後編
ある日魔物が言った。
「その……見晴らしの良い場所があるのだが、一緒に出掛けないか?」
散歩に誘ってくれる時は何故かいつもモジモジしている魔物。
「うん見てみたい」
「うむ。では向かおう」
私が頷くと真面目な顔で頷き返す魔物だけど、尻尾の振りの勢いが激しくブンブンと音がうるさい。
魔物の背に乗り風を切る。
三十分ほど揺られていると、山頂までやって来た。
天辺にあるゴツゴツとした大きな岩の上に一人と一匹で腰かける。
眼前に広がる絶景。
秋も深まるこの季節は、木々が一様に色づき息を呑むほど美しい。
「我の気に入りの場所でな。是非ティアに見せたかったのだ」
食い入るように景色を見つめる私に魔物は照れ臭そうに喋る。
「綺麗で、びっくりした」
村での生活は、いつでも仕事に追われて情景に感動を憶えることなんてなかった。
ゆったりとした時間の中で、それを初めて感じることが出来た。
私は今―――
「幸せだなぁ」
「っ! まことかティア!?」
ポツリと呟いた言葉に魔物が大きく反応する。
「我は! 我はティアを幸せにしたい……ティアは今幸せなのか?」
「えっと、うん………きゃあっ!?」
「ティアティアティア」
突然魔物の巨体が私に乗り上がり重みに堪えきれずに倒れてしまった。
「ちょ、止め………あははは! や、止めてよ」
魔物の舌が私の頬を這う。
しかしそれはいやらしいものではなく、まさに犬がじゃれついている様と同じだ。
魔物が満足した頃には私は笑い疲れて肩で息をしていた。
「す、すまん。少し興奮し過ぎた」
「もう、髪の毛くしゃくしゃ……」
尻尾を丸め耳を垂れて反省のポーズをする魔物に小さく文句を吐き出す。
項垂れる魔物を見て笑いそうになるのを堪えて乱れた髪を整える。
そうして、もう一度景色を見直したその時、心臓が凍りつく。
山の麓に小さく私の村が見えたのだ。
一気に記憶が甦る。
あの日――この魔物が家族を喰い殺したあの日、私は人生で一番幸せな時を過ごしていた。
家族皆で街へ出掛ける約束の日。
朝ベッドから抜け出すと、母が新しい服を用意してくれていた。
今村の娘達の間で一番流行っているデザインのワンピース。
日課の水汲みもお休みして母の温かい手料理を家族でゆっくり食べた。
それが終わると母が可愛く私の髪を結ってくれて、新品のワンピースに身を包む。
お洒落が完成すると父がそれをにこやかに褒め、姉は私ばかりズルいと少し機嫌が悪くなった。
そんな姉に母が今から向かう街で新しいドレスを買い与える約束をしたのですぐに彼女の機嫌もなおった。
街で酒を飲みたいと呟いた父は母から説教されていたっけ。
そうして家族四人で街へと向かい、道中の森で魔物と出会ったのだ。
夢の中と同じ無惨な姿の家族が私を責める。
何故お前は魔物の庇護の元、幸せを感じているんだと。
油断しているこの時こそ復讐のチャンス。
ここから落とせば魔物の巨体だって無事では済まないはずだ、と家族の亡霊が私の耳元で囁く。
―――でも、だって、そんな。
躊躇する私の背中を強い風が押す。
イケ、思いきり魔物の背に飛び込め。
ついでにお前も落ちてしまえばいい。
どうせいつ食べられるか分かったものじゃないんだ。
失敗しても死あるのみ。
―――それならいっそ、こちらへ来い
私は身体全部を使い魔物の背へと体当たりをした。
しかしここで予想外のことが起こる。
後ろから思いきり押した筈なのに、魔物の身体はビクともしなかったのだ。
頑丈過ぎる魔物の背は渾身のタックルに全くの無反応で、私の身体は大きく跳ね返った。
―――ズザザザ
無様に地面を滑る私を魔物は驚きを浮かべて振り返った。
「どうしたティア!?」
「っ……………」
「怪我をしておるではないか!」
慌てて駆け寄って来た魔物は私の脚に出来た擦り傷を見て更に大袈裟なほど慌てる。
「我が付いていながら、なんと不甲斐ない。すまぬティア」
傷口をそっと舐める魔物。
ピリッと小さな痛みが走り、心配の色を浮かべた瞳でひたすら見つめられると―――もうダメだった。
私はこの魔物を殺したくない。
「っ、ごめ……ごめん、なさいっ。ごめん、なさいっ。ごめん、なさいっ」
魔物に謝りながら、涙が止まらない。
「私いまっ! あなたを、殺そうと、したっ! ごめん、なさい!」
吐き出すように懺悔する。
魔物の舌が大粒の涙を舐めとっていく。
「私を食べて……家族が、待ってる………」
魔物にこの身を差し出すことが贖罪になるなんて、そんな傲慢なことは思わない。
これは単なる私の我が儘だ。
でも魔物のお腹だっていっぱいになる訳だし悪い話ではないと思うのだけど。
「申したであろう。ティアは喰わぬ」
「……なんで?」
「我はティアに惚れておるからの」
「っ!?」
「贈り物は惚れたツガイにしかせぬ」
ツガイ……惚れている……そんなこと、考えたこともなかった。
種族が違う者にそんな感情が浮かぶものなのだろうか?
