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◆外伝◆ 遥かなる高みへ

視点が異なります。他、幾許かの試みを含みます。

天正十年二月、私は齢二十六にして父から家督を譲られた。

私の名は龍造寺肥前守政家。父は山城守隆信と言う。


東肥前の小豪族に生まれた父の一族は優秀で、勢力拡大を続けていたがこれを妬んだ同輩の姦計にはまり、ほとんどの一族を殺されてしまった。

生き残った父の曾祖父(つまり私の高祖父)は、当時僧籍にあった父やまだ幼かったその弟たちを連れ肥前を脱出、雌伏を余儀なくされた。

その後挙兵、家を再興したが、その後すぐ高祖父は亡くなり父が還俗し家督を継いだ。

弱冠十七歳だったという。

そうして家臣たちの支えの元、勢力を拡大。ついには旧主をも滅ぼし肥前を統一した。


肥前統一の時にも一度、家督相続を打診されたことがあったが、私は断った。

これからもっと飛躍するであろう時、父には先頭に立って頂きたいと。


我ながら随分と自信のないことだと、今ならばそう思えて苦笑を禁じ得ない。

父からももっと覇気を持てと言われたこともあり、それから私は意識して動くようになった。

この時の私は五年後に家督相続が確定しており、より一層の精進が求められていた。

そこで、気持ちの切り替えと区切りをつける意味でも私は改名した。


それまでは民部大輔鎮賢と名乗っていたが、この鎮は大友の先代当主から偏諱を受けたものだ。

大友から脱却するという意思表示と龍造寺当主となるべく意気込み示すため、当家の通字でもある家の字をご先祖様から頂くことにした。

更に、この時に父からは肥前守を名乗るよう言われた。

肥前を統一したは父であるから父が名乗るべきと思い、そう言ったのだが、やはり家督を譲る意思を見せることと、私に意識させようとしたのだろうか。


九州統一を企図した侵攻で父は筑前に向かい、私は肥後へ向かった。

肥後では隈部但馬殿らと協力して事を進めることが出来たのは幸運であっただろう。

但馬殿は父より幾分若いが老成していた。

肥後を抑える治世や、薩摩・日向へ侵攻する知略など。

父や家臣たちとはまた異なった眼で見ることが出来たのが大きな収穫であった。


父のもとには次弟の又四郎が行き、私のもとには三弟の善次郎がつけられた。

私も父の元にあり教えを請いたいという思いも確かにあったが、一手の大将に任じられたこと。

これは間違いなく父からの期待の表れであり、それを悟った時は震えたものだ。


父たちは筑前、豊前を経て豊後へ侵攻。筑後は蒲池の義兄に任せた。

私は肥後にあり諸将を指揮した。本陣にあって諸方を睥睨するのも大将の役目と教わった。

薩摩から大隅を経て日向へ侵攻する一手と、肥後から山を越えて日向へ侵攻する一手。

私は肥後にあってこれらの後詰をしていたが、政治的な判断は全て私に委ねられていた。

肥後・薩摩・大隅・日向において、こちらに本領安堵の条件で合流を願い出る者。

一戦した後に降服を願い出る者、当主討死の後に家名存続を願い出る者など。

これらを但馬殿や家臣たちの助けを借りつつも、私自身の名と責任において捌いていった。

この時は必死であったが、この経験は確実に私を高めてくれたと思っている。

そして、薩摩・大隅・日向を席巻した島津一党は降服。

彼らは武装解除のうえで延岡にて謹慎処分、所領は召し上げ。

但し、今後の働きに応じて新恩の含みは持たせた。

一連の処置は当時の当主である父に申し送ったが、追認されただけで翻ることもなく、私の名声は次期当主という名とともに広まり上がっていった。


最後に残ったのは豊後の大友であるが、ここの瓦解は早かった。

いくら豊前から父たちが、筑後から義兄たちが、日向から私たちが囲んだとはいえ、だ。

当主・隠居・当主の弟と、一族内で乱となるなど、大友も堕ちたものだと大層見苦しいものに見えたものだ。

結果、当主の弟が我らに通じて乱は終結。当主は降服し、隠居は当主の命で斬首された。

父には、これが当主と隠居による二党政治が招いた末路だと、肝に銘じるよう言われた。

確かに酷いものであった。反面教師が見られたと思えば、まだ価値はあったか。


大友当主は日向に移封し家名は保ったが、我らに通じた当主の弟が豊後で家を興した。

宗家よりも別家が大きいという矛盾を孕んだ状況であるが、これを以て掣肘する策らしい。

島津は元当主と一族が陣借りの形で参戦し武功を上げた。

父が良く言う「忠は賞せよ」の原則にい従い家名存続を許し、更に武名の高い一族を別に取り立てた。


こうして我らは九州一円を支配する大大名となったが、統一の過程で完全に滅んだのは南肥前の有馬と南肥後の名和くらいであり、情けを以て成す家として評され服されている。

また彼らも一族は生き延びているので場合によっては家名再興も可能だろう。


この情けを云々は蒲池の義兄の実父であり、父と高祖父が助けられた今は亡き蒲池近江入道様の姿に父が感銘を受けた結果生まれたものだと聞いている。

些か気の早い話だが、私の嫡男には近江入道様に肖り近江守を名乗らせようと思っている。


