち上げた。麺が箸の間でしなった。自重でゆっくりと垂れる。切れない。
「つけ汁はそちらの小鉢です。薬味はお好みで」
女将が去った。黒田はすでに麺を掴んでいた。太い指で箸を挟み、無造作につけ汁に潜らせ、一気に啜り上げた。
「……うめえ」
黒田の声が低くなった。本気で言っている。
「こりゃ、噛む必要がねえな。勝手に落ちていく」
角田は麺を三本ほど箸で取り、つけ汁の縁に軽く触れさせた。汁に浸すのではなく、表面だけを濡らす。口に入れた。
冷たかった。舌の上を滑り、歯で噛む前に喉の奥へ消えた。噛む暇がない。小麦の甘さが、冷たさの奥から遅れて来る。食感ではなく、温度と甘みだけが残る。
角田はもう一口。今度は五本。同じように、つけ汁の表面だけを撫でるようにして口に入れた。喉仏が動いた。目を閉じなかった。黒田のように感嘆もしなかった。ただ、箸を動かす速度がわずかに上がった。
「角田、お前それ気に入ってんだろ」
「普通です」
「嘘つけ。箸が速えよ」
黒田が二杯目のつけ汁を女将に頼んでいる間に、角田は器の底が見えるまで食べ終えていた。最後の一本を、汁をつけずにそのまま口に入れた。麺そのものの味を確認するように、一度だけ噛んだ。
志織は遅れて食事処に来た。席についたが、箸をつけなかった。器の中の白い麺を見つめている。
「志織さん」
角田が声をかけた。
「食べてから話しましょう。冷たいうどんは伸びないが、体が冷える」
志織は頷いた。箸を割り、麺を少しだけ口に入れた。ゆっくりと噛んでいる。
*
食後、女将が茶を運んできた。黒田が煙草を吸いたそうに胸ポケットを触ったが、食事処の壁に「禁煙」の張り紙がある。舌打ちをして、茶を一口飲んだ。
角田は座卓の上にクリアファイルを置いた。
「志織さん。宿に着いたら話すと言いましたね」
「……はい」
「その前に、一つ確認させてください」
角田はファイルから死亡届の記載事項証明書のコピーを取り出した。一枚目。昭和六十二年の認定死亡。
「一郎さんの生年月日。昭和三十二年三月十五日。これはお父さん——善造さんの戸籍にそう記載されている」
「はい」
「善造さんの生年月日は、昭和二十一年十月二日」
「……はい」
「差は十年五ヶ月です。善造さんが十一歳の時に、一郎さんが生まれたことになる」
座卓の上の茶碗から、湯気が細く上がっていた。志織の手が膝の上で組まれている。指が白い。
「……知っていました」
「最初から?」
「……最初からではありません。父が亡くなってから、戸籍を取り寄せて初めて計算しました。それまで、一郎兄さんの年齢なんて考えたことがなかった。物心ついた時にはもう死んでいたから」
「善造さんに聞きましたか」
「聞けませんでした。父は一郎兄さんの話を一切しない人でしたから」
角田は赤ペンを取り出した。記載事項証明書の善造の生年を丸で囲み、一郎の生年を丸で囲み、二つの丸を線で結んだ。
「十一歳の父親は存在しません。一郎さんは善造さんの実子ではない」
黒田が茶碗を置いた。
「養子か」
「養子なら、戸籍に『養子』と記載される。だが一郎の記載は『長男』です。養子縁組の記録はない。実子として届けられている」
「実子じゃないのに、実子として?」
「出生届の虚偽記載です。善造が戸籍担当者として自分の戸籍に嘘を書いた。あるいは——」
角田は養子縁組届の紙片を入れたビニール袋を出した。
「養子縁組届を作成したが、提出しなかった。代わりに、出生届で実子として入れた。養子縁組届は不要になったから、蔵にしまった」
「なんでわざわざそんな面倒なことを」
「養子縁組なら法的には嫡出子と同じ相続分になる。権利上の不利益はない。だが戸籍に『養子』と記載される。昭和三十年代の地方の旧家で、当主の長男が養子——村中に知れ渡ります。善造は、あるいは善造の父は、それを避けたかった。実子として届ければ、戸籍上は誰にも分からない」
「見栄のためか」
「見栄かどうかは分かりません。ただ、この村で『養子』という記載がどういう意味を持つか。善造が戸籍担当者として、自分でそれを書かずに済む方法を選んだ」
志織が顔を上げた。
「角田先生」
「はい」
「一郎兄さんが……一郎兄さんと呼ばれていた人が、誰の子だったのか。私は知りません。本当に知らないんです。ただ——」
