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理容店KIRISAKI  作者: 秋山 楓
第1話 捜査
5/22

第3章 王子兄妹

 静まり返った住宅街を、里緒と怜生、そして天宮の三人は無言で歩く。


 一戸建て住宅の多い区域だ。中には明かりが漏れている民家もあるにはあるが、人の声はない。人の息吹が聞こえないほどに深まった夜というのは、昼間と比べて本当の意味で別世界のようだと、天宮は感じていた。


 時間が静止したような児童公園の側を通る際、前を歩く霧咲姉弟の背中を見て、天宮はふと疑問に思う。


 先頭を歩くのは、銀髪のショートヘアに喪服姿といった、奇抜な恰好をした女性。高校男児の天宮よりも若干背は低く、全体的な体躯は華奢ではある。しかしハサミで他人の感情を切り取るといった不可思議な能力を持ち、そしてそれ以上に、時折見せる裏に一物を抱えていそうな笑顔は得体が知れなく、気持ちが悪かった。


 その隣には、自分の姉をまるで護衛するように付き添う背の高い男。天宮よりも幾分か年上で、決してガタイが良いとは言えないものの、サシの喧嘩ならまず勝てないだろうなと思わせるくらいの威厳はある。姉に比べればこちらはまだ普遍的な恰好ではあるが、ただ天宮はまだ彼の声を一度も聞いていない。里緒とは違った意味で、中身の読めない人物だった。


 唐突に疑問に思ったのは、そんな二人の後ろを当たり前のようについていく自分のこと。

 確かに自分は復讐を誓い、そのためにはどんな犠牲もいとわないと覚悟を決めた。どんなに危険な状況下でも、自分の身の安全を顧みないと。


 しかしそれは霧咲姉弟を信用するための材料にはなり得ない。彼女らとともに行動することは手段であって、目的ではないはずなのだ。なのに天宮は、裏切られる心配をすることも、同行することが罠だと危惧することもなく、ほぼ初対面の人間を信じてのこのこ付いてきてしまっている。


 驚くほど不安感の少なさが、不思議ではあった。

 もちろんそんな疑問を口にすることもなく、数分後、ここら一体の象徴だと言わんばかりにそびえ立つ、分譲型マンションの前へと辿り着いた。


「ここね」


 オレンジ色に輝くエントランスの前に立った里緒が、短く言った。


「でもこういうマンションって、中の住人に開けてもらう必要があるんじゃないのか?」

「はあ。貴方、何も知らないのねぇ」


 見下した里緒の言い方が癇に障るも、事実なので反論はしないでおいた。天宮にとってはセナ以外の被害者など、どうでもよかったからだ。


「用があるのはこっちよ」


 そう言って向かったのは、エントランスからは少し離れたゴミ捨て場だった。夜間であるためか曜日が異なるためか、コンクリートで囲われたスペースにまとまったゴミ袋はない。ゴミ捨ての曜日を知らせるプレートと、動物に荒らされないための網しかなかった。


「最初の被害者はこのマンションの住人。そして遺体はこのゴミ捨て場に放置されていたらしいわ。三半規管ごと耳を抉りだされてね。まったく、こんな所で死体発見した人も存外不幸よねぇ。一生もののトラウマだわ」


 それには天宮も同意だった。もしゴミ出しの際に発見したのなら、今後一生、ゴミを出す度に思い出してしまうだろう。

 内心で第一発見者にご愁傷さまとお悔やみを申してから、天宮は訊ねた。


「で、死体発見の現場に来て、どうするんだ?」

「こうするのよ」


 当然のようにそう言った里緒は、ポケットから抜き身のハサミを取り出した。初対面時に天宮を昏倒させ、また店の中で天宮の悲しみを切り取った、例の散髪用のハサミだ。


 その銀色の輝きを見た天宮は少しだけ警戒する。しかしハサミの先端が向けられているのは天宮の方ではなく、何もないゴミ捨て場の方だった。


「何もない? いいえ、私には見えるわよぉ。死者の遺した残留思念が」


 射的で景品に狙いを定めるように片目を閉じた里緒は、ゆっくりとハサミを振り上げる。

 そして袈裟斬るとともに、ハサミを一度だけ開閉させた。


「えいっ☆」


 ヂョキンッ! と何かが切られる音が響いた。


 すると里緒はハサミをポケットに戻し、ゴミ捨て場のスペースの何もない空間に手を伸ばした。妙に滑らかな指の動きで、何かやっている。その仕草はマリオネットを操る人形師のような指付きだが、当然彼女の指に糸など施されてはいないし、ゴミ捨て場の中の何かが動いているわけでもない。


