第2章 里美(VOL.4)
「おまえの、そんな気持ちを気付いてもやれずに、俺は、自分のことしか考えていなかった。本当にすまない」
顔を離した敏夫が、また里美に謝る。
「もう、いいの。もう、済んだことよ。わたしだって、あなたの苦しさを本当には理解していなかったと思う。お互いさまよ。悪い夢を見ていたんだと思いましょう」
里美が微笑んだ。里美に釣られて、敏夫も笑顔になった。
「そうだな、いつまでも悔やんでいたってしようがないものな。ようし、これからは心を入れ替えて、おまえに尽くすぞ」
「そうね、うんと尽くしてもらうから、覚悟しておいてね」
そう言って、里美が腕を絡めてきた。
「うへぇー、これは厳しそうだな」
今、二人は、ぎこちない恋人同士から、夫婦に戻った。いや、たんなる夫婦ではない。愛情が深まり、信頼感が増している。加えて、新婚のように甘い気持ちになっていた。
「ねえ、せっかくだから、浅草に行きましょうよ」
ここは、浅草である。里美が言った浅草とは、雷門を通り、仲見世を抜けて浅草寺にいたるコースを差している。
そこは、二人にとって思い出の場所だった。
初めてデートしたのが、そこなのだ。
敏夫は、会社のマドンナ的存在であった里美に、早くから好意を寄せていた。マドンナ的存在だけあって、里美は美しかった。スタイルもよく、仕事もできた。
しかし、それだけでマドンナ的存在になっていたわけではない。大手だけあって、里美くらいの容姿の女性は、他にいくらでもいた。
里美は、美しいだけではなかった。自分の容姿を誇ることもなく、かといって、隠し立てもしない。いつも颯爽としていて、それがより美しさを際立たせていた。性格もよかった。芯はしっかりしているものの、素直で人の言うことをよく聞き、朗らかで、後輩の面倒見もよかった。
そんなわけだから、誰からも好かれていた。上司や男どもは言うに及ばず、女性からもだ。後輩の女性からは、憧れの的となっていた。
そんな里美であったから、ライバルも多く、デートにいたるまでの道のりは険しかった。部署は一緒だったものの、仕事ではあまり絡むことはなかった。
ある日、会社の飲み会で席が隣同士となり、ふとしたことから話が弾んで意気投合した。
そのときに、里美が浅草の話をした。
小学校の遠足のとき一度行ったきりで、それ以降は行っていないこと。あの、多様な店が両側に軒を連ねている雰囲気と、人々の雑踏の賑やかさが忘れられないこと。都内に住んでいるのだが、なぜか行く機会がなく、いつかは行こうと思いながらずるずると今日にいたっていることなどを。
このチャンスを逃すまいと、敏夫は勇気を出した。
「だったら、今度の休みに一緒に行こうよ」
里美をデートに誘った。
里美は少し躊躇ったあと、「いいわ」と返事した。
そんなわけで、初デート以外にも、二人は付き合っているときによくここに来た。しかし、子供が出来てから滅多にこなくなった。最後にここへ来てから、もう何年になるだろうか。
「久しぶりね」
里美が、雷門の大きな提灯を楽しそうに見上げた。
「本当だな」
ここは、相変わらず賑やかだ。
提灯をバックに写真を撮る者。歓声をあげて提灯を見る者。提灯を真下から見上げる者。若いカップルや旅行者。おじいさんおばあさんの団体。アメリカ人や中国人など、さまざまな国の人々。
そういった人々の楽しそうな喧噪が、よりを戻したばかりの二人の心を、いっそう幸せで満たしてくれた。




