第1話 午前二時半
鎧のような甲殻に覆われた巨腕が、空間を引き裂いて振り下ろされた。
地面が砕け、土煙が画面いっぱいに舞い上がった。
しかし、叩き潰したはずの剣士の姿は、そこになかった。
巨大な獣型モンスターが、見失った獲物を探して頭を振った。
「遅い」
攻撃が届く寸前、わずかに身体をずらし。
爪の軌道から、ほんの半歩外れればいい。
獣が振り返るより早く、剣士はその懐へ潜り込む。
一撃。
二撃。
巨体が怯んだ一瞬に、さらに三撃。
モンスターの体力ゲージが赤く染まり、残りわずかとなる。
「楽勝だな」
快斗は、眠気の残る声で呟いた。
椅子の背もたれに深く身体を預けた姿には、緊張感など欠片もない。まぶたは半分ほど閉じ、今にもあくびをしそうな顔をしている。
それでも、コントローラを操る指だけは止まらなかった。
獣が咆哮を上げ、前脚を薙ぎ払う。
獣は最後の抵抗とばかりに全身を震わせた。
画面の端に、攻撃範囲を示す赤い光が広がっていく。
普通なら距離を取る場面。
しかし、快斗は退かなかった。
快斗の指がわずかに動く。
画面の剣士は身を沈め、毛先をかすめるほどの距離で攻撃をくぐり抜ける。そのまま背後へ回り込み、無防備になった後ろ脚へ剣を叩き込んだ。
獣の爪が空を切る。
同時に放たれた剣が、その首元を斬り抜いた。
巨大な躯体が地面へ崩れ落ちる。
残っていた体力ゲージが、完全に消えた。
画面中央へ大きな文字が浮かび上がる。
【BOSS CLEAR】
続けて表示されたのは、クリアタイムとノーダメージを示す記録だった。
快斗はようやくマウスから手を離した。
「……手応えもねえな」
喜ぶでもなく、背もたれに首を預けてだらりと脱力した。
画面には、先ほどまで戦っていたゲームのタイトルが表示されていた。
『Beyond Prayer II』
通称、『ビヨプレ』。
剣と魔法の世界を舞台にしたアクションRPGである。
高校三年生の鏑木快斗は、このゲームだけは誰にも負けない自信があった。
敵の動作を見切り、適切な瞬間に攻撃や回避を選ぶ。慣れないプレイヤーなら何度も倒されるボスでも、快斗にとっては、攻撃の順番を覚えてしまえばただの作業だった。
快斗は両腕を上げ、大きく伸びをした。
凝り固まった肩から、小さな音が鳴る。
机の上に置かれたデジタル時計へ目を向ける。
「もう二時半か」
快斗はゲームを終了させる。
机の隅には、閉じたままの教科書が積まれていた。
その下から、白い紙が半分ほど覗いている___進路希望調査票。
名前を書く欄以外、まだ何も記入されていない。
快斗は一瞬だけ視線を止めたが、そのまま。
「……寝るかぁー」
椅子から立ち上がり、ベッドへ向かう。
部屋は、夜更かしを繰り返している高校生のものにしては不自然なほどすっきりしていた。本棚には『ビヨプレ』の攻略本と漫画が規則正しく整列し、床には脱ぎ捨てた服も散らかったゴミもない。ただ、帰宅して置いた制服とスクールバッグだけがぽつんと残されていた。
快斗はベッドへ身体を投げ出した。
柔らかな布団が、身体を受け止める。
枕元には、小さな写真立てが置かれている。
中の写真は見えないように伏せられていた。
快斗はそれを見つめ、指先が写真立てに触れる。
ほんの少しだけ持ち上げかけて──やめた。
ゆっくりと手を引き、ベッドへ身体を沈める。
仰向けになり、白い天井をぼんやりと見つめた。
そして、目を閉じれば、その動きが今でもはっきりと思い浮かぶ。
巨大な魔物を相手に、攻撃を読み、紙一重でかわし、傷一つ負わずに倒した。あの世界では、どんな敵にも勝てる。
けれど。
ゲームを終えれば、現実は何一つ変わっていない。
勝っても、救えないものがある。
時計の数字だけが、静かに時間を刻んでいる。
「……俺、何やってるんだろ」
布団を頭近くまで引き上げ、枕元の照明を消した。
部屋が暗闇に沈む。
まぶたを閉じると、眠気はすぐに訪れた。
意識が薄れていく。
遠くで聞こえていた時計の音も、やがて消えた。
――はずだった。
(……?)
