第2章 地下室の男
昨夜に引き続き、被害者の残留思念の収集するために、天宮は『理容店KIRISAKI』を訪れていた。時刻は正午過ぎ。人通りは多いものの、休日であるため、子供の天宮が私服でうろうろしていても特に見咎められることはなかった。
「…………」
店の場所は、どこの町でもありそうな商店街の中だ。通りを行き交う人々の年齢層が高齢者ばかりであることを除けば、学生の天宮でも、それほど歩きにくいわけではない。
だがしかし、『理容店KIRISAKI』だけは違った。
いかにも歴史がありそうな呉服屋と、人の良さそうなおばさんが立つ八百屋の、その真ん中。煉瓦とコンクリートで固められた、地下へ向かう細い下り階段は、さながらRPGのダンジョンのよう。もしくは階段に擬態した巨大生物が口を開け、獲物が自分から飛び込んで来るのをじっと待っているようにも見える。
加えて、『理容店KIRISAKI』の周囲は平凡な商店街であるというそのギャップ。
階段の先を見下ろした天宮は、警戒するように左右を見回した。
ただの散髪屋に入るだけなのに、妙に緊張してしまう。アンダーグラウンドに存在するその店に、未成年である自分が入ることを誰かに見咎められるんじゃないかと、自意識過剰になっているのだ。
まあ、いつまでも立ちつくしていても仕方がない。
周囲の人が疎らになったのを見計らってから、天宮は階段を一気に駆け下りた。薄暗くとも段差を踏み外すこともなく、扉前に到着する。が、
「『Close』?」
扉には、閉店の旨を伝えるためのプレートが掛けてあった。
休日の昼間に閉店しているなんて、じゃあいつ営業するのかという疑問が残る。いや、閉まっているということは、里緒は今、出掛けているのだろうか。それとも天宮と事件の調査をする予定があるから、わざわざ営業を中止しているのか。
どちらにせよ、天宮は別に客として訪れたわけではない。プレートの内容に関係なく扉のノブを回すと――普通に開いた。
明度の高い白色光が、天宮の虹彩を刺激する。すぐに順応した眼で見回したそこは、昨夜と変わり映えのない、誰もいない理容室だった。
いや――観葉植物で仕切られた待合席に、一人だけいた。
背の高いその男は、無表情のまま天宮を一瞥する。
「こ、こんにちは」
恐る恐る天宮が挨拶をしても、怜生はわずかに顎を引いて頷くだけだった。反応してくれただけでもマシか、と思う。昨夜、天宮は彼とはまったく会話らしい会話をしてはいないし、声を聞いたのも一度だけだった。
なので、簡単な質問をするだけでも、少し口ごもってしまう。
「えっと……、里緒……は?」
「姉さんなら今、出掛けている。第二、第三の被害者が殺された現場だ。俺はお前が来たら、丁重に出迎えるように言われた」
その態度が丁重なのかよ、と指摘してやりたかったが、その前に天宮は訝しげに眉を寄せた。残留思念を収集する際は、天宮も同行してくれるという約束だったはずだが。
「昨日の反応からすると、どうせお前は退屈するだろうから、先に残留思念だけを集めてこようという姉さんの心遣いだ。四番目の被害者には必ずお前を連れていく、とも言っていた」
「そうですか……」
四番目の被害者というと、セナのことだ。里緒の気配りは有り難いが、できれば約束した手前、事前に連絡くらいはしてほしかった。
ただそうなると、天宮は手持無沙汰になってしまう。いつ頃出ていったのか、またはいつ頃帰ってくるのか訊こうにも、再びだんまりを決め込む怜生に問うのは躊躇われた。故に、店の入り口で不審に店内を見回すのみだ。
「そんな所で突っ立ってないで、座ったらどうだ?」
「はあ……」
見かねたのか、怜生が低い声で勧めてきた。いろいろ諦めた天宮は、素直に従う。
少し離れた場所に腰を掛けると同時に、怜生が立った。
「何か飲み物を淹れてこよう」
「いえ……おかまいなく」
「かまえ。こちらともてなすように言われているんだ」
そう言った怜生は、大股でさっさと店の奥へと引っ込んでいってしまった。