 と、次第に指先ではなく、両手全体で空気中の何かを集めるような手つきになった。最終的には小さなオニギリを作るように両手で丸め、そして懐から取り出した小瓶に詰め込み、蓋をした。


「はい、これで終わり」

「…………は?」


 意味が分からなかった。いつ始まっていたのかも、何が終わったのかも。


 里緒がこれ見よがしに小瓶を見せ付けてくるので、天宮は覗きこんだ。透明の小瓶の中には何もなく、向こう側の暗い路地が歪んで見えるだけだった。


「被害者の残留思念がこの瓶の中に入っているわよ。ま、私以外には見えないけど」

「……そんな簡単に? いや、そんなこともできるのか?」

「できるわよぉ。人間の感情に関してなら、私は何だってできるわ」


 一杯喰わされたような気分だった。もしくは騙された、とでも言うべきか。

 当然、天宮はこんなことでは納得しない。


「それで、何か分かったのか? 被害者が殺された状況とか」

「もう、せっかちさんなんだから。今は残留思念を切り取って、瓶詰めにしただけ。これからこれを持ち帰って、解析するのよ」

「別にここでやればいいんじゃないのか?」

「やあよ。寒いし眠いし。早く帰りたいわ」


 彼女の自分勝手な言い分に、少しだけ苛立つ。だったら天宮が同行する必要性がなかったんじゃないのか、と感じたからだ。


「捜査ってのはね、脚で稼ぐことが大事なの。それと冷静になって全体を眺めることもね。貴方はセナちゃんのことばかり考えて、それ以外を疎かにしていた。それに地道になれば、高校生の貴方にだって殺人事件の捜査もできることを教えてあげたかったのよ。だから怒らないでくれるかしら?」


 歯噛みしながら里緒を睨みつけていた天宮は、溜め息とともにゆっくりと力を抜いた。


 その通りだ、と思ったからだ。


 里緒がいなければ、彼女の手助けがなければ、自分は最初の一歩を踏み出すことすらなかったに違いない。セナを殺した犯人に復讐を誓いながらも、泣き寝入りする以外の手段を取らなかったに違いない。


 被害者の残留思念を収集する。最終的な目標からすればほんの些細な進展でしかないが、一人では何もできなかった天宮にとっては、大きな前進だった。


 感謝をするほどでもないが、今の自分は里緒にとやかく言える筋合いはない。

 ただ、どうしても指摘しておくべきことはあった。


「その歳で『えいっ☆』はないだろ」

「ふーん、この私のエロロリボイスを否定するの? 覚悟はできているのかしら?」


 再びハサミを抜いたため、天宮は潔く降参した。なんだかどうあっても勝てる気がしない。兄弟のいない天宮は、姉という存在の恐ろしさを初めて知ったのだった。


「さぁ、帰るわよ」


 里緒の催促で、三人は今来た道を歩き出した。

 と――数歩も進まぬうちに、里緒がまた立ち止まる。


「?」


 訝しげに思った天宮は里緒の顔を眺め、次に彼女の視線の先へと眼を移した。そして彼女が急に立ち止まった理由を悟る。進行方向に、奇妙な二人組が立っていた。


 一人は、結婚式の新郎しか着なさそうな真っ白なスーツ姿の青年だった。歳の頃は怜生と同じくらいだろうか。身長もまた彼と同様、一般人からすれば首を掲げてしまうほど突き抜けて高いが、似ているところはその程度だった。


