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プリントの作成を終えた樹が大急ぎで檀家達の家を回って帰ってくると、十四時を少し過ぎていた。
途中で昼食を摂っていたこともあり、少々時間はかかってしまったが、ともかくもこれで檀家達の意向を問うことができる。
できれば全員に参加して欲しいところではあるものの、実際に来てくれるのは半分程だろう。
参加できない檀家には委任状を郵送してもらうか、その場で記入してもらってきたし、結果について文句を言われることはない筈だった。
後は次の土曜日を待てばいい。
樹が車を庫裡の裏へ回すと、あの女性の車はやはり志奈乃の車の奥に停まっていて、女性は運転席にいる。
寺の中で魔王を追いかけ回さないだけまだ良識があるようだが、ここにじっと居座られるのもそれはそれで不気味だった。
志奈乃の車の横に車を駐めた樹が、車から降りて何気なく顔を上げると、車の中の女性と目が合って、樹は気まずい思いをしながらも軽く会釈する。
樹が足早に玄関の方から本堂へ回り込むと、志奈乃は参道の石畳の草むしりをしている最中だった。
魔王は屈み込む志奈乃の近くに佇んでいたが、女性があの場にいたことからして、魔王の目論見は失敗に終わったようだ。
樹は魔王に向かって歩み寄りながら言った。
「只今帰りました」
「ああ、大儀だったな」
魔王は相変わらず感情の読めない顔と声で、そう樹を労った。
時代劇でしか聞いたことがなかった「大儀」という言葉を、まさか日常会話で聞くことになろうとは思わなかったが、魔王の実年齢は少なくとも二五〇〇歳なのだから、語彙が古めかしいのも納得ではある。
樹は志奈乃にも声を掛けた。
「よお、お疲れ」
「お帰り」
志奈乃は一度手を止めて樹を振り返ると、すぐに視線を地面に戻して草むしりを再開しながら続けた。
「檀家さんの家、一軒一軒回ってたんでしょ? 大変だったね」
「まあな。郵送だと届くまで数日かかるし、できるだけ直接会って事情を説明したかったし」
樹は一度言葉を切ってから、改まった口調で言った。
「あのさ」
「何?」
志奈乃にそう訊き返されて、樹は言葉に詰まった。
いくつになっても、酷いことを言ってしまった相手に謝るのは少し勇気が要る。
樹は深く息を吸い込んでから、思い切って一言だけ言った。
「悪かったな」
志奈乃は再び手を止めると、今度は怪訝そうな顔で樹を振り返った。
「どうしたの急に? ウチの車にぶつけたとか?」
駄目だ、全然通じてない。
樹は思わず脱力して座り込みかけたが、何とか気を取り直して持ち堪えた。
この話の流れでいきなり謝られたところで、何のことだかわからないのも無理はない。
いちいち説明するのも気恥ずかしいが、しかし説明してわかってもらえないことには、謝った意味がなかった。
樹は言う。
「……俺イライラして、駄目人間とか酷いこと言っただろ」
「あ、そのこと? 別に気にしてないからいいよ。普通、引きこもりしてるような人を『立派な人』なんて言わないんだから、駄目人間呼ばわりされても仕方ないんだし。でも、ありがと」
志奈乃はあくまで軽い口調でそう言った。
予想していた反応とは違っていて、樹としては少々拍子抜けしたが、もしかしたら気を遣ってわざと軽く受け流してくれたのかも知れない。
理由はどうあれ、せっかく許してくれたのだから、たとえこの先志奈乃に対してどんなに腹の立つことがあったとしても、もうあんなことは言わないようにしよう。
樹はそう固く決意してから続けた。
「あと、ありがとうな」
「え? 今度は何?」
きょとんとした顔の志奈乃に、樹は言った。
「さっき、いいアイディア出してくれたから。それに何て言うか、俺達のもやもやした気持ちの落とし所も教えてもらったし……」
寺は基本的に誰でも出入りが自由な場所で、それが当たり前だと思い込んでいたので、自分には特定の人間を出入り禁止にするという発想がなかったし、英知達にしてもそれは同じだろう。
人間である以上相性や考えが合わない人もいるが、それでも今までこの寺から誰かを排除したことはなかったし、檀家である志奈乃がああ言ってくれなければ、踏ん切りが付かなかったかも知れなかった。
「だから、ありがとう」
「別にお礼言われる程のことじゃないと思うけど、役に立てたなら良かったよ」
志奈乃はにこりと笑うと、再び草むしりに戻る。樹も掃除の前に作務衣に着替えようと、庫裡に向かった。