もてなす心構えがあるのなら、できればもっと柔和な対応をしてほしいものだ。正直、背が高くて無表情な年上の男ってだけで、高校生である天宮にとっては緊張の対象であるというのに。まあ、逆に柔和過ぎて気持ち悪い里緒と比べれば、まだまだマシな方かもしれないが。両極端な姉弟だ。
怜生が持ってきてくれたオレンジジュースを前にして、天宮はまた固まってしまう。とても耐えがたい雰囲気だ。静かすぎて気まずい。時間潰し用の少年誌や女性週刊誌も置いてあるのだが、手に取る気にはなれなかった。自意識過剰なのは分かっているが、何故か一挙手一投足をも監視されているような気分になっていたからだ。
テレビやラジオのようなBGMがないため、無音の中で時計の針の音だけが刻を刻む。やることもなく、途中まで数えていたが、時が経つのが異様に長く感じられたため、三十秒ほどでやめた。
気づかれないように、怜生の方を盗み見た。彼は目を閉じ、寝ているのかそうでないのか判断のつかない様子だった。
だから、聞こえなかったら別にいいや、程度の軽さで訊く。
「あの、怜生さん?」
「なんだ?」
即答だった。起きてたのかよと、天宮は心の中で毒づく。
だけどまあ一応、実際に質問したいことはあった。
「現実の風景を切り取るって、どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だ」
そう答えて、また黙ってしまった。
無口であることは昨日の時点から分かっていたことだが、まさかここまでとは。何かしら天宮が会話の糸口を見つけなければ、再び重苦しい時間が訪れるだろう。
と思った直後、天宮の予想とは裏腹に、怜生が口を開く。
どことなく、嘆息混じりだった。
「興味があるのか?」
「まあ……あるっちゃあります」
「そうか」
頷き、怜生は首から下げている一眼レフカメラを手に取った。
「姉さんが他人の感情を切り取れるように、俺は実風景を切り取ることができる」
「そのカメラで?」
「そう、カメラで」
言い回しとしては、怜生が所持しているカメラでなくとも切り取れるような表現だった。
「口で説明するよりも、実際に見せた方が早いな。そこを触ってみろ」
怜生が指を差したのは、ソファ後ろの白い壁だった。
言われた通り、天宮は手で撫でてみる。特に違和感はなかった。
「まったくの平らだろう?」
「ええ、まあ……」
「じゃあ退いてろ」
今まで天宮が触っていた場所を、ほぼ接触しそうな位置で怜生はシャッターを切った。取られた写真は真っ白な壁だけが写ったものか、あまりに近すぎて真っ暗なものができ上がるだろう。ただ、ポラロイドカメラではないので、現像するまでははっきりしたことは分からない。
「必要なのは写真じゃない。撮ったという『事実』だ」
意味が理解できず、天宮は訝しげに首を傾げる。が、怜生から明確な説明はなく、いいから触ってみろという指示に従い、再び同じ場所、つまりカメラで撮った壁に触れた。
「どうだ?」
「あれ? なんか……凹んでますね」
さっきまでは確かに凹凸のない水平な壁だったはずなのに、写真を撮ったのを境に、楕円形の変な窪みが現れた。
と同時に天宮は考えが至り、背筋が鳥肌で埋め尽くされる。
現実の風景を切り取るって、まさか……。
「このカメラは裏に調節つまみがついている。最小は一ミリで最大が五センチだ。俺がカメラで写真を撮ると、最初に写った地点から、つまみで調節しただけの奥行きを実際に抉り取る。ちなみに調節つまみのない普通のカメラなら、最大出力の五センチが常に発揮されることが分かっている」
つまりこの壁は、怜生が写真を撮ったことによって、数ミリ抉り取られたのだろう。
里緒とは違い、目で確認できる異常な能力を目の当たりにし、天宮は絶句した。
「す……すごい……」
言うまでもなく、完全に兵器だった。点でしか狙えない拳銃とは比べるまでもなく、写真は面で、しかも反動なしで連写もできる。貫通性は低いとはいえ、障害物さえなければどんなに離れていても、狙わずに命中するだろう。