「ただ?」
「父の蔵には、もっと古い書類がありました。私が子供の頃に一度だけ見たことがある。蔵の奥の、桐の箱の中に」
「何が入っていましたか」
「……小さな着物と、産着。それと、名前が書いてある紙。でも、その名前は『一郎』じゃなかった」
角田の赤ペンが止まった。
「何という名前でしたか」
「……最初の一文字だけ。『千』だったか……いえ、はっきりとは」
「思い出してください。重要です」
「……思い出せません。子供の頃のことで。ただ、父に見つかって、ひどく叱られました。蔵に入るなと。それ以来、蔵には近づきませんでした」
「今日まで?」
志織が角田を見た。角田は志織を見返していた。
「蔵の前の足跡。志織さん、慎二さんが来る前に、蔵に入りましたね」
志織の手が膝の上で握りしめられた。
「……はい」
「何を見ましたか」
「桐の箱を探しました。子供の頃に見たあの箱を。でも——なかった。箱ごと、なくなっていました」
「慎二さんが持ち出した」
「分かりません。でも、段ボール箱に入っていた母子手帳と一緒に、桐の箱も——」
「母子手帳。誰の母子手帳ですか」
「須藤さんが見たのは、三冊です。私と慎二の分は分かります。もう一冊は——」
「一郎の」
「……一郎兄さんの名前で作られた母子手帳があったのなら、出生届は実際に出されたということです。十一歳の善造を父親として」
角田は立ち上がった。
「志織さん。明日、秋田地方法務局に問い合わせます。一郎の出生届の記載事項証明書が残っているかどうか」
「……残っているんですか」
「法務局の届書の保存期間は二十七年です。昭和三十二年の届出なら、とうに期限を過ぎている。廃棄されている可能性が高い」
「じゃあ——」
「ただし、届出が受理されたことは戸籍の記載そのものが証明している。一郎が善造の長男として入籍されている以上、出生届は受理された。問題は、届出人の欄に十一歳の善造の名前があったのか、それとも別の人間が届け出たのか」
黒田が腕を組んだ。
「だがよ、角田。昭和三十二年だろ。七十年近く前の届出だ。その頃の鴉森村の役場は——」
「善造の父親の代です。善造が戸籍担当になる前。つまり、善造の前に戸籍を管理していた人間がいる」
「善造の親父」
「草薙家が代々、村の戸籍を握っていた可能性がある」
黒田が口笛を吹いた。
「……一族で戸籍を管理してたってことか。昭和の時代に」
「小さな村です。人口数百人。役場の職員は二、三人。筆頭者の家が村長や役場の要職を兼ねるのは、地方では珍しくない」
角田は窓の外を見た。雪が降り続いている。音はない。志織の器の中で、稲庭うどんが手つかずのまま白く光っていた。
「志織さん。もう一つだけ」
「……はい」
「あなたが最初に事務所に来た時、三枚の除籍謄本を持っていた。あの時点で、一郎の年齢と善造の年齢を計算しましたか」
志織は答えなかった。
「……計算しました」
「それでも、私には言わなかった」
「……言えませんでした。父が——善造がやったことだと認めたくなかった。戸籍の間違いであってほしかった。事務過誤であってほしかった」
「事務過誤ではありません」
角田の声は平坦だった。だが、志織から目を離さなかった。
「草薙善造は、意図的に戸籍を操作した。一郎を実子として入れ、認定死亡の処理を保留し、死んだ人間を生存者として残した。なぜそこまでしたのか——それを調べるのが、今の仕事です」
志織は頷いた。冷め切ったうどんを箸で一本持ち上げ、口に入れた。飲み込むために、喉が大きく動いた。
「……お願いします」
黒田は茶碗を手にしたまま、何も言わなかった。胸ポケットの煙草に一度だけ指が伸びかけたが、壁の「禁煙」の張り紙を見て戻した。そのまま黙って茶を啜っている。啜る音が、志織の告白の余韻を塗りつぶすように重い。志織は黒田の方を見られなかった。うどんの器に目を落としたまま、箸を膝の上に置いた。
角田は養子縁組届の紙片を見ていた。昭和——年。破れた紙の向こうに、七十年前の鴉森村がある。善造の父が、真っ白な戸籍に見知らぬ子供を書き加えた。
志織の器の中で、稲庭うどんが半分ほど減っていた。残りは冷え切って、動かなかった。




