4-13 退魔士の仕事
あれからどれくらい経っただろうか。
大悟と薫の二人は、肩で息をしながらも、未だ勝負を続けていた。きっちり数えていたわけではないが、薫が投じた球数はすでに五十球を超えているだろう。
夢魔は姿を消したものの、まだあたりに気配は感じるし、まだわずかに夢魔と薫のリンクが切れていないように、岬には見えている。
二人を繋ぐ黒い影が薄くなってはいるものの、この状態で夢魔と薫を無理矢理切り離すのはやはり危険なので、岬は両手を握りしめて大悟に託すことしかできなかった。
「なあ九曜。場所を変えないか? こんな大舞台に立つってのは、確かに夢じゃないと経験できないことだが、いかんせん俺らには似つかわしくない。俺らにお似合いなのは河川敷のしょぼいグラウンドだろうよ? 場所を変えるくらい、夢の主である九曜なら余裕なんだろ?」
「ああ、僕も同じことを思っていたよ。あまりにも歓声が鬱陶しくて集中できやしない。そのせいで大悟なんかにここまで粘られていると言っても過言ではないからね」
「くはは、調子が戻ってきたじゃねえか。だけど『歓声がダメ』なんて、たとえ野球を続けていても致命的だったじゃねえか。よかったな。大舞台で恥を掻く前に辞める口実ができて」
「相変わらず追い込まれているのに減らない口だ。すぐにその無駄口を叩けないようにしてあげよう」
あれだけ虚ろな目をしていた薫だが、額から汗を浮かばせながら、今は楽しそうに口元を綻ばせている。
そして、大悟なんかは、すでに本来の目的を忘れているみたいにはしゃいでいるように見える。
大悟と薫がこうして、野球をやっている姿を見るのは、岬にとっては初めてだったが、熱くなっている二人を見て、スポーツっていいものだな、と素直に思った。
(けど、九曜さんって、女の子なんだよね。そう思うと、なんだかフクザツな気分かも……)
そんな岬の思いをよそに、二人の戦いはさらに白熱しようとしていた。
「…………!!」
ただそんな二人の対決に水を差すように、球場全体を大きな影が包み込んだ。太陽の光が遮られたことで、球場全体に夜が訪れたものの、すぐさまスタンドの照明が照らされ、明かりが灯る。
それは大きな靄だった。霧とも霞とも煙とも取れないような、脈動する靄だった。球場の空を覆うように立ちこめて、おどろおどろしく蠢いていた。
(――きたっ!)
上空を見上げて、小さく拳を握りしめる岬。
その異変に気づいた大悟と薫も何事かと、勝負の手を止めて天を仰いでいる。
「もうイイ。茶番は終わりダ。その身体、オレがいただク」
脳みそを揺さぶるような籠もった声が、聞こえてくると同時に、影の中から生まれた触手が薫へと襲いかかる。
何が起きたのか理解できない薫と、勝負に夢中になりすぎて事態の把握に遅れた大悟。
しかし、夢魔の攻撃にいち早く気づいた岬が、素早く薫の前へと走り込み、触手をはじき飛ばした。
「…………っ!!」
触手を弾いたときの衝撃で、岬の手のひらに衝撃が走る。
夢魔は、すでにかなりの量の精神エネルギーを吸い取っているようで、その力も通常の夢魔よりも強力になっているように感じる。
ビリビリと痺れる手のひらが、この夢魔の強力さを訴えている。
「我が名はアスタロト。オレの夢に危害を加える退魔士を排除スル」
アスタロトがと名乗った夢魔が、大悟たちを見下ろしながら荘厳な声を発した。
(よしっ、リンクが切れてる……)
アスタロトと薫を見比べると、どうやらわずかに残っていたリンクが完全に切れたみたいだった。それは大悟との勝負に熱中するあまり、彼女の感情が一定以上に高ぶったからだろう。よってここから先は、本格的に退魔士である岬の出番となる。