天宮は怜生が持つカメラの恐ろしさを想像し、再度息を呑んだ。
が、怜生は特に自慢げにしているわけではない。むしろ眉間に皺を寄せ、天宮の方をきつく睨んでいた。怜生と出会ってから初めて見た、感情らしい感情だった。
「すごい、だと?」
天宮の言葉を、怜生は凄みのある声でオウム返す。
不意にカツアゲに遭ったように、天宮は身を竦ませた。
「俺がどうやってこの能力を発見したと思っている?」
「そりゃ……写真を撮った時に発覚したんでしょ?」
「そうだ」
当然のように肯定。天宮には、怜生の問いの意味が分からなかった。
「霧咲家は代々、右手が呪われた家系だった。俺の場合も、右手でシャッターを押さなければ能力を発揮できない」
と、怜生は己の右手をまじまじと見つめだした。
その目はどこか、忌み嫌うものを見るように憎しみをこめて。
「ただ俺の能力は何故か、カメラという媒体が必ず必要だ。姉さんもハサミを使っているが、あれはあくまでも刃先を指の延長としてみなしているだけであって、二本の指で感情を切り取ることは造作もない。それは知っていたか?」
「まあ……」
「だから姉さんは、自分がどういう能力を持って生まれたのか、物心がついた時にはもう知っていた。本能的に、というよりは経験的に。二本の指を閉じるだけで、相手の感情を切り取ることができるんだからな。だが俺は自分がどういった能力を持っているのか、まったく見当もつかなかった。右手単体では何もできないからな。それについて、両親も姉さんも不思議がっていたよ。俺の手だけ呪われていないのは変だ、と。そして――」
徐々に、怜生の表情が険しくなる。
「俺が自分の能力を発見したのは、小学六年生の時……修学旅行に行った際だ」
「あ……」
察しがつき、ついつい天宮は声を漏らしてしまった。同時に、続きを聴くのを拒絶したくもある。
だが天宮が制止するよりも早く、怜生は語る。
修学旅行では、一般的に何をするか。
「あれは金閣寺だったか東大寺だったか、あまり思い出したくもないが……記念撮影を頼まれた俺は、インスタントカメラを持って、集合する班員を……撮った」
調節つまみがない普通のカメラでは、抉り取る奥行きは五センチで固定。
しかも記念撮影である。当然、写真の中に写る班員たちは、素顔をカメラの正面に向けていただろう。頭は髪の毛で少しは守られるとしても、顔面から五センチの奥行きでは……。
「全員死んだよ、俺の友達は。顔面の肉を抉られて」
背筋に悪寒が奔った。胃の底から吐き気が込み上げる。
ただ話を聞かされ、想像しただけでも、その衝撃は大きい。
ならば当事者である当時の怜生の心境など、測り知ることができない。
「まあ……それからはいろいろ変わったよ。周囲の環境も、俺の人格も。こうやって、惨い過去を普通に語れるくらい、昔の自分を切り離してな」
「昔の自分を切り離す?」
「友人を殺してしまった自分を、客観的に見られるようになったってことだ。拭いきれないトラウマを抱えたあの少年は、俺じゃない。悲しい物語の映画を観ているような感覚だな」
「…………」
一度心の中をすべて洗い流し、新たに作り上げる。とてもじゃないが、天宮には真似できない芸当にも思えた。
理由は、今の自分も同じような状況下に置かれているから。
セナを失い、悲しみと憎しみが交錯する中で、犯人への復讐を誓った天宮。だが目的を達成した後、果たして自分は元通りの日常へと戻ることができるだろうか? もしくは怜生のように過去の自分を切り捨て、新たな人生を送ることができるか。
答えは否。できない、できるはずがない。
復讐を果たした後の世界など……セナのいない世界など、天宮には想像すらできなかった。
故に、小学六年生の時点で過去の自分に決着をつけられた怜生は、やはりすごいと思う。
「そういうわけだ。あー……天宮宗太」
初めて怜生に名前を呼ばれ、天宮は緊張した。ただそれは向こうも同じようで、他人の名前を呼び慣れていないように、照れ臭く視線を逸らす。
