2章 旅立ち(3)
火星局のイヴォンに連れられてやってきたその少女は、ひどく緊張している風だった。無理もない。シャハンは思った。まだほんの10歳の小さな子供である。3番目の息子のイファと2歳しか違わない。思わず小さく拳を握りしめる。
「こんにちは、わかば。初めまして」
一瞬出遅れたシャハンの横から、水嶺が声をかける。
「私の名前は、水嶺というの。あなたの名前、変わっているわね」
水嶺の言葉に、わかばがわずかに反応した。
「私の名前も変わっているでしょう。エクスがくれた名前よ」
エクスというのは、ドーム都市外に居住する地球人たちのことである。彼らは、時にドーム都市へと移住することがあり、その場合、ルート識別子は自動的にエクスがつけられる。
「本当に?」
「その村ではね、自然のものから名前を取るの。あなたの名前もそうでしょう?同じ人たちだったのかしら」
「ママさんが、近所にいたエクスの人と仲良くなって、相談して決めたって。4月に生まれたから」
「そう」
安心させるような、柔らかい表情。
「4月は、ドームの外は春なんだって。春にはね、たくさんきれいなわかばが出るって」
わかばが言った。ドーム内は、常に人工的に気候がコントロールされているため、ドーム外ほど激しい季節変化はない。
「春は素敵ね。きれいな花がたくさん咲いて、わかばが芽吹く。命の季節だわ。私は大好きよ」
いつの間に。
シャハンは思った。水嶺は、相当わかばのことを調べ上げたらしい。あっという間に小さな少女の心をつかんでしまった。
「船を見に行きましょう。あなたの船よ。Galaxiaというの。Galaxiaはね、まだ生まれて間もないの」
「赤ちゃんの船なの?」
「そうね、赤ちゃんではないけれど、船としては1年生、かな。でも、一応本人は大きいつもりよ」
大きいつもり、という言葉にわかばがくすりと笑う。
「頑固者だけど、仲良くしてあげてね」
分かった、とわかばが頷いた。二人がGalaxiaがドッキングしている第3ウィングへと移動し始める。
「ああいうのを人たらしっていうのかな」
ぼそっとロスハンが言う。水嶺が振り返った。
「聞こえてるわよ、ロスハン」
わかばも振り返る。二人並んでいるロスハンとシャハンを見て、少しばかり表情を強ばらせた。
「大丈夫よ、わかば。あっちの頭の薄いおじさんがシャハンで、背が高い怪しげな方がロスハン」
頭が薄いだの怪しげだの。
「水嶺、その紹介の仕方はないだろう」
シャハンが苦笑する。水嶺はにっこり笑った。
「ちょっと頼りにならないけど、とてもいい人よ」
そんな、ずばずば言わなくても。頼りにならない、と言われたシャハンが少しばかりしょげ返る。
「ぼくは?」
勢い込んで尋ねたロスハンを指して、更に水嶺は言った。
「あれは、そうね・・・少し、いいえ、かなり変だけど、まあ、悪い人じゃない」
「変なの?」
わかばが尋ねる。
「そう、変。だから気をつけてね」
「待った、水嶺。わかばが本気にするだろう」
「じゃあ、普通なの?」
言われてロスハンがぐっとつまる。その様子に、わかばが声を立てて笑った。
「あとね、お兄さんには秘密があるの」
「ひみつ?」
「教えて欲しい?」
うんうん、わかばが頷く。
「お兄さんはねえ・・・」
火星人なのよ。小声で水嶺が言った。火星人と聞いて、わかばが目を丸くする。
「でも大丈夫。変なだけで、悪い人じゃないから」
「水嶺、変、変って連呼しないでよ」
ロスハンが少しばかり情けなさそうな風を見せる。
「だって本当のことでしょう?」
「うう・・・ようし、そっちがその気なら」
ロスハンは言い、二人に歩み寄った。
「いいかい、わかば。水嶺はね、頭がよくて、美人で、優しい」
にやり、笑う。思いがけない反撃に、珍しく水嶺がたじろいだ。ロスハンは、言葉を継いだ。
「君は、けなされるより褒められる方が苦手だ。もっと言おうか?すごく可愛くて、それから・・・」
「ロスハン!」
水嶺が怒る。ロスハンは、からからと笑った。
「お兄さんは、お姉さんが好きなの?」
わかばがちょこんと首を傾げて尋ねる。
「そう、大好きだ。でも、残念ながら、この通り受け入れてもらえない」
「わかばが本気にするでしょう。変な冗談はよして」
「冗談?ぼくは本気だけど?」
「いい加減にしないと怒るわよ」
「もう怒ってるじゃないか」
ぎゃいのぎゃいのぎゃいの。二人が言い合うのを見ながら、シャハンは、随分ロスハンも腕を上げたものだと妙なところで感心していた。以前なら、完全にやられ一方だったのに、あの水嶺をかなり追い込んでいる。
「仲がいいんだね」
半ばあきれ気味にわかばが言う。
「馬鹿は放っておいて、行こうか」
シャハンは、わかばを促した。こくり、わかばが頷く。
「ねえ、ああいうのを『ちわげんか』って言うんだよね?」
お姉さんも、お兄さんのこと好きなのかな。わかばの言葉に、シャハンは、一瞬沈没しそうになった。女の子はませているとは聞くけれども。どこでそういう単語を覚えてくるのやら?