「ティアは森の湧き水を毎日汲みに来るであろう? 我はいつもこっそりソレを見ていた。
だから家族とそなたが森に入って来た時は嬉しかったのだ。ティアの笑顔を初めて目に出来たのだから」
魔物は驚きで涙が止まってしまった私をふわりと暖かい懐へ迎え入れる。
「だがその笑顔が晴天ではないことにすぐに気付いた。ならば我が手でそなたの憂いを祓いたい。我が手でそなたを幸せにしたい」
そう、あの日私は人生で最高に幸せだった。
優しい家族と笑い合い、一緒に過ごす。
―――でも、私は知っていた。
「だから、我はティアの家族を喰い殺した」
あの日………家族は街へ私を売りに出かけたのだ。
父よりも年上の腹の出た貴族様の元へ身請けされる予定だった。
少しでも値を吊り上げようと私を着飾り、最後の安い同情で朝食を共にすることが許された。
私は母の子ではなく父がどこかの売春婦に生ませた子だ。
どういう経緯かは知らないが私はそのまま今の家へと引き取られた。
但し、私の家族は私を家族としては扱ってくれなかった。
家事をこなす召し使いだ。
普通ならば雑巾にしてしまうのが適当な染みだらけのお下がりの服。
家の雑務に追われ学校には通えなかった。
仕事が遅かったり失敗すればご飯抜きなのに、そんな所へ行く余裕なんてあるわけがない。
井戸はすぐ近くにあったけれど森の湧き水は美味しいからと、毎日六時間かけて森と家を二往復させられていた。
近所では毎日遊び暮らし学校に行きたがらないということになっているらしい。
母と姉は私をいびり続け、父は無視し続けた。
常に召し使いとして扱ってくれれば何も知らずに貧相な運命を享受出来たのに、表向きには私をこの家の子供として扱うものだからなまじ家族というものを知ってしまっている。
家族は一緒に笑いあい一緒にご飯を食べるもの。
親は子を守り、子は親を敬う。
なんて羨ましい妬ましい。
だからあの日、他人の居ない家の中でも優しくしてくれる家族にあり得ないほどの幸せを感じた。
たとえそれが仮初めであると知っていてもだ。
母が初めて私に触れてくれた。
姉が私の髪を引っ張らない。
父が私を見て微笑んでくれた。
目眩がするほど幸せな時間。
しかしその幸せの横で母と姉は、私を売った金で何を買おうか楽しげに語る。
父はどこの娼館へ向かおうかとニヤニヤしている。
そう、私が売られるのは金に困ったからではなかった。
むしろ村では裕福な方である。
せめて、納得出来る理由があったのならば私は喜んで貴族様の元へ向かっただろう。
しかし実際は肥らせた家畜を売り払うような扱いだった。
幸せを感じたあの日、同時に私の内に燻る闇は濃さを増した。
そうして街へ向かう道中、森の中で魔物と出会う。
いつも入る森なのに、こんなに恐ろしい魔物が生息していたことに驚いた。
魔物の鋭い牙を目にした父は顔面蒼白で震え上がり、母と姉が腰を抜かす。
しかし家族達はまだ自身の生を諦めてはいなかった。
「人間、この森は我が領域である。喰い殺される覚悟があって入ったのだろうな?」
狂暴な唸り声の後に言葉を喋った魔物に、父一頻り驚愕した後それに希望を見出だす。
「も、申し訳ありません。あ、あ、貴方様の領域であることなど全く知らなかったのです」
父は震えながらも母と姉を背に庇う。
そして顔面蒼白ながらも卑屈な笑みを口元に浮かべ、少し離れた場所で震える私を指差し魔物へ言い放った。
「お、お詫びにあの娘を差し出しましょう。よろしければお受け取り下さい。ですからどうぞ我々はお見逃しを」
「………なんだと?」
這いつくばって頭を下げる父に魔物は低く不機嫌そうな声で聞き返す。
「ほ、ほら! お前からも私達を助けて欲しいとお頼みしろっ!」
自分の提案が受け入れられそうにないと焦った父は唖然とする私へ命令する。
父の言葉を信じたくない私は、何の反応も示す事が出来ずにただ立ち尽くす。
それに焦れたのは父の背に庇われている母と姉であった。
「何をボサッとしているんだいこの愚図! 地面に頭を付けてお願いするんだよ!」
「早く私達を助けてよ! 言いなさい! “どうか私だけを食べて下さい”って!」
木偶の坊の私へわめき散らす家族達。
頭が真っ白で何も考えられない。
私は何をしているんだっけ?
