【10】
数週間後、また、この町に戻ってきた。
両親と、地元の友人に手を借りて、荷物を処分し、アパートを解約し、引っ越すために。
思っていた以上に、周囲は落胆も、見下しもしなかった。あっさりと仕事も決まり、中学時代の友人に連絡すると、懐かしがって、進んで引っ越しを手伝うと申し出てくれた。
実家に戻るため不要になった一人暮らし用の家具や家電は、事前に連絡しておいたバスの営業所の元同僚たちに引き取ってもらうことになっていた。
アパートの片付けを両親や幼馴染たちに任せ、借りた軽トラックの荷台に家具類を積んで届けに行くと、営業所のみんなは、口々に、顔色が良くなった、地元で元気に暮らせよ、よかったら、いつでも遊びに来いよ、と、明るく声をかけてくれた。
名越さんは、ちょうど冷蔵庫が調子悪かったんだ、大事に使うよ、と言って、引き取ってくれた。
この街が、路線バスの運転手という仕事が、嫌いだったわけじゃない、と、改めて思う。
いつも、病院の前は通るかと聞いてきたおばあちゃん。
通りますよ、と答えると、とてもうれしそうに謝辞を述べてくれた。
俺の運転する様子を、真剣な目でみていた、幼稚園生くらいの男の子。
「ありがとうございました」
「お世話様でした」
降りるたび、そう声をかけてくれる乗客たちに、どれだけ励まされたか。
けれど、もうきっと、俺はバスのハンドルを握ることはないだろう。
帰り際、あの和菓子屋にも寄った。
やはり、老婆が一人で店番をしていて、あの時のお礼を言うと、俺の事を思い出してくれた。
「実は僕も、あのバスの営業所で運転手をしていて。
いろいろ、気になることがあって、あの森の事を知りたかったんです。
辞めて、故郷に戻ることにしました。
お土産に、ここのきんつばを買って帰ろうと思って」
「そう、そうなの。
初めて見たときはね、びっくりしたんだよう。幽霊かと思ったの。顔色が悪くて。あれ、ごめんねえ。けど、元気そうになって、よかったよ」
しんみりとした様子で俺の話を聞いていた老婆は、うれしそうにそう言ってくれて、少し照れてしまった。謝られることはない。あの時の俺を見たら、誰だって幽霊かとぎょっとしただろう。
「枕森の話は、聞いて来たかい?」
「はい」
「そう。恨まないでやってね。あんまり、怖がらないでやってねえ。
可哀想なんだよ。ただ、ここから出たいんだろうねえ」
老婆は、そういって同情的な目で前の通りを見た。
きんつばの包みを手に、店を出た。軽トラックの運転席に乗り込み、枕森前のバス停をみて、一瞬、心臓が止まるかと思った。
あの女子高生が、立っている。
彼女の口が動いて、聞こえるはずのない声が、頭の中に響いた。
「定期券を買っちゃったら、同じところを走るバスに乗らないといけないでしょう?」
そうか。そうだね。
ここを離れるためにバスに乗るのだとしたら、定期券を買うのはおかしいね。
けれど、何度バスに乗っても、結局、戻ってきてしまうのだろう。
路線バスが入ってきて、停まり、次に発車した時には、彼女の姿はなかった。
ただ、その向こうには相変わらず、大きな木が茂り、風に枝を揺すられていた。
枕森。
売られ、買われて沈められた女たちの眠る沼。
今は埋め立てられ、真っ暗な地の底に封じられて。
あの樹の根は、きっと、元は沼だった場所にも侵食しているのだろう。だから、あんなに茂るのかもしれない。空を目指し、枝葉を広げて。
― ◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆ ―
実家の風呂場の脱衣所の、鏡の中に彼女の姿を見たときは、すごく驚いたけれど、逃げようとは思えなかった。
恐ろしい気持ちも、なくはない。けれど、それよりもずっと、ずっと。
家族のために、と、遊郭に売られる羽目になったのだろうか。きっと、まだ幼いうちに。彼女だって、自分の人生を生きたかっただろう。
恋をして、結婚し、子を産み、時には夫とケンカしたりして。好きな事も、やりたい事もあっただろう。見知らぬ男に体を売るという、選択肢以外に。
あの日の夜、彼女は、「つれていって」と言ったのだ。
遠くの地方から出てきた若者なら、あの場所から連れて逃げてくれる、そう思っての事だろうか。男に買われ、翻弄され、恨みながらも、男に縋るしかない彼女が哀れだった。
鏡の中の彼女が、窓ガラスの向こうからそうするように、ぺたりと手のひらをつけた。
引かれるように手を伸ばし、ガラス越しに手のひらを重ねると、ヒヤリと冷たい、薄い透明な板の向こうで、彼女はしあわせそうにニコリと笑った。
つられて笑みを浮かべたけれど、なぜか無性に悲しくて、鏡に額をつけて、少しだけ泣いた。