しかし、怜生の言葉は真正面から天宮の胸を貫いた。
「この事件からは手を引け。以後、関わるな」
「……はい?」
驚いて耳を疑った、というわけではなく、ただ単純に理解ができなかった。あまりに唐突な話題移行のためだろう。『この事件』というのが『切断魔』の件を差していることに気づくまで、少しの時間を要した。
ただし理解はしても、どうして怜生が忠告じみたことを言ってくるのかはまだ謎だ。
「ああ、いや、言葉を間違えたな。お前が独自で犯人を追うことは咎めない。好きにやったらいい。だが霧咲家とは……姉さんとはこれ以上関わるな。これは助言ではなく、警告だ」
「どうして?」
「俺の過去を聞いてもまだ分からんか? 『呪家と関わると、ロクなことがない』」
まるで格言のように、怜生は言った。
確かに、その言葉は重い。特にその手で友人たちを殺してしまった怜生が言うと、尚更だ。最悪、死を覚悟せねばならない場面も出てくるだろう。
だけど、それが何だ。ロクな目に遭わないことが、死ぬことが何だというのだ。
天宮はすでに誓っているのだ。復讐を果たせるのなら、その過程でどんな惨めな思いをしようが、何を失おうが構わない、と。だからこそ、胡散臭さ満天の里緒から手助けしてもらうことに甘んじた。この道が、犯人へ繋がる今のところの最短だと信じて。今さら手を引く気はさらさらない。
それに……。
呪家と関わるなと言われても、もう遅い。最初から始まってしまっているのだから。
天宮が、セナと知り合ってしまった時点で、すでに。
「…………」
絶対に揺るがない天宮の意思を、その瞳から感じ取ったのだろう。眉根を下げた怜生は、深く溜め息を吐いた。
そしてまた唐突に、話題が変わる。
「どうして姉さんが、銀髪喪服なんて奇抜な恰好をしているか分かるか?」
「やっぱり弟の怜生さんから見ても、あの恰好は異様なんですね」
「当たり前だ」
真面目な顔で肯定したその頷きは、何故だかとても力強かった。きっと、自分もアレと同等のファッションセンスだと思われたくないに違いない。確かに怜生の服装は、里緒と比べれば何十倍も普通だった。
天宮は、里緒が銀髪喪服の理由を考える。
「……分かりませんね」
「もうちょっと粘れよ」
と言われても、できれば理解したくもなかった。
「姉さんを最初に見た時、お前はどう思った? どう感じた?」
「えっと……」
出会った夜、暗闇の中を里緒は単身で歩いていた。初めは奇妙な女だなと思って避けようとしていたけど、手に持っていたハサミを確認してから、天宮の態度は一変。連続殺人犯かもしれないと疑い、警戒心を高めた。
「そうだ、その通りだ。姉さんのあの恰好は、他人の警戒心を高めるためにある」
「警戒心を高めるため?」
どういうことだ。里緒は目的があって天宮に接触したのだから、警戒されたら逆にやりにくいんじゃなかろうか。
「姉さんは、急成長したお前の警戒心をバッサリと切ったんだよ。その結果、お前は何も疑わずに姉さんを信じることになった」
「……は?」
「率直に訊こう。姉さんと一緒に行動することになったのは、本当にお前の意志か?」
本当に自分の意志か、否か。だんだん頭が混乱してきた。
犯人への復讐心は、間違いなく天宮の意志だ。里緒と出会う前から天宮の中で根強く張っていたし、セナが殺されてから今まで、莫大な憎悪を注ぎ込み育んでいた記憶もある。
だがしかし、里緒の手助けを受け入れたり、その後同行してみたり。
本当に、自分の意志だけで選び取った選択だったか?
「警戒心を失ったお前は、疑うことを忘れ、ただ流れに身を任せていた。違うか?」
「それは……」
成り行きに身を任せたのは事実だ。しかしそれは天宮自身が選択した行動……のはず。
確かに始め、里緒は言った。暴れたら困るから、天宮の猜疑心を少し切り取ったと。
もし『少し』という言葉が嘘だったとしたら?
何事にも疑うことができないほど、天宮の猜疑心が切り取られていたとしたら?