 なんていうか、清潔感がまるで違った。姿勢も悪く身体の手入れなどまったく気にしていない苦学生のような身なりの怜生とは対照的に、青年の方は(あるじ)に仕える執事のように背筋をピンと伸ばし、整髪料で固めた頭は見事なオールバックで決めていた。そして何より第一印象の決め手となっているのは、その顔に浮かべられた笑顔だろう。契約するかどうか迷う商談ならば、無条件で信頼してしまうほど朗らかな笑みだ。


 対してもう一人はムッツリと顔をしかめ、口元をへの字に曲げた少女だった。見た目はとても幼く、歳もそれ相応だろう。十歳前後、といったところであろうが、その顔は無邪気とは程遠いしかめっ面だった。


 どこにでもいそうな可愛らしい小学生、と簡潔にまとめることはできない。その理由は彼女の身に纏う、日本ではちょっと珍しい衣装にあった。


 一言で言えば、ゴシックロリータ姿なのだ。


 フワフワしたレースをあしらったスカートは長く、足元が完全に見えなくなっているほど。身の丈は百四十センチあるかないかといったところで、小学生としては普遍的な身長だが、全身を包む大きめの衣装が、本来の彼女よりも小柄にみせていた。


 その姿はさながら、絵本から出てきたお姫様。ただ全体的に黒い衣装は周囲の闇と完全に同化し、輝かしい雰囲気とはかけ離れてしまってはいるが。

 たっぷりと時間を掛けて観察した後、里緒が小声で呟いた。


「あらぁ。なんとも奇抜な恰好をした二人組が現れたわねぇ」


 その言葉に、横にいた天宮は本気で驚いた。銀髪喪服の女が何言ってやがる! と、その命を賭してでも突っ込んでやりたかったくらいだ。ただ怪しげな二人組がどこか物々しい雰囲気を放っていたので、目を剥いて里緒の横顔を睨むだけで終わったが。


「こんばんわ」


 と、白いスーツの青年が屈託のない笑みを浮かべて言った。あまりにも悪意のなさそうな態度に、天宮は警戒心を強める。しかし彼とは逆に、里緒は余所行きの笑みを浮かべて挨拶を返した。


「こんばんわ」

「失礼ながら、一つお尋ねしたいことがあるんですが」

「あらぁ、何かしら?」


 あくまでも、近所付き合いの良い主婦同士がする会話のような口調だ。身なりだけは上等の二人は、時間と場所さえ異なれば、当たり障りのない社交辞令にも見える。ただし結婚式と葬式の違いはあるが。

 青年が、天宮たちの後ろを指さして言う。


「貴方がた、そこのゴミ捨て場で何をしていましたか?」

「何もしていないわよ。それにたとえ何かしていても、あなたに言う義務が私たちにあるのでしょうか?」

「あぁ……、これは失礼。失念していました」


 差し出した指先で自らの額を突いた青年は、恭しく頭を下げた。

「僕は王子探偵事務所の王子(おうじ)創平(そうへい)といいます。こちらは妹の王子真理子(まりこ)です」

「王子探偵事務所?」


 口先だけで呟いた里緒の顔が、変化した。訝しげに、眉を寄せる。


 天宮もまた疑問に思いながら、旋毛をこちらに晒す王子創平と、眠たそうな半眼で微動だにしない妹の真理子を睨む。探偵には似つかわしくない服装もさることながら、どうしてこんな時間のこんな場所にいるのか。


「実は現在、連続殺人事件の捜査をしていまして。それでとある依頼により、殺害現場の調査にやってきたわけです」

「へー。その依頼人ってのは誰なのかしら?」

「はは、探偵が依頼人の素性を話すわけがないでしょう。僕の事務所はまだまだ弱小ですが、守秘義務はきちんと守りますよ」


 優男然とした創平は、朗らかに笑ってみせた。服装や仕草、そしてルックスからして『貴公子』という言葉が似合いそうな男だ。女性のコアなファンがいても、全然不思議ではない。