何も聞こえない。
眠っているのだから当然なのかもしれない。
だが、次第に強くなっていく。
閉じたまぶたの向こうに、差し込む淡い光。
頬を撫でる風。
鼻先をくすぐる草の匂い。
背中には、布団とは違う柔らかな感触がある。
快斗は恐る恐る目を開けた。
最初に飛び込んできたのは、どこまでも青く澄んだ空だった。
雲がゆっくりと流れている。
太陽の光を受けた草が風に揺れ、さざ波のように草原を走っていく。
「……は?」
快斗は瞬きも忘れて空を見上げた。
自分はベッドで眠っていたはずだ。
それなのに今は、柔らかな草の上に寝転がっている。
視界へ影が落ちた。
一人の女性が、快斗を覗き込んできた。
腰まで届く金色の髪が、風を受けて静かに揺れている。身にまとっているのは、金糸の装飾が施された純白の衣装。陽光を受けるたび、細かな刺繍が淡く輝いた。
整いすぎているほど整った顔立ち。
淡い光を宿した瞳。
女性は、驚く快斗へ穏やかに微笑みかけた。
その右手が、こちらへ差し伸べられる。
「ようこそ!」
澄んだ声が、草原を渡る風へ溶けていった。
「夢の世界――『ビヨプレ』へ」
快斗は言葉を返せなかった。
女性の背後には、地平線まで続く広大な草原が広がっている。
遠くには白い城。
そのさらに向こうには、険しい山脈。
空を見上げれば、雲の間に巨大な浮遊島が浮かんでいた。
何度も画面越しに見た景色。
何百時間も歩き回った世界。
細かな形まで記憶している。
しかし、最初に頭へ浮かんだのは。
(……すげえ美人)
そんな場違いな感想だった。
女性は手を差し伸べたまま、小さく首を傾けている。
「立てますか?」
「あ、ああ……」
快斗はようやく我に返り、額へ手を当てた。
(いや、待て)
(美人かどうかは、今はどうでもいい)
(ビヨプレ?)
遠くに見える城も、街道も、山の形も知っている。
それは快斗が、さっきまでやってたゲームの世界。
快斗は慌てて上体を起こした。
だが、足へうまく力が入らない。
立ち上がりかけた身体がよろめき、その場へ膝をつく。
女性は急かさなかった。
差し出した手を動かすこともなく、穏やかに待っている。
「さあ、手を取ってください」
快斗はその顔と、白い指先を交互に見た。
何が起きているのかは分からない。
(夢なのだろう)
快斗はそう思った。
「あ……ありがとう」
快斗は右手を伸ばした。
二人の手が触れる。
その瞬間、足元から淡い光が広がった。
「……え?」
光は草の間を走り、二人を包むように円を描く。
女性が軽く手を引き、快斗を立ち上がらせた。
光はすぐに薄れ、何事もなかったように消えていく。
だが、立ち上がったあとも、女性は快斗の手を離さなかった。
「ありがとうございます」
「……どうも」
(『ありがとうございます』って何?)
