4-2 薫の夢
九曜薫は大歓声に包まれたマウンドの中央に立っていた。
(これは夢、そんなことはわかっている)
それでも土の感触、肌を刺す緊張感、そして十八メートル離れた先でミットを構える秀人。それらを意識すると、夢だとわかっていても興奮を抑えきれない。
ボールをこねながら息を吐いて、薫はすぐ隣で漂うように浮かんでいる黒い影を見やる。
「キキキ、せっかくの夢なんダ。夢の中くらい自分のしたいことをやればイイ」
黒い影が飾り物みたいな口を歪ませて言う。
コイツがこんなふうに薫の望む夢を見せているという。
信じられない話だが、コイツが現れるようになってから、薫自身が望む夢が見られるようになったのは事実だ。
コイツが何者なのかわからないし、見るからに不気味そうな外見をしているのは間違いないが、見続けていた悪夢をぬぐい去って、自分の望む夢を見させてくれている、という事実には感謝しないといけないだろう。
せっかくだから、薫もこの状況を楽しませてもらおうと思っていた。だってこれは現実では起こりえないこと、夢の中でしか起こりえないことなのだから。
薫にとっての因縁の相手が打席に入る。
あの日、薫の野球人生を終わらせる一打を放った男だ。
状況もあのときと同じ。だけど夢の中にいる薫には目の前の男など相手にはならない。
あのときのことが嘘だったかのようにあっさりと打者を仕留めると、優勝を決めた高石中ナインの歓喜の声が沸き上がる。
喜びを爆発させた秀人が普段のベースランニングよりも早いんじゃないか、というスピードでマウンドまで駆け寄ってきた。
みんなが見ている前でそういうことをするのは、少し気恥ずかしい気持ちもあったが、やはり薫自身も気持ちを抑えることが出来ずに渾身の力を込めて秀人と抱き合った。
背後から大悟も駆け寄ってきて、チームメイトから手厚い祝福を受ける。
そう。これが薫の望んだ未来。現実世界では叶えることができなかった未来。
歓喜の輪に包まれているうちに視界がだんだんとぼやけてきた。近くから話しかけているはずの秀人の声が遠く感じるようになる。
(あ、夢が終わってしまう……)
それが頭をよぎった瞬間、周囲がいっせいに暗闇に包まれて、次に視界に広がった景色は何の変哲もない、殺風景な薫の部屋だった。
(朝か……)
窓から漏れる明かりから察するにすでに朝を迎えているらしい。時計を見ると、二度寝としゃれ込むには少々遅すぎるような時間だった。
「キキキ、いつも同じ夢ばかり。飽きないノカ?」
夢の中でのみ現れた黒い影は、こうしていつの間にか夢から覚めても話しかけてくるようになった。
この影が話しかけてくる度に、脳を直接刺激されるような不快感はあるが、こいつは薫を悪夢から救ってくれた恩人だ。
無碍に扱うわけには行かない。
「もっともな意見だな。次回から検討するとしよう」
確かに、あの試合に勝つことは自分の人生の中でもっとも望むことではあったが、何度も何度も同じものを見るというのも感動が薄れてきている。
だったらそれ以上にこの世界では、ぜったいに叶えられないようなことを、夢に見るというのも悪くはないのかもしれない。夢の世界というものは、制限もなければ、無限の可能性が広がっているのだから。
そんな考えを浮かべている薫をよそに、薫の考えを読み取ったかのよう邪な笑みを浮かべる影が一つあった。
――計画通り。
より現実から乖離した夢を見せること、そうすれば夢の中に眠っている精神エネルギーを効率よく集めることができる。そしてそれが影の望みだった。
ただ無知な薫は、そんなことを知る由もない。




