1-13 四谷岬のお仕事
「ねえ大悟クン、ボクね、初めてだから……。優しくしてね?」
甘えるような声で、岬は布団に顔を埋めながら恥ずかしそうに告げた。
夜も完全に更けており、このあたりは昼間でさえ人の気配が少ないのだが、この時間になるとすでに外を歩いている人間の気配は皆無で、あたりは静寂に包まれている。
「おまえは、いったいなんの話をしてるんだ……?」
もちろん岬の意図することはわかってはいるが、この攻撃は事前に予想できていたので、大悟は冷静にツッコミを返した。
「言っておくが、男にベッドの上で迫られたところで、気色悪いだけだからな」
大悟と岬は一つのベッドに寄り添うようにして横になっていた。
二人で並んで寝るには狭すぎるのだ。端から端まで離れてようとしても、それでもお互いの息づかいがはっきり聞こえるくらい接近している。
「ふ~ん、大悟クンは、ボクが男だって本当に信じてるんだ?」
岬が大悟を小馬鹿にするように目を細めた。
「は? どういうことだ?」
華奢な身体に細い腰つき、岬の体つきはどちらかと言わなくても、女性のものに近い。
「確かにおまえは見た目だけなら女っぽいかもしれねえし、最初は女だとも思ったけどよ。でもおまえは体育とかも男子に混じってやってるじゃねーか」
「それが大悟クンが、ボクが男だと思っている根拠? でも実際にボクの身体を確かめてたわけじゃないよね。実はこれまでボクが嘘をついてきただけで、本当は女の子かもしれないよ」
(岬が女? だったら――)
改めて岬の全身を見ると、やっぱりその見た目は女の子にしか見えない。しかも普通の女の子ではなくて美少女だ。
もし見た目通りに岬が女の子だったとしたら、大悟は気兼ねなく岬を思い続けていただろう。そして何時の日かその思いを伝え、その思いが実れば両手を挙げて喜んだであろう。
(クソッ、何考えてやがる。どうせいつもみたいにからかってるだけだろ)
それでももし本当に岬が女の子だとしたら、こんなふうにもやもやとした気持ちを抱える必要はないのだろうと思う。
たとえそれが嘘だとしても、その嘘はとても魅力的な嘘だった。
「ねえ、ボクの身体、確かめてみない?」
こちらを向いた岬が、大悟の鼻を指で突っつく。
息がかかるような距離に顔を近づけているせいか、岬の暖かい息が鼻にかかる。
見てはいけないとわかっていても、柔らかそうな岬の唇に思わず大悟の視線が奪われてしまう。
――ゴクリ。
思わず息を呑んで、この空間には自分と岬しかいないということを意識してしまう。
「ば、バカなこと言ってないでさっさと始めるぞ。俺はそのために岬の家に来たんだからな」
「まっ、そうだね。大悟クンをからかってたら日が明けて来ちゃうもんね」
岬は諦めたように目を伏せてため息をついた。
「それじゃあ、始めよっか。夕食後に見た男の人の顔はきちんと覚えてる?」
一転して、岬からふざけた雰囲気が消える。
「ああ、問題ない」
記憶の中からくたびれた感じのサラリーマンの顔を掘り起こす。
「うん。さすがは大悟クンだね。だけどもし顔を忘れてたとしても、ボクに任せてくれれば大丈夫だから」
両手で包み込むようにして、岬が大悟の手を握りしめる。
その行動に他意はないとわかっていても、その感触を手に受けるとやっぱりドキドキしてしまう。
「これから助ける人間の顔を思い浮かべながら目を瞑って。他のことを考えちゃダメだよ」
目を瞑ると、余計に手のひらを包む岬の手の感触を感じてしまう。
「大悟クン、何か別のこと考えてるでしょ」
そんな大悟の心中を見透かしたように、岬が疑いの声を上げる。
「そ、そんなことはない……ぞ」
目を瞑りながら上擦った声で返したそれは、まったく説得力皆無だった。
「ふふっ、こうやって大悟クンの手を握っているだけでも、大悟クンがドキドキしてるってことは、ボクにも伝わってくるんだよ」
夢の中で触れた岬の感触を思い出す。鮮明で現実感のあるそれが、こうして大悟の手を優しく包んでいる。
そんなことを考えていると、目を瞑っているはずなのに視界がグルグルと回っているような錯覚に陥った。
「なーんてね……。もう目を開けてもいいよ」
「は?」
気の抜けた声を出しながら、言われた通りに目を開けると、そこには目を瞑る前とまったく別な光景が広がっていた。
「ここは……?」
呟いて周囲を見渡してみると、視界に広がっている光景にはどこか覚えがあった。
そこに広がっている風景は滝原市西区の高層ビル群。
見覚えがあるはずなのに、初めて訪れるような、五感では拾えない奇妙な違和感が広がっている。
人気のない真っ暗な夜、二人は高層ビル群に見下ろされて立ち尽くしていた。
「ここは、あのサラリーマンさんの夢の中だよ」
本来なら感じるはずの冷たい夜風は、今はまったく感じることが出来ない。それだけでも自分たちが立っているこの場所が、現実とは異なる場所であると理解できる。
「それじゃあ、ちゃっちゃと夢魔のカケラを見つけちゃおう」