 だからこそ――他人受けしそうな人格だからこそ、彼の纏う雰囲気の変化に、天宮は少なからず恐怖を抱いた。


「で――」


 創平の声音が低くなる。


「端から見ていましたが、貴方は現場から何かを集め、懐に収めましたね? 事件の早期解決のため、できればそれを譲ってほしいのですが」

「コレは私にしか見えない物なのよ。貴方に渡しても無意味だわ」

「そのように判断しましたら、すぐにお返しします」

「…………」


 里緒が目を伏せた。同時に溜め息を一つ、時間を掛けて吐き出す。

 そして次に彼女の口から出たのは、まったく別の問いだった。


「王子っていうと、呪家(じゆけ)の家系かしら?」

「そうですよ。そういう貴方、霧咲家も呪家の家系ですよね?」

「あら、私をご存じですの?」

「それはもちろん。銀髪に喪服姿。店も営む貴方は、この辺りではとても有名です。確かハサミで他人の感情を切り取る能力でしたよね?」


 理解できない会話の内容に、天宮は完全に蚊帳の外だった。

 横目で怜生を見てみる。彼はいつも通り、口元を真一文字に結んだままの無表情だった。こいつらは一体何者なのか。呪家とは一体何なのか。訊ねたいことは多々あったが、怜生とは未だ言葉を交わしていないことと、対峙する二人が発する物々しい雰囲気に圧され、天宮はただ成り行きを見守ることしかできなかった。


「たぶん貴方が集めたのは、死者が遺した感情か何かでしょう。無駄であることは百も承知ですが、一度だけそれを僕に預けませんか?」


 物腰の低い、しかし棘のある言い方だった。

 対して里緒は再び目を伏せ、今度は大きく息を吸った。

 そしていかにも陰鬱そうな顔をして、宣言した。


「やーよ、面倒くさい」


 突っ放した言い方だったが、創平の表情はそれほど変化しなかった。おそらく、断られることは予想済みだったのだろう。彼は屈託のない笑みを張り付けたまま、言う。


「そうですか。……ならば、実力行使で奪っても構いませんよね?」

「それを面倒くさいと言っているのよ。怜生、私は帰るわ。足止めしておきなさい」


 突然、里緒は踵を返した。代わりに怜生が前に出る。

 そして彼は何故か、首から下げている一眼レフカメラを王子兄妹に向けた。


「気をつけろ。俺のカメラは、現実の風景を切り取る」

「――ッ!?」


 怜生の警告に、創平は表情を一変させた。笑みを消し、叫ぶ。


「真理子! 隠れろッ!」


 瞬時の判断だった。創平は電柱の陰に隠れ、真理子は違法駐車している車の後ろに身を潜めた。

 数秒間、緊迫した静かな空気が流れる。

 膠着状態が続く中、背中を向けた里緒はさっさと行ってしまう。


「さ、天宮君、帰るわよ」

「…………え?」


 間抜けな声を出して呆けている間にも、里緒は足を止めない。暗闇の中へ吸い込まれていってしまうその黒い背中を、天宮は小走りで追いかけた。


「あのままで、いいのか?」

「いいのよ。怜生が足止めしている間に、私たちはさっさと帰りましょう」


 それは暗に、店まで歩いて帰って来いと言っているようなもの。この場所まで来る際、ほとんど信号も止まらず、十分以上は車で走ったような記憶があるのだが……。


 いや、そんなことはどうでもよい。


 不思議なのは、どうしてカメラなどであの探偵たちの足止めができるのか。

 早足で長谷川の車まで戻る途中、後ろの怜生たちが見えなくなった辺りで、天宮は遠慮がちに訊ねてみた。


「なあ……呪家(じゆけ)って何だ?」

「さっき車の中で説明したように、呪われた部位を持つ家系のことよ。被害者が四人もいることで分かるでしょう? 呪われた部位を持つ人々はたくさんいるのよぉ。私の知る限り、あの王子って男の家系は――」