アスタロト本人も、もうすぐリンクが切れることを察していたのだろう。そのためリンクが切れた瞬間に、夢の中の異物である岬たちを迎撃しようと体勢を整えていたに違いない。
岬が描いていた当初の予定とは少し異なっているかもしれないが、結果として大悟は薫とアスタロトのリンクを切り離すことに成功したのだから何も問題はない。
「大悟クン、勝負はまた後にして。こっからはボク達の出番だよ」
「了解だ。そんなわけで薫、勝負の続きなら現実でいくらでも受けてやる。どうせ俺もおまえもこれから先は暇なんだ。そんな暇はいくらでもあるだろ」
白い歯を見せて、大悟は薫に向けて親指を立てた。
「あ、ああ……」
自分の夢の中で起こっている事態に混乱している薫は、呆けた表情で返すのが精一杯だったようだ。
空を覆っていた影が、夢の中の登場人物を取り込んでいく。客席にいた観客や、薫の背後を守っていた守備陣、そして秀人までも、天にそびえ立つ影へと吸い込まれていく。
やがて夢の中の登場人物が大悟、岬、薫だけになると、夢魔は人間と同じシルエットを形成して、外野の芝に降り立った。
ただその体躯は岬の数倍もあろうかという大きさで、穴が空いているだけのような目で、天空のように高い位置からこちらを見下ろしていた。
ヤツが身に纏っている膨大な力が威圧感となって、岬の肌にぴりぴりと伝わってくる。
(もしかしたら、今日か明日には九曜さんを乗っ取るつもりだったのかも……)
そう思うと身が震えるような思いだった。
(間に合ってよかった。けど、本当に安心するのはコイツをやっつけてからだよね……)
騒がしかった観客がすべて消え失せたせいで、球場内が不気味なほど静寂に満ちている。
「万全といかなかったが仕方がナイ。これだけでもオマエラ退魔士をやっつけるのは十分ダ」
夢魔はその大きさに見合うような、くぐもったような声を発した。
岬は手に双剣を構えて、相手の出方を窺おうとしていたのだが、その隣を追い越して大悟が夢魔へ猛然と迫っていた。
「――大悟クンっ!」
「うおおおおおおおおおおおおーーーーー!!!!!!!!」
岬の制止の声も聞かずに、大悟は内野グラウンドを抜けて外野の芝生へと足を踏み入れた。
その瞬間、夢魔は体躯に見合った長い腕をなぎ払って大悟の前進を止めた。
大悟は金属バットで受け止めたものの、その衝撃を吸収することができずに、そのまま吹き飛ばされて、フェンスに衝突した。
「ぐっ――」
苦しそうにうめき声を上げて地面に倒れ込んだ大悟だが、覚束ない足ですぐに立ち上がる。気合いを入れるかのように、バットの先端を眼前にそびえ立っているアスタロトへと向ける。
「さっさとここから出て行け。ここはおまえの居場所じゃねえ」
きっぱりと宣言する大悟に、アスタロトが怪訝そうに顔をしかめている。
アスタロトの注意が大悟に向けられている隙に、岬はアスタロトの素早く死角へと回り込む。
「がら空きだよっ!」
すかさず巨大な足首目がけて双剣を閃かせると、支えを失った夢魔は後ろ向きに倒れそうになる。
「ナッ……」
咄嗟に手をついたおかげで転倒をまぬがれた夢魔だが、完全に体勢が崩れている。
「大悟クンッ!」
「任せろ!」
岬が呼びかけるよりも早く夢魔へと駆け出していた大悟は、夢魔の足下にたどり着くと、超人的な跳躍力で夢魔の頭部へと迫った。
「うおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
大悟は勢いをそのままに夢魔の頭部目がけて思い切りバットを振り抜いた。
小気味よい音があたりに響き渡り、アスタロトの巨体が地面に思い切り背中から打ち付けた。
端から見ても、完璧な一撃だった。当人の大悟もこれ以上のない手応えを感じていることだろう。
