2章 旅立ち(5)
人が入ってきた気配に、イレニス4は、ちら、と振り返った。ナーナリューズ2。地球人との協調可能性を探る汎識者である。同じ地球人関係の汎識者であっても、火星防衛の観点から地球人対策を行うイレニスとは、逆の位置から地球人を見ている。イレニスは、地球人が火星や火星人に危険を及ばさないよう監視し手を打つのが仕事であり、イレニスにとって地球人は「敵」もしくは「敵となる可能性のある存在」である。他方、ナーナリューズは、地球人を原則として友好的に、協調できる可能性のある存在として見なしている。
「準備状況は?」
入って来るなり、ナーナリューズが尋ねた。
「全て順調。後は、船が離れるのを待つだけだ。それにしても、相当な索敵性能だな。敵より厄介だ」
これでは、あまり近づけない。イレニスが言う。
「敵を探すためのものではない」
ナーナリューズは、まずそう訂正した。
「未知の領域を行く以上、広く正確な『視界』は必要不可欠だ」
「しかし、本当にこのデータは正しいのか?使用している機器の性能から考えると、ここまで広範に高い精度を出せるとは考え難いのだが」
「解析する頭脳が並ではないからな。あのサイズでファリス並の能力を持っている」
「地球人、か」
イレニスは気に入らない風で言った。地球人の要素が加わったことで、ナーナリューズのプロジェクトは、イレニスの予想の上を行ってしまう。本来ならば喜ばしいことなのだが、地球人が絡んでいるとなれば、火星を守るイレニスとしては手放しでは喜べない。
「彼らに武器を作って与えたようなものだな」
「Galaxiaは、別に地球人だけのものではない。このプロジェクトは、火星と地球の共同のものであって、どちらか一方が独占するものではない」
「君はそのつもりでも、地球人はそうは考えないぞ」
「今のところ、彼らもよく分かっている。心配はない」
「油断するな。君は、地球人の狡猾さをよく分かっていない。初めは従順に見えても、隙あらば牙をむいてくる。非常に危険な存在だ。君を見ていると危く感じる。まるで60年も前の火星人のようだ。地球人の危険さを知らず、ただ純粋に彼らの『進歩』を考えた」
「私もそこまで彼らを無垢だとは思っていない。私の仕事は、彼らを進歩・向上させることではない。あくまで、協調可能性を探ることだ」
「私には同じに見える。かつての火星人も、いつか協調することを考えて彼らの進歩を後押ししようとした。だが、結果はどうだ。彼らは諸々の機器資材を奪い、それを使って攻撃をしかけてきている。私らの与えた技術・知識----それを彼らは武器として、火星を破壊しようとしている」
かつて火星は、地球人たちを自分たちと同等な状態まで引き上げるつもりでいた。生存に適さない環境を整え直し、技術・知識を与え----
地球人の扱いは、火星人にとっては非常に難しい。直接個々に当たるより、間に地球人を介した方が上手く行くようだ----それに気付いた火星は、直接介入するより、一部の理解者を介して地球に影響を与えようとするようになった。地球のことは地球人の手に。それは、地球人が望んだことでもあった。
火暦237年(新暦40年)、火星は地球府を改め地球連合府とし、統治を任せた。この措置は、反火星を唱える「大地の守護者」たちには絶好の機会となった。彼らは次第に地球連合府の中にも根を張り、火星が与える技術や機械等を次々とかすめ取って行った。
地球人が火星の知識・技術を用いること自体は何ら問題はない。実際、当初は、地球人たちがほしがるままに火星は与え続けていた。地球人が興味を持ち、関心を広げるのは、良いことだと考えていたのである。
しかし、そうした技術知識が、火星への攻撃に用いられるとなれば、話は全く違ってくる。当初、「大地の守護者」たちは、技術知識をかすめ取り盗み取るだけだったが、やがてそれを用い、時に改良して諸々の設備を襲撃するようになった。
火星が気付いた時には、彼らは月の調査基地を手に入れていたばかりでなく、小惑星帯に基地を築くまでになっていた。月基地はすぐに破壊されたが、小惑星の方はそうは行かなかった。その確かな位置が把握できなかったためである。
この基地が、目下火星にとっての最大の脅威となっている。この基地を根城に、彼らはしばしば調査船や採掘艇を襲う。どこからともなく現れて襲撃し、必要なものを簒奪した後、全てを破砕して行方をくらませる。わずか40年ほどの間に相当な力をつけており、2年前には、木星の衛星ガニメデにあった無人基地が襲われ完全に機能停止に追い込まれた。
現在では、火星から地球への技術・機器譲渡には強い制限がかけられている。地球人は許可なく宇宙へ出ることは禁じられており、物資の輸送も許可制になっている。
「イレニス、それは一部の地球人が引き起こしていることだ。地球人は私らとは違う。彼らは個体による差が非常に大きい。一部をもって全部と見なすことはできない」
あくまで地球人を敵視するイレニスに、ナーナリューズは、そう反論した。
「その一部が問題だ」
イレニスが言う。
「たとえ一部の地球人のすることであっても、一つ打つ手を間違えれば、彼らは十分に被害を与え得る」
