1:物心
いつもご覧いただきありがとうございます。
処刑人と行く異世界冒険譚に登場するペリエヴァッテ・ヴァーレクスのスピンオフです。
どちらを先に読んでいただいてもお楽しみいただけますが、こちらはゆっくり更新しますので少々お待たせするかと思います。
どうぞのんびりとお待ちいただければ幸いです。それでは、いってらっしゃいませ。
スヴェトロニア大陸の大国、アズリア王国南部。
海にも近く、オリーブ畑と小麦の栽培が盛んで、小さい所領ながら恵まれた土地であった。少し離れてはいるが葡萄畑もあり、アズリアの酒の一部を担うほど、年により当たりもあった。
気候が穏やかで領民は朗らか、毎日の地ワインと地魚、柑橘類の爽やかな香り。白い壁の家々は細い路地や通りを多く持ち、照りつけるような太陽に気持ちよく肌を焼き、流れる汗を拭い、喉を潤すためのレモトルネで肌の熱さえも冷やすような豪快さもあり、ヴァーレクス領の女は肌が甘い、などと言われることもあった。
男の運命は数奇なものであった。
跡継ぎである長男が生まれ、スペアである次男が生まれ、その上で当主がつまみ食いして生まれたのが少年というこどもだった。
政略結婚の夫婦に愛はなく、スペアまで産めば十分だろう、と夫人もまた好みの男を侍らせたりと自由気まま。金の使い過ぎには注意するように、という注意に留めるだけで、当主である男も我関せずを貫いた。そうした夫婦関係であったので、当主が見目麗しい侍女に手を出すのも時間の問題だった。
侍女もまた強かであった。血の繋がりのある子を産みさえすれば、使われる側から使う側に回れる、という野心があっての誘惑だった。
そうして少年は、見目麗しい母の甲斐もあり、兄弟の中でもっとも恵まれた容姿でこの世に生を受けた。それは正妻の顰蹙を買い、苦痛に繋がりもしたのだが、その分はやり返したと青年になった頃に思うようになった。
当主の色である紫鳶色は正当な血筋を表していた。瞳はやや母の色が強い、青にも近い深い紫の目は世界をつまらないものとして見ていた。そう、少年にとって、男にとって世界はつまらないものだったのだ。
少年の一番古い記憶は体の痛みだった。
先に生まれただけの半分血の繋がった兄たちからの暴力、それが少年を呼び起こしたと言っても過言ではない。そもそもそれらが兄であると理解したのは少し後になってからだった。
地面で擦れて痛い体、頭を庇い蹴られ、痺れていく指先。脇腹を、腹を、足を踏みつけられて痛くて、そして腹が立った。
死なない程度にしておけ、と言った冷たい声が父親のものであると理解したのはその時だった。どうやらこれは何かの訓練だったらしい。少年たちの相手に、鬱憤を晴らす相手として選ばれたのが自分だったのだと気づいた時、すぅっと涙が引いていった。やらなければやられる。ならば、やるだけだ。握り締めた小さな石、それを持ったまま長男の背に飛び掛かり、頭に打ち付けてやった。
パッと散った赤いものが綺麗だと思った。先ほどまでこちらを嘲るように笑っていた三日月型の気味の悪い目は恐怖におののき、怪我を押さえて無様に倒れ込んだ。追撃をしようとした体を誰かに捕まえられ、少年は雄叫びを上げた。
「なさけない! ぼくにあれほどいたいおもいをさせたくせに! このくらいでなくだなんてなさけない! はじをしれ!」
それは掛けられていた言葉だった。少年は自身を捕まえた腕が震え、頭上から高らかな笑い声があったことにうるさそうに振り返った。
「結構、この子が一番、素質があると見た。お前はそのグズたちを育ててみるがいい」
白髪交じりの紫鳶色の髪と髭、少年は首を掴まれて意識を失った。
――次に目を覚ませば綺麗な布団の上だった。使用人用の狭い部屋ではなく、母と同室でもない。天蓋付きのベッドは布団が柔らかく、腕をつけば少しだけ手のひらが沈む。体重を掛けて痛んだ腕を見れば、丁寧に手当てがされていた。薬のにおい、すん、と鼻を利かせれば汚れの臭いがしなかった。肌がきれいにされていた。
いつもなら使用人が風呂を使える時に母に連れられて湯で体を洗う程度、少年は石鹸というものも使ったことがなかったが、母が体を洗う時に使っていたのと同じような、いいにおいがした。
「旦那様、目を覚まされました」
意識していない方向から声が掛かり、少年はそちらを向きながら後退し、距離を取った。執事のような恰好をしたナニか。逆光で目だけが影の中に浮いているように見えて、少しだけ怖かった。それをバレたくなくて歯列を剥き出しにして身構える。ふっ、と笑われ、子ども扱いされて怒りが先に来た。
「あまり教育は受けていないようだな、何歳だ」
また意識の外から声を掛けられ、部屋の隅まで逃げてしまった。
「四歳、と伺っております」
「あと一年早く戻るべきだったな。まぁよい、小僧、名を聞かせろ。ただの玩具でなければあるだろう」
名前、と問われ、少年は言い淀んだ。あんた、この子、お前、ゴミ、道具、玩具、それらが名前でないことはなんとなくわかっていた。名を問われることもなく、母はブツブツと言い続けていた。
当主の子供を生んだら変わると思ったのに、いつかあんたが日の目を見るんだ、その時はアタシも綺麗なドレスを着て、薔薇の浮いたいい匂いのする湯で体を、髪を洗って、香油を使うんだ。
少年はぎゅうっと唇を噛んだ。
「ふむ、勿体ない。素質ある者を粗野に扱うのは相変わらずのようだ」
男はゆっくりと立ち上がると少年へと近づいてきた。質素だが、置いてあるものは無駄がない部屋、朝焼けらしい白い光の中、カーテンで影になっていた場所から姿を現したのはぬらりとした長身の老人だった。意識を手放す寸前に見た、自分と同じ紫鳶色、それに白髪の混じった肩までのゆるいウェーブ。髭の奥では口元がニタリと笑っているのがわかった。
「お前は幸運だ。いいか、ここまでのお前など存在しなかった。今日、この時よりお前は私の孫であり息子である。私を敬い、技術を身につけ、私の後継ぎとなるのだ」
「だれ、なん、だ、です、か」
「鏡すら見たことがないのか? うふふふ、これは教え甲斐がありそうではないか! よかろう、孫との対面だ、じぃじが名乗ってやろうではないか!」
ガシリと顎を掴まれ、少年の顔に老人特有の生臭い息が掛かった。
「我が名はシュヴェルタス・ヴァーレクス。ヴァーレクス家の前当主であり、現当主である。小僧、貴様には私が直々に名をつけてやろう! これより、こう名乗るがよい」
ペリエヴァッテ・ヴァーレクス。少年はそうして、ようやく名を手に入れたのだった。




