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書類は嘘をつかない  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
存在しない誕生日

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第4話 千住の足跡

 職務上請求書の下書きを三度書き直した。


 ——請求の理由:依頼者・金子鉄男の戸籍訂正に関する法務省上申手続きにおいて、帰化許可申請書作成者・佐伯誠一の陳述書が必要となるため、現住所の確認を要する。


 角田はペンを止めた。この一文が通るかどうかは分からない。法務省が陳述書を求めるかどうかも、まだ確定していない。猪瀬は「全て揃えていただければ」と言った。佐伯の陳述書が「全て」に含まれるかどうかは、角田の解釈だ。


 解釈で書類を通す。佐伯がやったことと同じだ。


 角田は壁際のスチール棚を見た。棚の中に、これまでの依頼人たちのファイルが並んでいる。この棚に書類を入れるたびに、建付けの悪い引き出しが軋む。七年間、毎日聞いた音だ。


 請求書を封筒に入れた。宛先は足立区役所。



        *



 五日後。返送された住民票の除票を開いた。


 佐伯誠一。足立区千住の住所は「転出済」。転出先は千葉県松戸市の住所だった。転出日は十二年前。


 千住の住所にはもういない。だが千住に事務所があった時期の痕跡は残っているかもしれない。


 角田は上着を取った。



        *



 北千住。


 駅を出ると、商店街のアーケードが続いていた。本所とは空気が違う。本所は川と鉄の匂いだが、千住は人の密度が高い。飲食店が並び、昼前から焼き鳥の煙が路地に流れている。


 角田は住民票に記載されていた住所を辿った。商店街を抜け、旧日光街道沿いの細い路地に入る。古い木造家屋とマンションが混在する一角。


 佐伯の住所があった場所には、三階建てのアパートが建っていた。築十年程度。佐伯が住んでいた頃の建物ではない。


 角田は周囲を見た。アパートの隣に、古い印判店があった。店頭のガラスケースに、象牙の認印と柘植の実印が並んでいる。行政書士が近くにいれば、印鑑を作る客も来る。接点があった可能性はある。


 店に入った。カウンターの奥に、七十代くらいの男が座っていた。老眼鏡をかけて、新聞を読んでいる。


「すみません。少しお伺いしたいことがあるのですが」


 男は新聞を畳んだ。


「はい」


「以前この近くに、佐伯誠一という行政書士が事務所を構えていたことがあると聞いています。ご存知でしょうか」


 男は老眼鏡を外した。角田を見た。


「佐伯さん。知ってるよ。隣にいたんだから」


「隣」


「今のアパートが建つ前、ここに二階建ての長屋があった。一階が佐伯さんの事務所で、二階が住まいだった。十二、三年前に取り壊しになって、佐伯さんは出ていった」


「佐伯先生はどんな方でしたか」


 男は腕を組んだ。


「静かな人だったよ。朝早くに事務所を開けて、夜遅くまで電気がついていた。客は多かった。韓国の人、中国の人。日本語が片言の人も来てた。あの頃はこの辺にも多かったからな」


「帰化の申請を専門にされていたと聞いています」


「詳しいことは知らないが、そうだろうな。うちにも実印を作りに来る人がいた。佐伯さんの紹介でな。帰化したら日本の名前がいるだろう。それで実印を作る。佐伯さんがいた頃は、年に何本も彫った」


 角田は手帳を出した。


「佐伯先生の仕事ぶりについて、何か印象に残っていることはありますか」


 男はしばらく黙った。


「……無茶な人だった」


「無茶」


「深夜に電話が鳴って、外に出ていくことがあった。誰かに呼ばれて。朝になっても帰ってこないこともあった。士業の先生ってのは、もう少し落ち着いた商売だと思ってたが、佐伯さんは違った」


「何をしていたか、聞いたことは」


「聞かない。聞いても答えない人だった。ただ一度だけ——」


 男は目を細めた。


「夜中に長屋の壁越しに、佐伯さんの声が聞こえたことがある。電話だったと思う。怒鳴ってたな。あの人が声を荒らげるのは珍しかった。……なんだったかな。帰れないとか、通らないとか、そんなことを言ってた気がする。それだけは覚えてる」


 角田はペンを止めた。


「通らない、帰れない」


「そんな感じだったと思う。三十年も前だからな、正確には覚えてないよ」


 角田は手帳に書いた。佐伯の声。壁越し。「通らない」「帰れない」。深夜。声を荒らげた。


「佐伯先生がここを出ていった時のことを覚えていますか」


「長屋を壊すって話が出て、半年くらいかけて荷物をまとめてた。本が多くてな。段ボール箱を何十個も運び出してた。最後の日に、うちの店に来て『長い間お世話になりました』と言った。菓子折りを持って。それきりだ」


「転居先は」


「千葉の方だと言ってたが、どこかは聞いてない」


 角田は頭を下げた。


「ありがとうございました」


「佐伯さんに何かあったのか」


「佐伯先生が昔作った書類について、確認したいことがあります」


 男は頷いた。


「あの人はお人好しが過ぎたんだよ。頼まれたら断れない。それでいて、帰りが遅くなっても文句一つ言わない。ただ黙って、朝になったら事務所を開ける」


 角田は印判店を出た。



        *



 千住の商店街を抜けて、駅に向かった。


 佐伯の転出先は松戸。十二年前の住所だ。今もそこにいるかは分からない。だが角田がまず必要なのは佐伯の現在の状態だ。生きているのか。話ができる状態なのか。除票だけでは分からない。


 駅の改札の手前で、電話が鳴った。鉄男だった。


「先生。韓国の書類、届いたかい」


「まだです。大使館の処理に時間がかかっています」


「……そうか」


 電話の向こうで、鉄男が咳をした。短く、乾いた咳だった。


「先生。俺はな、自分の誕生日がいつか、本当は知らない」


「……はい」


「おふくろは三月一日だと言ってた。親父は何も言わなかった。役所の紙には二月二十九日と書いてある。でも、それが本当かどうか、俺にも分からない」


「鉄男さん。正しい日付は、書類を揃えれば分かります」


「正しい日付ってのは、誰が決めるんだい」


 角田は答えなかった。


「……書類が届き次第、ご連絡します」


「頼むよ」


 電話が切れた。


 角田は改札を通った。ホームのベンチに座った。手帳を開いた。


 ——佐伯誠一。千住の印判店主の証言:「無茶な人」「深夜に声を荒らげた。通らない、帰れない」「お人好しが過ぎた」

 ——転出先:松戸市。除票で判明。十二年前の住所。現在の状態は不明。

 ——鉄男:「正しい日付ってのは、誰が決めるんだい」


 電車が来た。角田は乗った。


 窓の外を荒川の鉄橋が過ぎた。川面が午後の光を反射していた。


 印判店の男は言った。「お人好しが過ぎた」。黒田が聞いた行政書士は「受けるべきじゃない案件も受けてた」と言った。断らない男。受ける男。同じことだ。


 佐伯は「通さなければ帰れない」書類を、通した。鉄男の父が命からがら持ってきた記録を、日本の戸籍に変換した。その変換の過程で、二年がずれた。ずれたのか、ずらしたのか。


 まだ分からない。


 角田は手帳を閉じた。松戸に行かなければならない。

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― 新着の感想 ―
少しずつ渦中へ近づきつつ、鉄男さんの、先生。俺はな、自分の誕生日がいつか、本当は知らない、という言葉が胸にきました。依頼者のアイデンティティを背負う角田さんかっこいいです。
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