 不意に里緒の言葉が途切れた。同時に足も止まる。訝しげに思った天宮は、何かを諦めたように表情を歪める里緒を確認し、そしてその視線の先を見た。


 進行方向には、先ほど別れたはずの王子創平が立っていた。

 若干息を弾ませながら、先ほどとは異なる性質の笑みを張り付けている。


「怜生の奴、足止め失敗したのね。後でお仕置きだわ」


 露骨に舌打ちをし、里緒は悪態をついた。

 しかしすぐに嫌味たらしく微笑みかける。


「あらあら。一生懸命走っちゃって、ご苦労なことね。髪型が乱れてるわ。せっかくの男前が台無しよぉ」

「ふん。僕はこう見えても諦めが悪いものでね」


 強がりながらも、ニヒルに笑う。


 怜生にカメラを向けられ電柱の陰に隠れた創平は、真理子を囮にして、里緒たちとは逆方向へ向かったのだ。遠回りをしながらも、全力疾走でなんとか里緒と天宮よりも先に回り込んだのである。あまり肉体派には見えない身体つきなのに、よく走ったものだ。


「まあ、真理子も少しばかり攻撃的な能力を有しているからね。弟さんを牽制するのは簡単だったよ」


 言っている間にも、創平は息を整える。

 そしてもう一度、同じ警告をした。


「さぁ、貴方が回収した物を僕に渡すんだ」

「嫌だと言っているでしょう? しつこい男は嫌われるわよぉ」

「ならば……力づくだ」


 次の瞬間、突然、里緒が片膝をついた。苦しそうに呻きながら、目頭を押さえている。


「里緒!」

「やって……くれたわね」


 天宮が咄嗟に名前を呼ぶ。しかし里緒は、手の平で両目を包んだまま呟くだけだった。

 何が起こったのか、天宮には寸分も理解ができなかった。今、何をした? 息を整え、背筋を伸ばした以外には、動作らしい動きは何一つなかった。しいて言えば、眼力の籠った瞳で里緒を睨みをきかせたくらい。


「理不尽な攻撃だと思ったかい? 少年」


 矛先が向き、一気に緊張が高鳴った。今まで不遜な態度で相手を見下していた里緒が、正体不明の攻撃で容易に膝をつかせてしまったのだ。創平が感情を切り取る里緒のような呪家という異能力者ならば、一般人である天宮が対抗できるわけがない。


「なんなら、すべてが反転した世界を君も体験してみるかい? なに、実害はあまりない」

「天宮君、彼の目を見つめてはダメよ」

「目?」


 だが、遅かった。

 王子創平の目を見てしまったその瞬間、まず最初に、猛烈な吐き気が天宮を襲った。

 咄嗟に瞼を閉じる。普段とは比べ物にならない多量の視覚情報が眼球を通して脳に侵入し、正常な細胞を壊していく。後頭部の辺りがチクリと痛んだが、それは一瞬だった。同時に、一度滅茶苦茶に荒らされた思考回路が、徐々に修復される。ほんの数秒後には、創平の目を見る前と同等の平静さを取り戻していた。


 恐る恐る、目を開ける。しかし、そこに正常な光景などなかった。


「なんだよ……これ……」


 目の前には、反転した世界が広がっていた。


 まず、地面が上にあった。前方に立つ創平は、当然のように地面に足をつけ……つまり宙釣りの形になっている。上下逆の世界。


 右手を掲げれば左側の手が上がり、左手を掲げれば右側の手が上がる。左右逆の世界。


 ただ、それだけじゃない。夜間であるはずなのに周囲は目を細めてしまうほど明るく、創平の白いスーツは漆黒へと変貌を遂げていた。


 突如として改変された世界に平衡感覚を失い、酔ってしまう。混乱した頭は楽になることを強要し、ついに天宮も、里緒と同様、地面に膝をついてしまった。


「目に宿る異能力。それが王子家の呪いであり、『視た者を反転させる能力』というのが僕に顕現した特有の能力さ。上下左右、さらに明度と色彩も反転した世界を目の当たりにした気分はどうだい? 少年」


 目を見つめただけの一瞬で相手の脳に干渉し、視界を狂わせる能力は、不意打ちならば確かに厄介かもしれない。実際に天宮も、歪んだ世界に吐き気をもよおしたくらいだ。慣れるまでは、余計な動きをしない方が得策だろう。


