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ウィンデル街の最有力貴族、辺境伯ヒューゴ・パラディール。妻を亡くした彼には、溺愛する一人娘が居た。その名をノイア・パラディールという。彼女はあまりに『特異な体質』を有していた。
「ノイアお嬢様」
初老の男性が、煌びやかな廊下に配される、ひとつの扉をノックしながら言った。
彼はパラディール家に仕える、執事長のランドンである。
「よくってよ」
「では失礼致します」
執事長が扉を開けると、ふわふわした桃色髪の少女がおめかしを終えていた。
ノイアと呼ばれた少女は、末広がりの豪華なワンピースドレスに身を包んでいる。
「午後のスケジュールですが、二時からライオネル邸にてピアノのお稽古、四時からシャーロット牧場にて乗馬の練習を、六時からはヒューゴ様自ら書斎にて帝王学の教鞭を執るとのことです」
「委細承知してますわ」
ノイアはため息をひとつ、大きく分かりやすく吐いた。
「言わなくても分かりますのに、面倒くさいったらありませんわ」
「……ご容赦願います」
「はいはい、お父様から習ったので分かっています。言葉を介在したコミュニケーションこそが、大切なのでしょう」
ノイアは椅子からゆっくりと立ち上がると、扉の方へと向かっていく。
「ランドン」
「はい」
ノイアは柔和な笑みを浮かべていた。
「お孫さんが生まれたのね、おめでとう」
「も、勿体無いお言葉です」
「むしろ、言ってくれないんだもの。他人行儀が過ぎるわ。『思う』だけで口にしないのだから、やりにくい」
「で、ですが」
「ふふ、はやく帰ってお孫さんの顔が見たいなら――わたくしがお父様に交渉して差し上げますわよ。お父様は厳しく見えるけれど、情に訴えれば簡単にわがままが通るのですから」
執事は動揺を打ち払うように、咳払いをひとつした。
決して平常心を乱してはいけないと、自分に言い聞かせている。
そこでネガティブな言葉を思い浮かべれば――ノイアは何をしでかすか分からない。
そう、ノイア・パラディールは『他人の心の声が聞こえてしまう』特異体質なのである。ノイアの母親が馬車に轢かれ、この世を去ってからその力は発現した。以来、彼女の読心能力は強まっていくばかりだ。
そして、周囲の人間たちがその異質に気づき、ノイア自身がそれを理解したとき――彼女の日常という歯車は、確かに狂い始めていた。
「じ、時間が押しているので、そろそろ行きましょう」
「ええ」
ノイアは部屋を出る前に、天井を見上げていた。
そしてずっと気になっていたことを、執事ランドンに尋ねることにした。
「上の部屋には、誰が過ごしているの?」
ランドンは、訝しげな顔をした。
屋根裏部屋は使用人の住居として利用されていた頃もあるが、離れの方ができてからは皆そちらに暮らしている――という思考を、ノイアは読み取った。
「いや、言わなくてよくってよ。変なことを訊いたわね」
ノイアは『上にいる誰か』を気にしながら、自室を後にした。
誰かが屋根裏部屋に潜んでいる。
調度品の散乱する薄暗い空間に、じっと息を潜めている人影がある。
「………」
傷んだ銀髪の少年が、体を丸めてそこに居た。くたびれた茶色のシャツに、同じく茶色のズボンを履いていた。彼のくすんだ碧眼は何も見ていない。どうやってこの場所に忍び込んだかすらも覚えていない。スラム街出身の彼は、毎日を生きることに必死だった。それだけの事実が、彼の存在を支えていた。
「………」
すでに時間感覚はなく、窓から漏れる光量で今が夜であることを少年は判じた。しばらく何も食べていない――少年は手に持ったパンを見つめていた。この家のゴミ箱にあったものだ。彼はおもむろにパンを囓ったが、それはガチガチに堅くなっていて、ひどく食べにくそうにしていた。それでも美味しいと彼は思った。原始的な欲求を埋めるだけで人生が充実していたからだ。
「だけど――それで、アナタは満足しているの?」
少年は、誰かに話しかけられていた。
声色は女性のもので、その人物が持つ明かりの光が眩しかった。
「それだけで、生きているって思えるのは――」
少女は壁のフックに、ランタンを吊るした。
「なんだか、羨ましい」
「……ッ!」
少年は咄嗟に果物ナイフを手に握った。厨房を漁ったときにくすねておいたものだ。
「静かに、していろ」
少年は久しぶりに、意味のある言葉を口にした。
そのまま彼はゆっくりと、屋根裏部屋にただひとつ設置された窓に移動する。横目で窓の外を見るが、やはりここは高すぎる。ともすれば、
「わたくしを人質にとって、逃げるおつもりなのね」
少女はニヒルな笑みを浮かべて、不用意に少年へと近づいていく。
それに対して少年はナイフを前に突き出した。
その先端は震えている――否、震えているのは少年の方だった。
「かわいそう」
少女の発した言葉は、哀れみに満ちていた。
「アナタには、人間らしい心がないの?」
彼女はずっと、屋根裏に潜む少年の『心の声』を聞いていた。
