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「あは……、きもちいいよお……」
あまりの快楽に、サカナは何も考えられなくなる。
吸血生物の多くは獲物に気づかれないよう鎮痛物質を分泌するが、吸血鬼に関してはその比ではない。むしろ自分から望んで噛まれに来るような――圧倒的な多幸感をもたらし、一種のドラッグじみたものがある。
(この子の生命力はすごい――ニンゲンじゃないみたいだ)
一方で吸血鬼の少年は驚きに満ちていた。
喉を鳴らして血液を飲み込むたび、体中に生命力がみなぎっていく。
ちぎれ落ちてしまった左腕も、みるみるうちに再生していく。
(もしかして、ニンゲンじゃないのか?)
もっとも吸収効率の良い個体が、若くて健康的な人間だが――それを超越しているこの少女が、アスターは気になって仕方がない。
「ぷはっ……」
十分に生命力を奪い取ったアスターは、さらなる驚きを隠せなかった。
口の周りの血液がすぐに凝固して、鉱石のように変化してしまったからだ。
「うえっ、なんだこれ!」
己の牙に張り付いた血の鉱石を、吸血鬼のするどい爪で剥がしては吐き捨てた。
「これは、いったい……」
人間ではありえない、瞬間的な血液の凝固変化を見たアスターは――いっそうの好奇心をこの少女に抱いてしまう。
「はぁ……、はぁ……」
サカナの息遣いは荒さを増し、目元には涙を浮かべている。アスターにしがみついては、もっと吸血して欲しいと上目遣いになっている。
アスターは顔を真っ赤にして、サカナの体を押して離れさせようとする。吸血行為によって、いくら背徳的な感情を揺さぶられようと食事は食事。食事なんかで心が揺れ動くことがあってはいけない。アスターというノイア一色の器に、他の少女が入ってしまったら――ノイアに嫌われてしまうかもしれないから。
「ち、近づくな」
捕食をするために近づかせては、女性を意識したくないから離れろという。
自分勝手な言い分だとアスターは思う。
そんな少年の、複雑な気持ちなど――サカナは知る由もない。先ほど味わった快楽をまた味わいたいと、虚ろな目でアスターへと近づいていく。
「もっと、吸って……」
アスターに、サカナの豊かな胸が押し当てられた。
いけないと分かっていても、華奢なノイアと比較してしまうほどの強烈な母性。
これ以上触れていたらおかしくなってしまう――そう考えたアスターは、サカナを突き飛ばした。
「きゃあっ!」
サカナは地面に叩きつけられ、我に返ったのか表情が真顔になる。
「い、いたぁい……」
後ろを振り向けば、傷ひとつないアスターがそこに立っている。
「あれ、君は……」
「僕に寄るな、この奇形め!」
「え――」
彼は慌てたように、サカナの胸を指差してそう言った。
「そんな醜い肉塊で、僕を誘惑するんじゃない!」
「………」
サカナは、ポカンとした表情を浮かべていた。
『魅了の魔眼』が効いている間、そのときの記憶は対象者に残らない。
サカナにしてみれば、傷を負った少年がいつの間にか五体満足になっていて――いきなり少女のことを罵倒しているのだから、混乱するのも無理はない。
しかし、サカナはそんなことよりも、気になっている言葉があった。
「奇形……、醜い肉塊……?」
サカナは自らの胸元を見て、少年の言葉を繰り返した。
「ううっ……!」
ずきり、と頭が痛んだ。
遠い昔、同じようなことを誰かに言われたことがあった。
その記憶が突然、フラッシュバックしてサカナの脳裏に広がっていく。
「うああああッ――!」
「それが、×××××の遺児なのですか」
「そう。彼女が最後に遺したかったものがこれです」
「なんて醜い」
「×××××も愚かよな。ニンゲンの文化など知る必要などなかったのだ。我々が正しく導けば、主の意向にかなうものを」
白と黒だけで構成された、色のない空間だった。
静謐な空気が漂い、一片の邪気も許さない聖なる領域。
そんな場所で、六枚の翼を持つ者たちが、サカナを囲うように席についていた。
「どう思う?」
「どう思うも何もないだろう。あまりに奇形、直視できぬわ」
「片翼では、空も駆けられぬ」
そのとき、ひどく傷ついたことを少女は覚えている。
そう――いま自分の背後にある、片方しかない翼を悪しざまに言われていた。
「これでは『一対』の『三等級民』どころか、それ以下の存在だ」
「それに、その醜い肉は腫瘍か何かなのか? おぞましい」
彼らの肉体は、女性ならば完璧なる美を体現した流線型のフォルムに誇りを持っていた。サカナのように、豊かな乳房を持つ者など存在しなかった。
「これが、『下界』の民と交わった結果というわけか」
「彼等に知性はありますが、未だに進化を重ねても、動物の原始的な部分を切り離すことができない存在です」
「つまりあれか、この醜い肉塊は――動物の性的アピールのメカニズムを組み込んでしまったと」
「下界の生態系では、普遍的に見られる要素ですな」