 だがしかし……。


「訊きもしないことを、よくもまあペラペラと喋るものねぇ。こんなもの、ネタが分かれば何も怖くないわ」


 その通り。決して現実の風景が反転したわけではなく、あくまでも脳の中での処理が誤作動を起こしただけなのだ。頭の回転の速い者ならば、世界がそういうものだと認めて受け入れるのも容易。最悪目を閉じれば、明度以外の情報は遮断されるので、それほど脅威ではないはず。


 里緒はすでに体勢を整えていた。足元もしっかりしており、眩しそうに目を細めている以外には、特にダメージを負った様子はない。ポケットからハサミも取り出し、すでに臨戦態勢だった。


「僕の能力の本当の脅威はここからさ。反転した世界は徐々に元の形に戻っていく。異常と正常が混じり合った世界を、果たして直視できるかな?」

「だからネタが分かれば怖くないって言ってるでしょ?」


 腕を前方に伸ばし、ハサミの切っ先を創平へと向けた。しかし創平は怯むどころか、軽い足取りで接近してくる。


 里緒は軽く溜め息をついた。


「相手の能力を分析もせず近づいてくるなんて、本当に甘いわね」


 どこか失望でもしたような口調で、里緒は躊躇いもなくハサミを薙いだ。

 おそらく、創平の戦闘意欲をなくす感情を切ったのか、初対面時の天宮にやってみせたように、意識を昏倒させたのだろう。里緒のハサミに直接的な攻撃力はないが、たった一撃、ハサミを開閉させるだけで終わるはずだった。

 なのに、創平は歩みを止めない。


「?」


 唇を歪めた里緒は、何度も何度もハサミを薙いだ。

 しかし創平に効果が現れた様子がない。


「……どういうこと?」


 ついには、無様にも相手に説明を求めてしまった。

 その言葉が合図だったように、創平は勝利を確信した笑顔を浮かべた。


「残念ながら、甘かったのは貴方の方だ」


 次の瞬間だった。突然、里緒は背後から創平に羽交い締めにされた。


「僕が自分の能力を説明したのは、貴方の油断を誘うためだ」

「なに――」


 創平の手刀が里緒の右手に喰い込み、ハサミを落としてしまった。そして背中から、がっちりと動きを封じられてしまう。体格からして、里緒が創平に力で勝てるとは到底思えない。


「僕の目を見た人は、世界が反転してしまう。僕が簡単に説明してしまったことで、貴方は疑わなかったはずだ。上下左右だけではなく、もしかしたら前後も、そして平衡感覚すらも反転しているんじゃないか、と」

「つまり、私はまったく別方向にハサミを向けていたってことね?」

「貴方はハサミの先を対象に向けなければ、感情を切り取ることができない。調査済みだよ」


 腕力で創平の拘束から抜けようと一通り試みているようだったが、どうやら無駄のようだった。


「なるほど。それで天宮君にも能力を行使したわけね」

「ご明察」


 天宮が正常な眼を所持していたのなら、里緒がてんで出鱈目な方向を狙っていることに気づいたはず。そのため天宮もまた、里緒と同じ状態にする必要があった。

 悔しそうに、里緒は歯を食いしばる。


「おっと少年、君は動かないでくれ。とはいっても、君が手を伸ばした先にハサミは落ちていないがね」


 里緒の落としたハサミを拾おうとした天宮だったが、創平に釘を刺されてしまった。いや、それ以前に、彼の言った通り、どこをどう動かせば手がハサミに届くのか、まったく見当がつかない。上下左右前後不覚の世界は、完全に未知の領域だった。


「さて、それでは目的の物を探させてもらおう」


 そう言って、創平は里緒の身体を弄り始めた。


「あぁん、どこ触ってるのよ。変態!」

「貴方が予備のハサミを隠し持っていないか、念には念を入れているんですよ」


 あれだけごついハサミは服の上から触っても所持の有無が分かるのか、身体検査はすぐに終わった。加えて、先ほど里緒が収集した、被害者の残留思念が入った小瓶も見つけられる。  