違和感に戸惑っている大悟の手を、岬が引っ張っていく。
岬の手に引かれながら、ビルの間を縫って進んでいくと、夢の中であるせいなのか、普段なら夜更けでも賑わっている繁華街からは一切の明かりと喧噪が失われている。
そのまま進んでいると、この世界で初めて岬以外の人間と遭遇した。
「いたっ、あそこ」
岬の指の先には、写真で見たサラリーマンと黒い塊が対峙していた。
その影は大悟の夢に出てきたものよりも一回り小さかった。とはいえ、その影の得体の知れない気味の悪さは大悟の夢に登場した影と同様のものを感じた。
「ひっ、……お、おい。こっちに来るんじゃねえよ」
夢の中でもスーツを着込んでいるサラリーマンの男は、顔を恐怖に染め、手足を震わせながら夢魔の欠片から離れようと後ずさっている。
これが夢の中だとわかっている大悟たちはかなり冷静な状態でいられるが、男本人はおそらく夢か現実かなどという区別はついていないようだ。
パニック状態に陥っており、手にしている鞄を振り回しながら夢魔の欠片を追い払おうとしている。
「大悟クン、そこで見ていてね。これが退魔士の戦い方だよ」
そう言うと、岬は目を瞑ったまま虚空を仰いで両手を広げた。
岬の手元がぽわっと淡く輝いたかと思うと、光が消えた後、岬の両方の手のひらに一対の短剣が収められていた。
「それは……?」
「これはボクの武器だよ。悪夢を切り裂く退魔士の双剣」
真っ赤な柄に、くらい夜でもはっきりと輝く銀色の刀身。手が触れたわけでもないのに、大悟はその神秘さに圧倒されそうになった。
それから岬は地面を蹴って、一瞬のうちに男と夢魔のカケラの間に立った。
「キ、キミは――?」
突然の乱入者に目を白黒とさせている男。
それに対して、岬は顔だけを振り返って、男に向けて小さく笑みを浮かべただけだった。
「はっ――」
すぐさま、岬は小さく息を吐いて、夢魔のカケラ目がけて接近する。
夢魔のカケラは体内から触手のようなものを出して岬に襲いかかってくる。
岬は身体を翻しながら、その触手を華麗に躱して夢魔のカケラへと迫る。その攻防が一瞬だけ続き、自身の間合いまで詰めた岬は、双剣で夢魔のカケラを斬りつけた。
切り裂かれた夢魔のカケラは、身体を真っ二つにされ、あっさりと空気中に溶けていった。
岬はそんな夢魔のカケラの最後を看取ってから小さく息を吐いて、背後で腰を抜かしている男へと向き直る。
「それじゃあ、いい夢を」
それだけを告げて、岬がこっちに戻ってくる。
大悟は不覚にも完全に見とれてしまっていた。
それは真っ暗な夜に佇む美少女の姿をした岬に、目を奪われたということもあるかもしれないが、それ以上にただただ夢魔のカケラ一撃で葬った岬がとても格好良く見えたからだった。
――すげえ。
「任務完了だよ。それじゃあ、戻ろっか。って、大悟クン、聞いてる?」
「ん、ああそうだな」
上の空で答えた瞬間、視界がめまぐるしく変わっていく。
脳みそを直接シェイクされたような感覚が続いた後、視界が戻るとそこは岬のベッドの上だった。
「ボクの戦いっぷりはどうだったかな? 見とれちゃったりした?」
現実世界に戻ってきた岬の手には、夢魔を切りつけた双剣はすでに握られていない。
本当にさっき見た世界が夢のような感覚で、大悟は夢心地の気分だった。
「あ、ああ。なんていうかすげえかっこよかった。俺、岬が剣を振り下ろすとき、思わず息を呑んじまったもん」
普段なら絶対に口を滑らせたりしないのだが、呆けていた大悟からは飾らない本音が漏れてしまっていた。
「じょ、冗談だったのに……。面と向かってそんなこと言われると、なんかちょっと恥ずかしいかな……、なんて――」
そんな大悟の飾らないセリフに岬が、恥ずかしそうに目を伏せて狼狽えてしまう。
(あっ――)
ようやく我に返った大悟の目の前には、暗い部屋の中でもわかるくらいに顔を真っ赤にして身体をもじもじとさせている岬がいる。
自分の発言を顧みてから、その岬の姿を見て、大悟の体内に眠るすべての血液が一気に加速を始める。
「い、いや、なんていうか、岬も退魔士としてすげえんだな、って実感したというかなんというか……」
何に対する言い訳なのか自分でもわからないが、ともかく大悟は言い訳の言葉を並べる。
「あっ、そうだ。もう夢魔退治は済んだんだし、一緒のベッドに寝る必要もないよな。俺は床で寝るから岬はベッドでしっかりと疲れを取ってくれ」
「う、うん」
大悟はいそいそとベッドから下りて、近くの壁に背を預けて座る。
どういうわけか、岬も話しかけてくることもなく、部屋の中は緊張で凝り固まった空気が支配していた。
結局、それから眠りにつくまで双方とも言葉を交わすことなかった。
先に眠りに落ちた岬の穏やかな寝息が聞こえてくる度に、大悟はなぜか落ち着かない気分になり、ほとんど徹夜の状態のまま夢を見ることなく翌日の朝を迎えたのであった。
こうして二人のお泊まり会は、何事もなく無事に終わりを告げたのだった。