第13話 願いの神
ここは。
誰の心の中にでも存在する精神世界。
人が笑えば、そこに喜びが生まれる。
人が悲しめば、そこに悲しみが生まれる。
怒り、恐れ、憎しみ、愛、希望――。
生きるものが心を持つ限り、この世界には無数の感情が生まれ続ける。
そして、その感情そのものを司る存在がいる。
人々は彼らを――『神』と呼んでいた。
もっとも。
神と呼ばれる存在であっても、自由に人に、その心へ干渉できるわけではない。
感情は、その生物自身のものだからだ。
誰かの喜びを奪うことも。
誰かの悲しみを消すことも。
誰かに無理やり愛を抱かせることも。
それは、神々の領分ではない。
神々はただ、そこにある感情を見守る。
時に、その感情から生まれた世界に姿を現す。
そして――願いが生まれたとき。
その声を聞く者がいる。
「……お兄ちゃんと、遊びたい……」
それは、小さな声だった。
けれど、それは確かに届いた。
真っ白な世界。
見上げる空も、踏みしめる大地すら存在しない。
無限と一歩が等しく、永遠と一瞬が溶け合う場所。
ただただ、果てのない白だけが満ちている。
その虚白の中心に、一人の女性が立っていた。
――願いの神、ルピエ・ヴィーガ。
腰まで伸びた金色の髪と、金糸の装飾が閃く純白の長衣。
風の吹かない世界で、彼女の髪だけが静かに揺らめいていた。
彼女は目を閉じ、その声に耳を傾けている。
「…………」
その声の主は、少女だった。
少女に残された命は、もうほとんどなかった。
身体は思うように動かない。
それでも、意識だけははっきりしていた。
だからこそ――彼女には、願いがあった。
兄と、もう一度遊びたい。
それだけ。
ルピエは目を開き、少女の前へと姿を現した。
「こんばんは。希さん」
「……え?」
少女――希は言葉を失い、ルピエを見つめた。
目の前にいるのは、見たことのない女性。
希の声は震えていた。
「あなたは……誰ですか?」
「私は――」
ルピエは優しく微笑む。
「あなたの願いを聞き届ける者です」
希は首を傾げた。
「願いを……?」
ルピエはそんな希を見つめながら、その心の奥にあるものを感じ取っていた。
兄に会いたい。
兄と遊びたい。
もう一度、一緒に笑いたい。
それは、叶えられるかもしれない願いだった。
ルピエは希から少し離れた場所へ視線を向ける。
そこに、一人の少年――兄の姿が浮かび上がった。
『鏑木快斗』
ルピエは、しばらく快斗を見つめた。
そして――ほんの少しだけ目を細める。
彼の心の奥底に。
魂そのものに宿る――不思議な強さ。
『……願いを、諦めない力』
ルピエの瞳に、かすかな光が宿る。
それは、ルピエが長い間探していたものだった。
『私の……願い』
ルピエは柔らかな微笑みを浮かべ、希へと語りかけた。
「はい。あなたは、その病気のことを気にせず、お兄さまとお会いになれます――」
そして、二人が会う世界を用意した。
白い空間が消えていく。
剣と魔法。
巨大な城。
広大な草原。
数え切れないほどの魔物たち。
――『Beyond Prayer』。
快斗と希が知っている世界。
正確には、それに似せて作られた世界。
そして、願いを叶えるための代償。
ルピエが希へ与えたのは、自由に動ける身体――『月蝕の魔女』。
その背後には、彼女に残された時間を示す五つの灯火が、静かに浮かんでいた。
現実世界で抱く『願い』や『感情』が強いほど、この世界でも、その力は強くなる。
だからこそ――今の快斗では、月蝕の魔女となった希には届かない。
それもまた、ルピエの狙いだった。
快斗自身の願いを、目覚めさせるために。
ルピエはガイド――導く者として、快斗の前に立った。
父の苦しみ。
母の痛み。
近所の女性の孤独。
捨てられた猫。
そして、人の悪意。
この世界に現れる魔物は、生きとし生けるものの心から生まれる。
苦しみ。
怒り。
悲しみ。
憎しみ。
恐怖。
誰かの心に生まれた感情が、この世界では魔物という形を取る。
快斗は、魔物と戦い続けた。
現実でも、自らを鍛え続けた。
快斗は魔物を倒すうちに気付いた。
『俺が倒しているものは何だ?』
『現実の誰かを助けられるってことか?』
そして。
『次は、誰の願いだ?』
だから、ルピエは希の願いを叶えるため、快斗を館に招いた。
そして同時に、快斗自身の深い絶望の先にある願い――。
『希を助けたい。また、一緒に遊びたい』
その強い想いを、目覚めさせるために。
ルピエは快斗が本来持つ力――命喰らいを解放した。
それは快斗の持つ特別な力。
例え神の力を使ったとしても、希の寿命を伸ばすことはできない。
しかし、快斗の特別な力を使えば、それが可能かもしれない。
神であるルピエの賭け。
一度目の対峙で、希の願いは叶えられた。
しかし――快斗の願いは、叶わなかった。
そして。
ルピエの賭けも。
その願いも――届かなかった。
しかし、快斗は再びやってきた。
ルピエは快斗を止めた。希も限界。
「今のあなたでは、また負けます」
しかし、快斗は気づいていた。
「勝ち負けじゃない――」
自分が何を成すべきなのかを。
「希を助けたい――」
二度目の対峙。
希は残されたすべての命を、快斗と会うために差し出した。
そして快斗は――その願いを、すべてを受け入れた。
命喰らいを使い、自らの命を削って。
妹を救うために。
これまでの試練で、快斗は何度も追い込まれていた。
本気で「もうやめたい」と願えば、この世界から離れることもできた。
逃げることもできた。
諦めることもできた。
希の願いが叶わないだけなら――そこで終わってもよかった。
それでも、快斗は進んだ。
妹の死を前にしても。
自分自身の命を削ることになっても。
「…………」
ルピエは、その光景を見つめていた。
「……そう」
ルピエが微笑む。
「あなたは、自分の願いを見つけた」
白い光が、世界を包んでいく。
希の手に、生命循環の指輪が輝く。
「……彼らなら」
ルピエは呟く。
願いを失わない人間は、前へ進むことができる。
願いを失った人間は、そこで立ち止まってしまう。
ルピエは遠くを見る。
「快斗なら……できるかもしれない」
小さく呟いた、その時だった。
空間の『白』を押し破るように、破天荒で強烈な神気が満ちる。
「あーははははっ!」
突然、明るい笑い声が響いた。
「どうした、ルピエよ!」
ルピエが振り返る。
そこには、一人の男――歓喜の神、アロザ・ガーディスが立っていた。
「何か楽しいことでも見つけたか?!」
アロザは、心底楽しそうに笑っている。
ルピエの周囲で起きていたことに、ほんの少しだけ興味を持った。
ほんの少しだけ。
ルピエは一瞬だけ快斗を思う。
そして、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「なにも、ありませんわ」
「ほう?」
アロザは楽しそうに目を細める。
「そうか、そうか!」
それ以上、彼は踏み込まなかった。
神々は互いに干渉しない。
それが、この世界の暗黙の了解だった。
感情は、生きるもの自身の自由だからだ。
喜びも。
悲しみも。
怒りも。
恐怖も。
そして――願いも。
どの感情にも、優劣はない。
神であろうと、それを決めることはできない。
だから神々は、互いの領域へ踏み込まない。
ただ、見守る。
そう見守るだけ――。