いや……あくまでもこれは里緒を疑わなくなったきっかけであり、天宮自身の行動原理とはまた別のものだ。天宮は復讐心のみを糧にして、里緒との同行を決めた。信じたか信じていないかは、また別の話。
しかし未だ自信は持てない。優柔不断に悩む天宮に呆れたのか、怜生が突然立ち上がった。
「ちょっとついて来い」
「え?」
「いいから来い。店の奥に行くぞ」
有無を言わさず、観葉植物を越え、さっさと奥へ行ってしまう。為されるがまま、天宮は大きな背中を従順に追うことしかできなかった。
何故か拘束具のついた散髪用の椅子を通りすぎ、店の出入り口とは違う後方の扉へ。天宮が最初この店の中で目覚めた時、里緒が出てきた扉だ。今までいろいろありすぎてまったく考えていなかったが、この店の奥は一体どうなっているのだろう。
怜生に続いて扉をくぐった天宮が見たその光景は――普通の台所だった。
流しに冷蔵庫に食器棚にテーブルに炊飯器に電子レンジにコンロにそして小さなテレビまで。どこにでもありそうな、それこそ天宮の家と同じく、まったく普遍な台所だった。圧倒的に違うところといえば窓がないくらいだが、ここが地下だと思えばそれは当然である。
どんな偏屈な構造をした部屋なのかと身構えていた天宮は、あまりの普遍性に呆気にとられるまでに至っていた。まるでどこでもドアを使って、他人の家の勝手口からお邪魔したようなものなのだから。いや……実際にその通りなのだろう。
「ってまさか、住んでるんですか?」
「当然だ」
自営業の理容店は、自宅と直結している店がほとんどだ。天宮が通っている理容店も、扉一枚越えれば、完全に他人の家であることは知っている。
ただ、まさか地下にあるこの理容店にも住居スペースがあるとは驚きだった。地下室のある家には憧れるが、地下にしかない家には到底住みたくないなと、天宮は思った。
「こっちだ」
民家の中だと認識し、天宮は慌てて靴を脱いだ。
台所とを区切るガラス戸の向こうはリビングのようで、これまた平凡にくつろげる空間になっている。あまり広いとは言い難いが、二人暮らしならば不自由はなさそうだった。
そして台所と直結しているガラス戸とは別に、他にも扉が三つ。
怜生はその一つのノブを手に取り、開けた。
「さらに……地下?」
颯爽と階段を下りていく怜生の背中から、天宮は訝しげに呟いた。
扉の向こうは、すぐ下り階段になっていた。電灯も換気扇もないため、一切の光も含まない質量を持った闇が天宮の肌に絡み、同時にカビくさい籠った空気が全身を舐める。正直気持ち悪く、少しの間下りるのを躊躇った。
が、怜生の後頭部が闇の中に沈んでいくのを見て、諦める。
足元に気をつけながら、両側の壁を伝い降りていく。
「ここだ」
意外にも、数段の落差しかなかった。危うく怜生の背中に顔面をぶつけそうになったくらいだ。
天宮は少しだけ屈み、怜生の脇の下から前方を確認する。それは扉だった。ただし階上の木製の扉とは異なり、頑丈そうな鉄扉だ。見ただけでも、けっこうな厚みがあることが分かる。
そして目の当たりにした天宮は、一つの印象を受ける。
(まるで……独房のようだ)
顔の高さにある格子が、看守と受刑者の関係をより一層引き立てていた。
天宮は勢いよく首を振り、その想像を振り払う。こんな所に、独房なんてあるわけがない。
だが――、
怜生が開けた鉄扉の向こう側を見た天宮は、驚きのあまり絶句した。
ギギギと錆ついた音を立てて開いたその部屋は、四畳半ほどの空間だった。異様に高い天井からぶら下がる裸電球が、室内を淡いオレンジ色の光で映し出している。頼りない光源ではあるがしかし、そんなものは無意味であると、中を見た天宮は悟っていた。
上辺に取りつけられた換気扇以外、物という物が存在していないからだ。
そう、『物』は……。
「誰……ですか?」
息を呑んだ天宮は、怜生の背中に問い掛けた。
独房の中には『人』がいた。四畳半の真ん中で車椅子に座り、微動だにしない男が一人。きちんと深く腰掛けてはいるが、首はぐったりと地面へ向き、全身に力という力が入っていないように見える。髪は無造作に伸び放題で、頬は痩せこけげっそりと肉が削られていた。
そして虚ろな瞳は、無遠慮に入ってきた天宮と怜生に向けられることもなかった。
「姉さんの恋人だ。いや、恋人だった男、か? 詳しいことは知らん」
「里緒の恋人?」
目を細め、改めて車いすの男を見定める。
とてもじゃないが……里緒と今のこの男の間に、恋人などという華やかしい関係があったとは想像しにくい。いや、それどころか……。
「この人、死んでるん……ですか?」
「いや、生きている。すべての感情を削ぎ取った上で、姉さんが軟禁しているだけだ」
「軟禁……」
不穏な単語が出たが、この独房のような部屋の構造を見る限り、そこまでうろたえはしなかった。それよりも、どうして里緒が恋人の感情を切り軟禁しているか、理由の方が看過できない。
「昨夜、王子創平の末路は見たな? アレが丸坊主の状態だとすると、この男はすべての髪の毛が永久脱毛された、スキンヘッドってところだな」
「すみません。よく意味が……分かりません」
「すべての感情を奪われ、もう二度と元に戻らない廃人ってことさ。ちなみに感情……何か行動をするという意志がないだけで、意識も思考能力もある。俺たちがこうやって話していることも、この男の耳にはちゃんと届いているはずだ」
「なっ……」
驚いた天宮は、おもわず車椅子の男を凝視してしまった。
死人のように固まり続ける男。そこ顔には表情という表情はなく、全身にしっかりと神経が通っているのか疑ってしまうほど不動を保っている。ちゃんと聞こえているだなどと、怜生の言葉が信じられないくらいに。
いや、感情のないこの状態はすでに死んでいるのと同じなんじゃなかろうか?