 創平はそれを目の高さまで掲げた。


「本当に何かが入っているようには見えない。けど、貴方には見えるのでしょう?」

「当然じゃない。見えなけりゃ、切り取ることなんてできないわ」


 と突然、里緒の身体が脱力した。創平に体重を預けるようにうな垂れる。


 体調でも崩したのかと創平は疑問に思ったが、里緒が「ふぅー……」と小さく溜め息を漏らしていることから、完全降伏したんだと、そう解釈した。

 だが、実際には違った。

 里緒の口から、呆れた声が漏れる。


「ほんっと、甘ちゃんよねぇ。相手を拘束して、武器を手放させたくらいで油断しちゃって。相手の能力を把握していないのはどっちなのかしらねぇ」

「何……?」


 ヂョキン! 何かが引き裂かれる、不快な音。

 反射的に、創平は里緒から離れた。自らに起きた異変に、驚いたのだ。

 頭を抱えながら、横目で地面を確認する。ハサミはアスファルトの上に転がったままだ。


「一体、どうやって……」


 疑問の声は、里緒が予備のハサミを隠し持っていないと確信していたからだ。にもかかわらず、あの密着した状態で創平の感情を切り取れるはずがない。


「貴方は少し、勘違いをしていたようね。自分の情報収集能力を過信しすぎて」

「……どういうことだ?」

「誰かが私の能力をはっきりと説明したわけではないでしょう? あなたは勝手に思い込んだ。『霧咲里緒の能力は、ハサミで他人の感情を切り取ることだ』と」


 そして里緒は平然とした笑顔で、創平に向けてピースした。


「実はね、指でも切り取ることができるのよぉ。ハサミよりかは精度は落ちるけど」


 唖然としたのはなにも創平だけではなく、天宮もだった。

 里緒が理容師だと知ったこともあり、出会ってからこの方、彼女の能力は文字通り、ハサミとは切り離せないものだと思い込んでしまっていた。しかし思い返せばさっき、残留思念を収集する際、里緒はハサミで切った後、指先で集めるような仕草をしていた気もする。


「それに……」


 里緒の口元が、三日月形に歪んだ。そしてすぐ側にいる創平の手を掴む。


「こうやって接触していれば、見逃すなんてことはないものねぇ」


 ヂョキン! とまた音がし、今度は創平が膝をついた。


 昨夜、天宮も感情を切られたから分かる。悲しみを失った天宮は、その後に爽快感を得たのだが、切られた直後は物凄い喪失感に襲われるのだ。大事なものが自分の中からごっそりと奪われ、一瞬だけ全身の力が抜けるのである。


「さぁ、貴方の闘争心と優越感を切り取ったわ。けど、これだけじゃ終わらせないわよぉ。私の身体を無遠慮に触りまくった罪は重いんだから」


 悪魔的に楽しそうな笑顔を見せ、それからは里緒の独壇場だった。


***


 殺害現場である分譲型マンション前に戻ってきたところで、天宮はドン引きしてしまった。


 天宮たちが去った時とほぼ同様、怜生と真理子は拮抗状態に陥っており、お互い微動だにしていないのだが、その光景はあまりにもシュールすぎた。


 車の後ろに身を潜める年端もいかぬゴシックロリータ姿の少女と、一心不乱に少女へとカメラを向ける二十歳前後の青年。通報されても文句の言いようがない場面だった。


 というか、別れた時からずっとこの状態だったのだろうか。里緒が創平を打ち負かし、反転した視界が治るのを待ってから戻ってきたので、けっこうな時間が経っているはずだ。深夜遅くとはいえ、誰も通りかからなかったのは幸運といえよう。