『お腹がすいた』『眠くなってきた』『寒くなった』『なんだか怖い』
少年の放つ感情は、極めて野性的で、生存本能の範疇からはみ出さず――そして、あまりにも心が空っぽだった。
だから――そんな小動物のような存在が気になったから――少女の足は、屋根裏部屋へと動いていたのだ。
「ど、どういう意味だ」
「怖がらないで」
少女は刃に臆することなく一歩、また一歩と距離を詰めていく。
後ずさる少年は、壁に追い込まれていた。
「そうやって、アナタは空っぽの生活を続けるの? 明日も、明後日も」
「………」
少年は、その言葉の意味を理解できなかった。
今日と明日の違いも分かっていない、考えたこともない少年にとって、その問いは戸惑いを生むばかりだった。
しかし、少年はどこか悲しかった。
頭では何故悲しいのか理解できなかったが――それが悲しいことなのだと、少女の表情が訴えていたからだ。
「でもね、わたくしはそれが羨ましい」
いつの間にか、ふたりの距離はすぐそこまで近づいてきていた。
少年が手に持つナイフは、震えているが動かない。少女はその手を押しのけて、そのまま少年を抱きしめる。
彼の体は汚れていて、形容することができない凄い匂いがしていたが――少女はまったく気にすることなく、古いぬいぐるみを愛でるように頭を撫でていた。
「ぅ、ぁ……」
「そして、どこまでも妬ましくって、仕方ないの」
少年の心は、空の器そのものだった。
中身がないということは、人間的な憂いを一切抱かないということだ。
不安が、憤怒が、憎悪が、愛惜が――人間の社会活動において生まれる、煩わしい感情と、この少年は無縁なのだ。生き方を変えない限り、この先もずっとそのままなのだろう。
だから。
「ねえ、アナタの名前を教えてくれない?」
この少年を飼いたくて、仕方なかった。
この少年を壊したくて、仕方なかった。
「………」
少年は口を噤んでいたが、心に己の名前を思い浮かべた以上、少女は耳聡く聞きつけてしまう。
「ふふ……、それがアナタの名前なのね、アスター?」
「……そうだ」
アスターと呼ばれた少年は、そのことを驚かない。
獣のように生きてきた彼にとって、日常と超常の区別はないのだから。
「わたくしはノイア・パラディール、この屋敷に住んでいるの」
「明日になったら、忘れてるよ」
アスターは、自分の生き方を変えたくなかった。人との繋がりのない空っぽな人生。彼にはそれだけで十分だったからだ。
だが――
母の記憶がないアスターにとって、ノイアの腕の中はとても居心地が良かった。
知ってはいけない感情を、柔らかな温もりの中に見出してしまう。
「女の子は、初めて?」
その言葉を聞いたアスターは、心の底から慌てていた。
どういう意味で訊いたのか。どうしてそんなことを言ったのか。少年を戸惑わせるには十分だった。彼に新しい感情が次々と生まれては、胸が高鳴っている。ノイアはその心の動きを見逃しはしない。
「え――」
ノイアは顔を、アスターの顔に近づけた。少女はとても妖艶な笑みを浮かべていた。彼の心は手に取るように分かっている。高まる支配欲と高揚感。
少女の吐く息に触れて、少年は熱いものが込み上げてきた――そのときだった。
「んっ……」
ノイアは不意をついて、唇を重ね合わせていた。
見ず知らずの少年に抵抗なく、唇を重ね合わせていた。
「!?」
アスターは大きく目を見開いて、羞恥心がまず駆け抜けた。体が火照ったあと次に訪れたのは恐怖心だった。このままでは既存の自分が壊れてしまうと、心が悲鳴をあげている。
「んぅ……、んちゅ」
しかし、彼女の情熱的なキスに、次第に少年の思考は麻痺してきた。徐々に彼の感情は、愛しさや安心感へと変化していく。
「ふっ…、んん……」
アスターは自分の気持ちを確かめるために、彼女の情熱に応じてみる。とても心地よい、運命的な出会いだ――などと、肯定感に溢れていく。
「ぷはっ……」
その結果。
たった一度の口付けで、アスターは少女の虜になっていた。
たった一度の口付けで、ノイアは少年を篭絡してしまっていた。
「ふふ……、あははっ……」
ノイアは狂ったように笑っていた。
この少年の心はもう、自分の色にしか染まらない――空の器に中身を詰めるのも、壊してしまうのも思うがまま。それを考えるだけで、彼女の心はどんどん昂ぶっていった。
「アスター」
激しく息をしている彼に、ノイアは言葉をかける。
「わたくし、アナタを好きになってしまいましたの」
「うん」
「だから、アナタはわたくしの所有物になるの」
「うん」
「いいわね?」
答えなんて、訊かなくったって分かっていた。
アスターの抱きしめる力が強くなっていたからだ。もうノイアから離れたくない。そんな強い意思が伝わってくる。
「分かった……。僕はノイアのモノだ。好きにしてくれて構わない」
アスターは目を閉じて、ノイアの醸し出す仮初の母性に浸っていた。
そんな少年を撫でてやりながら、ノイアは満足そうな笑みを浮かべていた。