ともかく九州統一を果たした父は、論功行賞の席で私に家督を譲った。

しばらくの間は後見して下さるというが、やはり不安はある。

しかし皆は私の家督相続を歓迎してくれた。そこのとに歓喜しつつも身の引き締まる思いであった。


そして家督を継いでから一年が過ぎた。


この一年、私たちは治世に専念しつつ、四国・中国地方や中央の動向に気を配っていた。

四国では長宗我部が統一目前となり、中国の毛利は織田先右府の尖兵である羽柴に押し込まれ、豊前にまで気を回す余力がない状態だった。

中央では天下にもっとも近かった織田先右府が重臣・明智の謀反で斃れた。

これを知った羽柴は神速を以て毛利と和睦、中央に戻り明智を討った。

余りにも早いので、羽柴は明智の動きを知っており、敢えて織田先右府を討たせたのでは、という見解が広まっている。

つまり、羽柴は信用ならんということだ。

織田先右府の仇を討った羽柴であるが、織田家中で収まるような器ではないとも言われている。

即ち下剋上。


今年に入り、羽柴は家中で同じく重臣の柴田と緊張関係に入った。

織田と同盟関係にあった徳川も独自の動きを見せており、長宗我部は四国を席巻しつつある。

毛利は目立った動きを見せていないが、羽柴と和睦したことにより豊前へ目を向け始めている、という報告も上がってきている。

中央や周辺国の動向が今後の我らの方針を大きく左右するため、難しいものがある。

父は、後見であるが基本的に私たちに任せてくれている。

それはそれで喜ばしいが、時に不安にもなるものだ。

そこで、家臣たちとの評定に父も出席してもらった。


孫たちとの穏やかな時間を邪魔されて不機嫌そうにしていたが、そんな顔しないで欲しい。

五年は後見して下さると仰っていたではないか。

私だってもっと子たちと過ごしたいし、妻ともゆっくり致したいのだから。そろそろ次の子も欲しい。

ちなみに我が妻は一族から迎えており、実は幼馴染で初恋の人だった。そのことを知った時の父は、りあじゅうが云々などとよく分からないことを呟いていたのが印象に残っている。尋ねても誤魔化されるので気にしない様にしているが。

おっと、愛妻のことはひとまず置いておこう。この評定が終わったら逢えるのだからな。


この評定には、我が家の上級家老である執権に、中級の老中。下級の奉行衆らが並び、その後ろに国主格と郡司たち。あとは主要名主らが連なっている。

議題は今後の方針に付いてである。

即ち中央への対応だ。

全く関わらないというのは不可能であるし、あからさまに下に見られたくもない。

そういった諸々の事情を勘案し方向性を決めよう、せめて意見をまとめようというものだ。


当主である私を頂点としたこの評定であるが、地位に関係なく忌憚のない意見を出すよう指示している。

地位に慮って意見を出さぬようであれば、評定に参加する意味がないからな。

このことを発表した時、一部から異見が出たが父が論破してしまった。

私が論破してやりたかった。


それはともかく、出た意見は次の通り


・毛利と同盟

・長宗我部と同盟

・九州の保全を条件に中央に降る

・中国を切り取る

・四国を切り取る

・中央に攻め上る

・地域に根差した勢力の確保

・中央包囲網を策定


さて、現在の中央は羽柴だが周囲には敵が多い。

このことを鑑み、さらに意見を集約していく


・長宗我部と同盟し毛利を攻める

・毛利、長宗我部、徳川、北条、上杉らと同盟する

・九州に籠って国力増強を図る


毛利は羽柴に近い。羽柴を非する派閥もあるが、我らと組む程ではないと思われる。

長宗我部とは特に関係性を持たず、中央に対する姿勢は近いかもしれない。

中央を包囲したところで意味があるとも思えず、更に上杉は乱の後遺症で弱っている。

などと更に詰めていく。


とここで、父が発した


───天下を狙う気はないのか?


この言葉に場の空気が張り詰めた。


そして父とともに肥前を平らげ、九州統一を果たした父の戦友と言える立場の既に老境に入りつつある家臣たちが次々に吠えた。


曰く。意気を以て天へ届かせん、と。


老臣たちの熱気に侵されたかのように、若い衆や他国衆にもこの熱気が伝播していく。

嗚呼、相も変わらず父の影響力は極大だ。

それでも私たちの背中を押してくれる、その志を嬉しく思う。

気付けば私もこの熱に浮かされてしまっていた。


父は、こんな私たちの様を眺め、


───ま、頑張るのは若者たるお前らだけどな!


と言って笑っていた。


執権たちは落ち着いていたが、苦笑したうえで策を練るよう提案。

戦地でもないのに喧々囂々の有様で、翌日喉が枯れていた者もいたらしい。


天正十一年三月、こうして私たちは天下へ向けて羽ばたくことになった。




龍造寺の物語は終わらない。

なおも飛翔し続ける。


未だ見えぬ、遥かなる高みへ。



「龍造寺三代記」として書いていたものを一旦諦め、本作の外伝としてダイジェスト風に手直ししたものです。

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