一拍の沈黙。
女性は、穏やかな微笑みを崩さない。
「これで《《契約成立》》です」
「えぇぇぇぇぇっ!?」
快斗は弾かれたように自分の手を引っ込めた。
女性が静かに手を下ろす。
快斗は自分の右手と女性の顔を交互に見る。
「『《《契約成立》》』って!? 手を取っただけで!?」
「はい」
「はぁ!?」
快斗は頭を抱え、そのまま後退りした。
「そもそも契約って、何をだよ!説明もなしにさ!」
「これは、《《願いを叶える》》契約です」
女性は少しも悪びれた様子もなく言った。
「今は詳しくお伝えすることはできませんが。先に説明をしていたら、快斗さんは手を取ってくださいましたか?」
「……取らねえよ!」
「では、先に説明しなくて正解でしたね」
「はぁ、騙したのか!?」
快斗は詰め寄るように身を乗り出し、人差し指を突きつけた。
女性は人差し指を頬へ添え、わずかに首を傾ける。
「わたくしは『手を取ってください』と言いました」
胸元へ片手を添え、静かに続ける。
「そして、快斗さんは『ありがとう』とおっしゃいました」
「屁理屈だろ、 それ!」
「ふふ」
女性は口元へ手を添え、小さく笑った。
その仕草だけを見れば、品のある美しい女性にしか見えない。
だが、会話が通じている気はまったくしなかった。
女性は姿勢を正すと、快斗へ軽く一礼する。
「申し遅れました。わたくしの名前は、ガイドです」
「ガイド?」
快斗は腕を組み、女性を見上げた。
「案内役だから?」
「はい。『ガイド』であり、『ガイド』です」
風が二人の間を通り抜ける。
数秒の沈黙のあと、快斗は勢いよく身を乗り出した。
「そのまんまじゃん!」
「はい」
即答だった。
快斗は額を押さえる。
(この人、絶対に会話がかみ合わねえ……)
それでも、いつまでも突っ込んでいる場合ではない。
快斗は改めて周囲を見渡した。
草原を横切る街道。
遠くにそびえる城。
空を旋回する巨大な鳥の影。
どれも、ゲーム画面の中で何度も見たものだった。
「……マジで」
呟きが、自然と漏れる。
「ビヨプレだ」
「そうです」
ガイドが頷いた。
「ここは、快斗さんのよくご存じの『ビヨプレ』の世界です」
快斗はガイドへ振り返る。
「夢……なんだよな?」
「はい」
その答えを聞き、快斗は自分の身体へ目を落とした。
着ているのは、ゲーム内で愛用していた防具だった。
黒を基調にした軽装鎧。
手には革の手袋。
腰には、見覚えのある剣が下がっている。
快斗は恐る恐る柄へ触れた。
指へ伝わる硬い感触。
少しだけ鞘から抜く。
澄んだ金属音が鳴った。
刃が光を反射する。
重さも、冷たさも、あまりに生々しい。
「これ、俺のゲームの装備……」
「快斗さんが使用していた装備を再現しました」
「再現って……」
快斗は剣を持つ手へ視線を落とす。
夢だと分かっている。
それでも、手の中にある重さは本物だった。
そのとき、近くの草むらが揺れた。
快斗とガイドが同時に視線を向ける。
草を押し分けて現れたのは、一匹のスライムだった。
丸みを帯びた半透明の身体。
内部では粘液がゆっくりとうごめき、表面から垂れた雫が草の葉へまとわりついている。
「うわ……」
画面越しでは何百匹と倒したことがある。
だが、目の前で見ると印象がまるで違った。
(生々しい)
スライムの身体が大きく縮む。
そして、地面を蹴るように跳び上がった。
「ちょっ――」
顔へ迫る半透明の塊。
快斗の身体が勝手に動いた。
半歩だけ横へずれる。
スライムが鼻先をかすめ、背後へ飛んでいく。
同時に、右手が腰の剣を抜いていた。
考えてはいない。
画面の中で幾度も繰り返してきた動きを、身体がそのまま再現していた。
快斗は、勢い余って通り過ぎたスライムへ向き直る。
右足を踏み込む。
剣を振る。
刃が、柔らかな身体を斜めに通り抜けた。
スライムが真っ二つに割れる。
切断された身体は地面へ落ちる前に、無数の光の粒へ変わった。
風に乗り、きらめきながら消えていく。
草原に静けさが戻った。
快斗は剣を振り抜いた姿勢のまま、動けなかった。
手には確かな重さが残っている。
剣を見る。
次に、自分の右手を見る。
「……斬った」
足元には、スライムの姿も、粘液の跡もない。
だが、刃が何かを通り抜けた感触だけは、手のひらに残っていた。
「今の、俺がやったのか?」
自分の声が、どこか遠くから聞こえた。
驚きで見開かれていた目に、別の光が宿っていく。
口元が、知らず知らずのうちに緩んだ。
ガイドが静かに手を叩く。
「お見事です」
快斗は勢いよく振り返った。
「いやいやいや!」
剣を持ったまま、ガイドへ詰め寄る。
「なんなんですか、これ!」