単純な戦闘能力で言えば、確実に岬のほうが上だ。なんといっても、大悟には経験というものが圧倒的に足りていない。しかし一撃に駆ける爆発力ならば、大悟は岬のそれを凌駕する。
当たらない必殺の一撃などなんの意味みもなさないが、裏を返せばその一撃が当たれば必殺の攻撃となるのだ。
大悟は自分のスイングに絶対的な自信を持っているのであろう。
意志の強さが大きく影響するこの世界において、その自信は何事にも代え難い破壊力と成り代わるのだ。
「ば、ばかナ……。どうして、まだ力が足りなかったというのカ」
夢魔は苦しそうに呻いて、自分を見下ろしている大悟を睨んでいる。すでに虫の息の状態で、その気配も希薄になっていた。
すでにその巨体を保つ力も残っていないのか、身体が徐々に縮んできているようであった。
縮んでいるというよりは萎んでいるという表現のほうが相応しいかもしれない。アスタロトの身体に蓄えられていた精神エネルギーも、それと同時に空気中に霧散し始めている様子が窺える。
「グヌヌ、オレがこんなところで……」
苦しそうに呻いているアスタロト。
アスタロトの巨大な残骸の実体が失われていき、身体も靄の状態へと変化していく。
「…………」
しかしその時、わずかに残っている夢魔の口元がわずかに歪んだように見えた。
「大悟クン! まだだ!」
アスタロトの身体を構成していた霧が再び密集して、今度は槍の形を創り上げる。
大悟も持ち手のいない槍の存在に気づいたものの、それに対応しようとするよりも一瞬早く槍が大悟の身体を貫いた。
「ごふっ――」
地に伏せて地面に這う大悟。
大悟を貫いた影の槍は、また形を変えて人間の形へと戻ってゆく。ただ今度はさっきのような巨体ではなく、大悟と同じくらいの大きさに留まっていた。
大悟を足蹴にして、アスタロトが愉悦の籠もった笑みを浮かべた。その表情からは執念に近いものをありありと感じる。
「まだダ……。ここまで来て、やられてたまるカ」
大悟の一撃はアスタロトの体力をごっそり持っていたことは間違いないようで、身体が小さくなったことに比例するかのように、その力が弱まっていることを感じる。
「大悟クン!」
岬がアスタロトの足下で呻いている大悟に向けて駆け出そうとする。
しかし、アスタロトはそんな岬の様子を見て、自分の周りを取り巻いている瘴気のような黒い物体を集めて真っ黒な槍を創り出し、大悟の喉元へ突きつけられた。
「くっ――」
その光景を見て、岬は踏み出したすぐに足を止めた。
この場所が夢の中である以上、本来ならば命を落とすような大怪我を負っても、現実世界の自分たちがすぐさま死に追いやられることはない。
それでも、身体――精神体がボロボロに傷つけられた場合、現実世界でも目を覚まさなくなってしまう危険性があるのだ。
退魔士の同僚にも、そうして眠り続けている人間が何人もいる。
よって迂闊にアスタロトに近づけば、大悟はアスタロトから致命的な一撃を受けて、同じように昏睡状態になってしまいかもしれない。
そう考えると、岬は迂闊な行動が出来るはずもなく、二の足を踏んでしまう。
(ボクが大悟クンを、退魔士にしてしまったばっかりに……)
危険なことに巻き込んでしまったことに責任を感じる岬だが、ここで大悟に対して懺悔の言葉を並べても状況が進展しないことはわかっている。
(後悔するのは後だ。今は九曜さんと、そして大悟クンが無事に助かる方法を考えるんだ。たとえこの身体が犠牲になっても……)
「形成逆転ダナ。そこの退魔士。オマエが一歩でも動けばコイツは無事ですまないゾ」
おとなしくその言葉に従って、岬は双剣を手放した。
「オレが宿主を乗っ取るまで、オマエはそこでおとなしくしてイロ」