ああ駄目じゃない、いつもの様に命令に従わなくちゃ。ご飯、貰えないよ。
「……私を、私を食べて下さい」
命令された言葉を口にする。
人間なんかよりもずっと美しい魔物がそんな私をじっと見つめる。
「私だけを食べて下さい」
あれ? なんで?
なんで私だけが食べられなければならないの?
なんで庇わなければならないの?
あなた達が死ねばいいじゃない。
独りは嫌………寂しいよ………
「私だけを食べて下さい」
真っ黒に染まった心が悲鳴を上げ、涙となって流れ出た瞬間である。
「ガウッッッ!!!」
「ぎゃぁあああああ」
「いやぁあああああ」
「うわぁあああああ」
今まで高い知性を見せていた魔物が突然姉へと喰らい付いた。
家族の絶叫が周囲を包む。
恐怖に堪えきれずに逃げようと地面を這う両親の脚に噛み付き、確実に全員を仕留めようとする魔物。
家族は生きたまま苦しみ悶えながら食べられていった。
「どうか私だけを食べて下さい」
この地獄絵図みたいな光景の中で私は命令された言葉を呟き続ける。
私が望んだ通りのことが起こってしまった。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
私のせいだ、私が望んだから。
でもどうしてだろうか。
全然悲しくないのは。
私はあれほど家族を愛していたのに。
いつしかその愛が返されることを願って、どんな仕打ちにも耐えてきたのに。
悲しくないどころか、家族が喰い殺される光景に歓びを感じた。
独りで逝かずに済むことが嬉しい。
もう私を他所へなんてやれない。
これで家族皆一緒だもの。
そう思っていたのに、魔物は私だけを食べなかった。
そして与えられる施しに幸せを感じてしまった。
それが私の罪。
「誰よりも家族が憎くて、そして愛しかった。彼らは私の世界だったから。世界に疎まれるのは辛い。
ほんの少しでいいから、愛して欲しかっただけなの」
罪に蝕まれ、道連れにしようとした魔物には申し訳なく思う。
「ごめんなさい」
魔物は心まで透かしてしまいそうな深みのある眼差しを私へとぶつける。
「それならば家族の分まで我を憎み、そして愛せ」
「え……?」
「そなたの家族は今一欠片も残さず我の血となり肉となっておる。そんな我を憎み愛せ。
我はそれを何十倍にも膨らましてティアを愛そうぞ」
憎くて愛しい家族のカタキ。
「我のツガイとして、ずっと笑っておれ」
この魔物を愛することが果たして出来るのであろうか。
そんな難しいこと、分からない。
「じゃあまず、貴方の名前、教えてくれますか旦那様?」
でも、このもふもふの腹とパタパタ忙しない尻尾は大好きだ。
以上で完結となります。
蛇足として魔物は普段は人間を食べませんし、神様的扱いだったりします。
ただ、主人公の愛する者は食べます。
今後も主人公が別の人間に恋でもしようものなら相手を食べます。
それも嬉々として。
そうすれば主人公が自分に恋するだろうと信じて疑いません。
でも多分主人公はこのまま女ターザンになるだろうから、人間に恋することはないかもです。
最後までお読み下さりありがとうございました!