しかしそうなると、『生きている』という定義が必要となってくる。五感すべてが正常に作用しているなら『生きている』のか。心臓や脳が動いていれば『生きている』のか。それとも一生他人と対話ができなくなった時点で、『死んでしまった』のか。
……などと、十数年生きただけの天宮が人の生死について考察していると、いきなり怜生の身体が翻った。衝突しないように、慌てて壁に身を寄せる。
「そろそろ姉さんが戻ってくる頃だ。上に戻ろう」
あっさりとした歩調で、階段を上っていく怜生。呆気にとられた天宮は、名残惜しむように一度だけ車いすの男を見つめた後、静かに鉄扉を閉め、怜生の背中を追った。
「あの……、どうして里緒は、あの人を軟禁しているんですか?」
「…………」
返答は、ない。しかし今までの会話からして、分からなければ分からないと、怜生は言うはずだ。無言というのはつまり、里緒とあの男の関係に関して、あまり多くを語りたくないということ。
そう察した天宮は、強く歯噛みしながらも、それ以上の追及はしなかった。
リビングに出たところで、代わりのような別の解答が返ってきた。
「分かっただろう? 姉さんは自分の恋人までをも廃人にし、軟禁している。言ってしまえば異常な能力を持った、異常な人間だ。一般人のお前とは釣り合わないんだよ。だから……手を引け」
ここでやっと、怜生が自分を店の奥へ連れていった理由が分かった。
里緒の異常性を見せ付けて、天宮に身を引かせるように誘導しているのだ。自分の姉は恋人さえ廃人にさせる、狂った女だ。だから昨日今日出会ったお前のことなど、実験動物程度にしか思っていないだろう、と。
「でも……」
葛藤が生まれる。ここで手を引くのは、あまりにも惜しい。
里緒と一緒に行動することにも、それなりの利点はある。事件を担当する刑事と知り合えたとか、敵対したとはいえ、独自に調査をしている探偵とも出会えた。そしてまだ詳細は伝えられていないが、死者の残留思念とやらを調べれば、少しは犯人へと近づくという。
手放しに信用できないとはいえ、もう少し、情報を集めてから縁を切っても、遅くはないんじゃないかと思う。
「少なくとも、青山セナが死ぬ寸前に、どのような感情を遺したか知りたそうな顔だな」
「――ッ!?」
図星ど真ん中だったため、天宮は大いに狼狽してみせた。自覚していたとはいえ、まさか顔に出ていたとは思わず、慌てて顔面の筋肉をほぐす。
やはり一番の理由は、それだった。
もしもう一度、セナの声が聞けるならば。セナと触れ合えるのならば。
たとえあの車椅子の男のような廃人に成り下がろうとも、惜しくはない。
「はぁ……、まんまと釣られたってところか」
「え?」
溜め息混じりに呟かれた怜生の言葉は、はっきりと天宮の耳には届かなかった。
しかし怜生が突然立ち止まったため、問い返すことは遮られる。
怜生が店内へ繋がる扉を開けると同時、店の外へと繋がる扉も開いたのだ。現れたのは、銀髪喪服の女……里緒だった。彼女は二人の姿を認めると、にんまりと嗤った。
「ただいま。あらぁ、二人とも、奥で何していたのかしらぁ?」
「…………」
「なにぃ? 二人揃ってだんまりで。男同士で密会って、いやらしいわねぇ」
冗談めかしに言うものの、その顔はまったく笑っていなかった。無表情のまま黙りこんでいる怜生が何を考えているかは分からないが、天宮は里緒の笑みの深読みしすぎて、怯えたように身体を震わす。
(本当に、裏の見えない女だ)
彼女の秘密を知ってしまった今、天宮には疑うことしかできなかった。
「ふーん、まあいいわ。そうそう、帰ってきたら店先に珍しい子がいたわよ?」
「珍しい子?」
「えぇ。さ、入ってきなさいな」
開け放たれた入口に向かって、里緒は手招きをする。訝しげに首を傾げた男二人の前に現れたのは、昨夜同様ゴシックロリータ姿の、仏頂面をした王子真理子だった。