「怜生。もういいわよ、終わったわ」


 背後から里緒が声を掛けると、飼い主に従順な犬のように、怜生はカメラを下げた。彼は無表情のまま、里緒の背中へと後退した。


 同時に、車の後ろに漂う雰囲気が変化する。

 直接視えずとも、真理子が息を呑んだのが分かった。


「真理子。出ておいで」


 創平が言った。

 するとフリルのスカートを翻しながら、真理子が車の陰から飛び出した。


「……兄様?」


 無垢な瞳を潤ませながら、怪訝な表情のまま彼女は首を傾げた。


「ごめん。どうやら僕は負けてしまったようだ。調査は中止だよ。さあ、帰ろう」

「兄……様……?」


 愛しの兄が呼びかけているというのに、真理子はその場で硬直したままだ。それどころか近づく創平に対して、避けるように身を引いている。


「あ……あぁ……」


 ついに彼女は頭を抱え、嗚咽を漏らし始めてしまった。


 真理子の反応を見た天宮は、彼女の悲しみを見るのに耐えられず目を逸らす。天宮は一人っ子だから兄弟はいないが、もし身内が突然あのような状態で現れたら、真理子と同じような反応をしてしまうかもしれない。


 創平には、表情が無かった。


 優しく真理子に悟らせているのに、笑顔ではなく。勝負に負けたというのに、悔しそうではなく。敵とともに歩いてきたのに、闘争心はなく。帰宅しようとしているのに、解放感はなく。


 完全な、無表情。


 目を開け、口を動かし、ただ立っているだけの人形へと為れ果てていた。

 純真無垢だった真理子の顔が、みるみるうちに憎悪を帯びた表情へと変化する。


「貴様ぁ! 兄様に何をしたぁ!」


 幼少期独特の金切り声だったが、子供とは思えぬほど強みを帯びた咆哮だった。相手は自分よりも幾分か下の少女だというのに、天宮は僅かに怯んでしまう。横を見れば里緒もまた身震いしているようだったが……どうやら天宮とは違う意味での震えだったようだ。


「あぁ、気持ちいいわぁ、その殺意。惚れ惚れしちゃう。でもダメ。あなたでは全然足りない。この私をイかせるには、もっと激しい憎悪じゃないと」

「殺してやる、殺してやる、殺してやる……」


 呪詛を吐き、真理子の目つきが鋭くなる。狙いは、完全に里緒の顔へ向いていた。

 周囲の雰囲気が変化する。空気が張りつめ、空間が収縮しているような錯覚に陥る。

 ピシリと、足元のアスファルトがひび割れた。


 王子家は目が呪われた家系だと、創平が言っていた。つまり創平の妹である真理子にも、目に関して何か異能力を持っているのかもしれない。そう判断した天宮は、咄嗟に里緒に向かって忠告しようとしたのだが……。

 里緒と真理子の間に、創平の大きな身体が割って入った。


「ダメだよ、真理子。今夜は僕らの負けだから、潔く帰ろう」


 人形の優しい進言に、真理子は大きな泣き声を上げて抱きついた。

 兄妹の成り行きを見届けることもなく、里緒は長谷川の車が停車してある方面へと再び踵を返した。その後ろを、男二人は追従する。

 途中、天宮が訊いた。


「一生、あのままなのか?」

「いえいえ、そんなことはないわよ」


 里緒の口調は、いつものような軽い調子だった。


「喜怒哀楽を筆頭に、日常生活に必要な感情を極限まで短く刈り取っただけよ。髪の毛で言ったら、丸坊主ってところね。別に永久脱毛したわけじゃないから、その内生えてくるわよ。個人差はあるけど……ま、一週間もあればある程度は戻るんじゃないかしら」


 それを聞いて、天宮は安堵した。王子兄妹には何の義理もないが、大切な人が変貌してしまうことは、確かに辛い。天宮も、それを体験した。いつも無邪気に笑いかけてくれていたセナが、白い花に囲まれ、眠ったように……。


(それ以上は、考えたくない……)


 最期に残ったアレを、セナだと認識することは未だできなかった。

 いや、認識したくないだけだろう。まだ、セナを死なせるわけにはいかない。


(この復讐劇が終わるまでは、絶対にセナを殺させない!)


 そう強く胸に刻み、天宮は霧咲姉弟とともに、長谷川の待つ車へと向かった。

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