それは、ナーナリューズとしても認めざるを得ない事実ではあった。そして、それ故、イレニスは、ナーナリューズの進めるプロジェクトを常に警戒し続けている。
ナーナリューズが進める火星と地球の共同プロジェクトが、初めに火星側が提示したような地球環境の改善や旧文明の掘り起こし作業を目標にしていれば、イレニスは、これほども警戒感を抱かずに済んだだろう。けれども、ナーナリューズは、思いがけず、火星ですら緒にも就いていなかった太陽系外探査の話を持ってきた。地球人のアイディアだと聞いてイレニスは強く反対したが、執政委員会はそれを通してしまった。
「君のプロジェクトは、どうあっても非常に危険すぎるものだ」
イレニスは言った。
「今に分かる。君は、地球人スタッフを信じているようだが、必ず裏切る者が出る」
イレニスの言うことは、間違ってはいない。
「可能性はあるな。詰まるところ、リスクとメリットのバランス問題だ。地球人には、私らにない発想力がある。それは、しばしば、無根拠で無茶で、とてもあり得ないものに見えるが、私らが詳細に検討することで実現可能になることも多い。ファリスの出した火星の停滞予測を打ち破るにあたって必要な要素だ」
「地球人を全て排除せよとは言わないが」
イレニスは、続く言葉を飲み込んだ。もっと穏当な目的に、というのは、もっと早い段階で打診し、そして拒否されている。今再度持ち出したところで、ナーナリューズが是と言うはずがない。
「十分気をつける。それは約束する。何かあればすぐ君らに連絡する」
ナーナリューズはきっぱりと言った。
「私とて、火星を危険にさらしたくはない」
「分かっていればいい。どうも、地球人と近しく接触する火星人は、そこを忘れがちになるようだからな。実験対象に集中するのはいいが、君が扱っている代物は最上級の危険物だ。それを忘れるな」
「頼りにしている」
ナーナリューズに言われ、イレニスが了承の印に軽く指を立てる。
「そろそろ時間だ」
イレニスは、メインスクリーンへと向き直った。
火星の周囲を回っていた船が、周回軌道を離れ、更に遠い宇宙へと旅立って行く。火星の周回軌道上を回る8つの宇宙ステーション全てのカメラ映像から完全にGalaxiaの姿は消え、そしていつに変わらぬ宇宙空間の映像だけになった。
船からの通信は、まだ特に何も入っていない。船が自動的に送ってくる計器データは全て正常で、航行はひとまず順調に進んでいるようである。
ともあれ、無事に飛び立った。シャハンは、内心ほっと息をついていた。乗員が子供とはいえ、初めての有人宇宙船の航行である。管制室には、全ての地球人スタッフが集まっており、室内には抑えきれない興奮した空気が漂っている。
そんな地球人たちをよそに、火星人たちはいつもと変わらない。管制室にいるのは、今この部屋の担当になっている者だけで、総合責任者のナーナリューズすらいない。シャハンが宇宙ステーションから戻るとすぐ、どこかへ消えてしまった。地球人からすれば一大イベントなのに、淡泊なものである。いつもなら、地球人の中をうろついているロスハンの姿もない。何やらナーナリューズの使いで行くところがあるとかどうとか言っていた。
「さて、と。そろそろ帰るか」
タリーがうーん、と伸びをして言った。時計を見る。18時22分。かれこれ8時間余りこの管制室にいた計算になる。
「そういえば、キュリス、出発はいつ?」
タリーが尋ねる。
「明後日よ」
内装を担当したキュリスは、これで仕事が完了である。
「寂しくなるわね」
アシャンが言った。
「私も寂しいわ。これでみんなとお別れだなんて。いろいろあったけれど、楽しかった。ありがとう」
気遣いの細やかなキュリスは、皆に人気があった。皆の調整役でもあったキュリスが抜けるのは、シャハンとしては頭が痛いが、仕方がない。
「それで、結婚式はいつ?」
一人が尋ねる。
「問題がなければ、来月25日に」
「じゃ、あとひと月足らずか。おめでとう」
皆が口々に祝いの言葉を述べる。キュリスには婚約者がいて、火星での仕事が終わるのをこの3年というもの、ずっと待っていた。地球人スタッフの入れ替わりは激しい。大体3年から4年、時には1、2年で入れ替わる。地球人にとって、火星は暮らしにくい場所である。火星局もそれは分かっていて、初めから期限を切って人を投入してくる。シャハン一人を除いて。
送別会とお祝いを兼ねて、ぱーっとやろう、そんな声がどこからともなく上がる。現在仕事が入っている者を残し、地球人スタッフは食堂へと移動して行った。
「シャハン、早く」
一人がそう声をかけてくる。シャハンは、皆と少し離れたところで、Galaxiaの様子を伝えるモニターを見つめる水嶺に声をかけた。
「え・・・?ああ、ごめんなさい」
はたと我に返った水嶺が、足早に皆の方へと移動する。シャハンは、今一度管制室を一瞥し、問題がなさそうなのを確認すると皆に続いて部屋を出た。
同じ頃、火星の衛星フォボスから静かに飛び立つものがあった。一つ、また一つと。けれども、地球人でそれに気付いた者は誰一人としていなかった。