1.18 ゴブリン罠
ようやく研修再開です。キナの樹を求めて今度は森の中へと踏み込みます。細長い獣道を縦一列になって進みます。
「何かいい匂いがする……」
後ろを歩いていたナナが突然鼻を近寄せてきました。ラーナも前から寄って来て「本当だ」と、二人してクンクン鼻を利かせています。人の匂いを嗅ぐのは失礼ですよお前たち。
体臭は皮脂や汗などの分泌物が皮膚の上の雑菌に分解されることで発生する有機ガスが主な原因です。エルフの細菌学は進んでいますので分泌物の成分をいい匂いに分解する皮膚常在菌を何百種類も特定しています。ボクたちはそれぞれの好みに合わせたそれらの細菌を香水代わりに身にまとっているのです。
ちなみにボクはフローラルノートをベースにムスクを差したフェミニンな甘い香りを出す菌を住まわせています。普段は体温調節を魔法に頼っているのですけど、今日は久しぶりに汗をかいたので、いつもより匂いが強くなっているようです。
「ねえ、カオル君って呼んでいい?」
「嫌ですよそんな元祖優柔不断主人公みたいな呼び方は。お前たちいい加減離れるです」
しがみつくような二人を引きずりながら歩いていると前から「おい、そこの紐を踏むなよ」と声をかけられました。しかし時すでにlater、ピュン! と風を切る音と共に突然矢が飛んできました。二人にまとわりつかれているせいで避けられなかったので仕方なく指先でつまんで受け止めました。
「ゴブリンの罠だな」
ボクの手から矢を取ったチューターがつまらなそうな顔で眺めています。枝を削った棒の先に何かの獣の牙を埋め込んだ矢です。よく見るとその牙の先端から根元にかけて溝が掘ってあって、何かペースト状のものが埋め込まれています。たぶん毒でしょうね。足元を見ると栗毛が細い紐を踏んずけています。紐に引っかかると矢が発射される仕組みの罠のようです。
本当にこの異世界道中アホ栗毛は……。おしおきです。ヘルメットを拳で挟み込んで、念動魔法でこめかみをグリグリしてやります。
「いだだだだっ! これって兜の意味ないですよねっ!?」
チューターが舌打ちしました。
「ゴブリンの何が嫌ってこれが一番嫌だよな」
「これがなきゃもう少し森に入りやすいのにね」
ゴブリンは原始的な罠猟をします。注意して見ていればすぐ見抜けますけど、うっとうしいことには違いありません。ゴブリンの罠は人間がなかなか森の中で活動できない原因のひとつになっているようです。
更に獣道を進むとガサガサと動くものがありました。ゴブリンでしょうか? と一瞬思ったのですけどボクの【走査】に見えているのは鹿の姿でした。スネアトラップに前足を突っ込んだ鹿が、脚を浮かせながらなんとか逃れようと悪戦苦闘しているのでした。
「……鹿かー。最近食べてないナー」
「もう少し町の近くなら仕留めたんだがなぁ」
なんてチューターたちが相談していましたので「お肉を分けてくれるならアイテムボックスに入れてあげますよ」と提案しました。オオカミもそうすればよかったです。
「なら頼むわ」
と言いつつチューターは抜き打ちの一閃で鹿の首をはねました。ボクは即魔法で血抜きして魔法で冷やしてアイテムボックスに収納しました。
ところでこの世界のゴブリンは扱いとしてはモンスターですけど自動でポップする類のモノではなくれっきとした生物です。人類と祖先を同じくする遠い親戚です。今ではまるで別の生き物ですけれども。
そう、人間とゴブリンとは別の生き物なのです。馬とロバとの間には子供ができますが、できたその子には生殖能力がありません。ライオンとトラもそうです。ヤギと羊の間には通常子供はできませんが、仮に生まれてきたとしてもやはり生殖能力はありません。それらは違う動物だからです。もしもゴブリンと人間の間で子供ができ、しかもその子供と人間の間でまた安定して子供ができるというのであれば、両者は同一の生物であるということになります。ということはゴブリンとは実はただのブサイクあるいは奇形の人間であり、生まれて来る子供もやはりただのブサイクなのである、などという解釈も可能になってきます。
このような世界観はさらなる危険性をはらんでいます。つまりこの観点をさらに推し進めれば、例えばゴブリンはアジアン、オークは■人、人間はWASP、エルフはヨーロッパ系白人、ダークエルフはゴブリンに魂を売り渡した□助……といったメタファーであり、一連の描写は東西アジア人及び■人による欧米人への人種的侵略の脅威を訴えている──などと捉えられかねないわけです。
このような政治的危険性を回避するためこの世界はポリティカルフリー、安心安全のノンポリ宣言をさせていただく次第です。ですのでこの世界では人間は単一人種ですし人間とゴブリンは別の生物という設定です。たとえ人間とゴブリンが交配したとしても子供は生まれてきません。安心です。