「うん、まあ、どうかな」
シャハンは曖昧に誤魔化すと、先を急いだ。
シャハンたちがわかばを連れて第3ウィングにつくと、丁度リッジが地球のメディア記者たちに船の案内を終えたところだった。
わかばを見つけた記者たちが、わかばを入れて撮りたいとそう申し出てくる。入り口付近で簡単な映像と写真を撮影した後、リッジは、船のデータを見せるから、と彼らを別の部屋へ連れて行った。
ばいばい。小さくわかばが手を振り、彼らも愛想良く振り返す。
やれやれ。シャハンは小さく息をついた。わかばに無理矢理話をさせないよう依頼してあったのだが、記者たちも守ってくれたようである。
当然といえば当然かもしれなかった。ここは火星上空を回る宇宙ステーション。いかにスクープ好きの記者であっても、ここで事を起こすほど度胸のある者はまずいない。下手をしたら二度と地球へ帰れないかもしれない----きっと彼らはそんなことを思っているに違いない。
火星人は、決して残虐ではないのだが、必要とあればいつでも冷酷な行動に出る。厄介なことに、火星人がどんな時に何をもってそれを「必要」だと考えるか、地球人にはなかなか予測がつかない。だから、大抵、火星人の前では、地球人は大人しい。
「こんにちは、わかば」
入り口で待機していたキュリスが声をかけてくる。水嶺が教えた。
「彼女はキュリス。Galaxiaの内装デザインの担当者よ」
火星人は、機能に関係しない外見には、全くこだわりを持たない。彼らは、完全に、といっていいほど美的センスを欠いている。だから、内装のような分野は、完全に地球人の独擅場である。
「あなたのお部屋もあるの。気に入ってもらえるといいのだけれど」
キュリスは言い、先に立った。
宇宙船の中とはいえ、通路は人が二人並んで楽に歩けるくらいの幅がある。天井は高めで、圧迫感はない。
「この船には、いろいろな設備があるの。アクアリウムでしょ、野菜栽培室、キッチン、プレイルーム、展望室、書斎、体操室・・・小さいけれど、一応プールもね。普段は水を張っていないから、泳ぎたくなったら船に言うといいわ」
キュリスは、船のコントロールを司る中央制御室に向かいながら言った。
「今いるフロアがベースフロア。0階ね。日常生活に必要そうな部屋は大体固めてある。また後でゆっくり見て。そして、ここが、あなたの部屋」
キュリスは、中央制御室手前の扉の前で立ち止まった。
「開けてみて」
言われて、わかばがそろそろと扉を開ける。
「わあ」
思わず、わかばは驚きの声を上げた。白と淡いピンクを基調にした部屋。
「可愛い」
入っていいの?わかばが尋ねる。もちろん、キュリスが答え、わかばはそうっと部屋に入った。後からついて入ったロスハンが、扉の脇にわかばの荷物を下ろす。キュリスが言った。
「あなたの部屋よ。好きに使って」
ベッドに丸いテーブル、椅子。飾り棚に整理ダンス、洋服ダンス、ミニシンク。
「お茶くらいなら、部屋で淹れられるようにしておいたの。どうかしら?」
乗員が10歳の少女だと分かってから、キュリスは寝る時間も惜しんでこの部屋の内装をデザインした。長い孤独な航海の中、この部屋で少しでも安らぐことができるように願といながら。
「ねえ、これ、ウェッティ・ウェッティだよね」
部屋の隅に置かれていた大きなぬいぐるみを指して、わかばが言う。ウェッティ・ウェッティは、今地球で子供たちに人気のキャラクターである。丸い頭に丸い胴、猫のような犬のような奇妙な、けれども愛嬌のある顔は、大人にも案外ファンが多い。
「そうよ。気に入った?」
言われて、わかばは、大きく頷いた。
「あれ、でも、ウェッティの鼻って、紫じゃなかったかなあ・・・」
ぬいぐるみの鼻は黒い。
「ごめんなさい。私、間違えたかもしれない」
「お姉さんが作ったの?」
「ええ。ごめんね。もっとよく確認すればよかった」
「ううん、全然。黒も可愛い!」
わかばは言い、ぎゅっとぬいぐるみを抱きしめた。
「よろしくね、ウェッティ」
何故か、じわり、涙がにじみそうになる。わかばは、必死にそれを押さえ込んだ。
「船の中は、後で自由に探検してもらうとして、大事な部分だけ説明しておくわね」
キュリスは言い、船内略図を出して緊急時の避難経路と救命艇、消火設備のことを説明した。わかばの方はひどく小難しい顔をして聞いている。
「今覚えられなくても大丈夫。船が全て知っているから、分からないことがあればなんでも聞いて。このくらいかな」
キュリスは言い、シャハンを振り返った。そうだな、シャハンが言って頷く。
「時」が近づきつつあった。部屋を出る。すぐ右手で通路は終わっており、突き当たりに両開きの扉があった。中央制御室の扉である。
「あの向こうが中央制御室。コックピットのようなものよ。船を操縦することもできるけれど、基本的には、船が全て自分でやるから、心配はいらない」
キュリスが言う。わかばは、水嶺を見上げた。水嶺が励ますような笑みを見せる。
「ここから先はあなた一人で行くの。Galaxiaが待っているわ。ちょっと口が悪いところがあるけれど、許してやってね。忘れないで。どんな時も、必ずGalaxiaがあなたの傍にいる」
シャハンも頷いた。
「私らもついているしね。大勢のスタッフが、火星から常にGalaxiaのことを見守っている。すぐ隣、というわけには行かないが、いつだって君ら・・・君と、Galaxiaを思っている」
わかばが扉の前へ立つ。扉が音もなくすっと開き、そしてわかばは中へと入って行った。