一同の動物を見るような視線に、サカナは奥歯を噛み締める。
自分の姿はそこまで醜いのか。見るに堪えない存在なのか。悔しさで胸がいっぱいになった。
「やはり、処分ですかな?」
「そうですね――下界の民の血が、どう影響するか分かりません。このようなイレギュラーは永久幽閉すべきかと」
「ちょっと、待ってください」
一人の女性が異議を唱えた。
「彼女は×××××の子なのですよ? せめて文化的な暮らしを保証するべきです」
「×××××はもう居ない。亡き者を慮る必要などないだろう」
「しかし――」
「そこまで食い下がるのだから、『慈悲』を司る一柱は面倒なものだ」
リーダー格の男が、咳払いをひとつした。
「よろしい。彼女の意向を汲み取って、遺児の処遇を伝える」
サカナはじろりと彼を見た。
「×××××の遺児――天使サタナエルよ。おまえは三等級民の暮らす『最下雲層』へ向かうがいい。其処で慎ましく生きることを許可する」
醜い天使にはお似合いだ――その声を聞いたときには、サカナは四枚翼の天使に引かれて、議事堂を後にしていた。重い鎖を引きずる音がノイズになって、彼女の意識は現実へと戻っていく。
サタナエル、それが本当の自分の名前。
そして、
「わたしは、みにくい……」
燃え盛る街で、サカナはポツリと呟いた。
アスターは、いきなり我を失った少女を訝しげに見つめながら――急に心配になって話しかけようとした。
そのときだった。
「なっ――」
光の線が明後日の方向から伸びてきたかと思えば、建物ごと空間をバターのように裂いていた。すんでのところで、アスターはかわすことに成功したが――こんなものを食らっていたら、ひとたまりもなく浄化されていたことだろう。
「いやはや、手負いならば確実に仕留められたと思いましたがねえ」
そこに現れたのは、先ほどまでアスターと交戦していた『デイヴォート』の執行者バラッドだった。
「そのいたいけな少女を食べて、完全復活ってところですか。ということは、この自分と、まだまだ遊んでくれますか?」
アスターは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「今日は帰ります。あなたのような『化け物』を相手にしていたくない」
「はははっ、降参ですか?」
「あなたの存在が、この街を壊しすぎる……」
そう。
アスターの言うとおり、バラッドの戦い方は狂戦士さながらで――彼は強力な光の魔術式を使って、ウィンデル街の建物や地形を破壊し尽くしていた。目的のためなら犠牲を厭わない、人としてマトモとは思えない戦い方。
「ほほう。真っ先に街へ被害を与えたあなたが、人徳を解きますか? アンデッドの分際で? 嗚呼、実に滑稽ですねえ」
「僕はあなたとは違う――街の機能を麻痺させないように、見せしめを行った」
アスターは『誰そ彼刻』の舞台となる広場から、徐々にスラム街の方へと攻撃の矛先を移していった。ウィンデル街の経済活動の主軸であり、自警団を兼ねているギルドを襲撃しなかったのも、資産家が多く住む、西通りの高級住宅街――そして労働者が多く住む、東通りの住宅街を襲撃しなかったのも、街そのものの機能不全を避けたためだ。
「成る程、街を破壊してしまえば『誰そ彼刻』が成り立たなくなり、人間の食料が手に入らなくなるためですか」
ノイアを生かすためには、食料が必要不可欠だから。
アスターはどうしても、システム自体を破綻させるわけにはいかなかった。
「それで、どうでも良いと判断した場所――貴方は『スラム街』を焼いたわけだ」
「……そうだ」
バラッドは笑顔で拍手を鳴らした。
「ああ、なんてお利口な少年なのでしょう! 見せしめをしたいが街を生かしたい、ならば『どうでも良い』場所を焼くなんて!」
そして、急に真顔になった。
「本当の差別主義者はどっちなんでしょうね?」
「………」
戦い方がマトモでなければ、小汚い口先も癪に障る。
少年はもう一分一秒たりとも、この男性と向かい合っていたくなかった。
「もうたくさんです。あなたと話していると、全てが嫌になってくる」
アスターは、その場から大きく跳躍すると建物の屋根に乗って、そこから蝙蝠の翼を生やしてどこかへ飛んでいってしまった。
「ようやく退きましたか――決着はまた今度ですね」
ここでアスターを浄化してしまえば、彼が匿っている人物を保護することができなくなる。
「さすがに人的被害を出すわけにはいきませんから」
バラッドはアンデッドを無条件に殺すが、生きとし生けるものは皆愛している。
彼の戦いによって出た死傷者は――奇跡的か意図的か――ひとりもいない。
「さて、あれはザッツさんのお連れの方でしたか」
路上に気絶している、サカナに治癒魔術を掛けてやる。
「かなりの量を吸血されたとみえる、早急に栄養食を与える必要がありますね」
バラッドは顔面蒼白のサカナを担ぎ上げると、彼が『何でも屋』と認識している冒険者ギルドに向かって歩いて行った。




