3
床を覆う質素なラグ。それをめくると、黒いインクで描かれた未完成の魔方陣が表れる。
芹香が読んできた魔法書。その中身の多くは、召喚魔法に関するものだった。
猛勉強をはじめた理由は、当然元の世界へ戻るため。
だが、召喚魔法について知れば知るほど、芹香は愕然とする他なかった。
召喚の基本は、等価交換。
高い望みには、高い代償が求められる。
4人の勇者、芹香を含めれば5名の人間を異世界から呼び出すとなれば、けた外れの魔力量が必要だった。
芹香は確信していた。
勇者は200年に一度、呼び出されるのではない。
200年に一度しか、呼び出すことができないのだ。
200年間蓄積された魔力により、奇跡を起こす――それが『勇者召喚』の正体だ。
芹香は床に目を落とす。そこにはこの世界に呼び出されたときに、目にした召喚陣があった。
慎重に描かれた何重もの円。その間には、複雑な呪文が書き込まれている。
召喚陣は図と文字で成り立つ。つまり、芹香の『暗記』スキルで習得することが可能だった。
この1か月、芹香は慎重に立ち回った。
この世界で最も高位の召喚魔法。
それを再現しようとしていることを、誰にも悟られないように。
だが、もう期限は間近だ。
3日後のパレードで、勇者たちは国民にお披露目される。
その際、当然ながら王宮は手薄になる。
騎士、魔法使い、王族たちは公務として。
なんなら召使までもが、休みを取って外出する。
芹香はその瞬間こそ、一世一代のギャンブルに最適だと考えていた。
図書館に閉じこもっていた真の目的。
命綱となるであろう召喚陣は、完璧でなくてはならない。
芹香は意を決して部屋中の家具を片付け、召喚陣を書き足していく。
手は黒いインクにまみれ、備え付けの家具に飛び散っていく。
インクは書き込まれるその瞬間、うっすらと青く光って召喚陣の一部となっていった。
ふいに、ぽたっと水滴が落ちた。
芹香は自分がいつの間にか泣いていることに気づき、慌てて涙を拭った。
召喚陣はにじむことなく、冷徹に芹香を見据えている。
「どうして」
なぜこのタイミングで涙が出るのか、芹香には分らなかった。
召喚されたとき、殺されかけた時、拒絶されたとき――その都度、恐ろしく、悲しく、寂しかったのに。
そして、気づいてしまった。
今この瞬間、芹香の目標が変わったからだと。
元の世界に帰ること。
それが絶望的だと受け入れ、納得したからだった。
いつか、安らげる場所が欲しい。それが芹香の願いとなった。
重厚な作りの廊下。ここまで国民の歓声は聞こえている。
遠く聞こえる声と違って、ここ王宮は静まり返っていた。
時刻は正午。普通なら多くの人が洗濯物や書類を抱えて走り回っている。
人っ子一人いない廊下を確認し、芹香は図書館に入った。
古い板でつっかえ棒をし、誰も入ってこれないようにする。
自室に入り、しっかりカギをかける。
床の一部でしかなかった魔方陣は、より完璧に、強靭にと補強された。
今では壁中を這い、天井にすら届いている。
まるでサイコホラーのありさまだ。
ここまで完成度の高い魔方陣なら、きっと成功するはず。
上級は無理でも、中級程度の召喚獣なら呼べるだろう。
そうすれば、あとは名前を付けて契約するだけでいい。
自分を鼓舞し、ベッドの下からペーパーナイフを取り出す。
芹香は思い切って、手のひらを大きく傷つけた。
一度ではうまく切れず、何回も同じ個所を傷つける。
芹香は痛みにうめきながら、地面に座りこんだ。
べっとりと流れ出る血を、まるで止血するかのように強く床に押し付ける。
召喚陣は、芹香の血を受けたところから、キラキラと発光し始める。まるで喜んでいるように。
本で読んだ召喚呪文。一言一句間違わないよう、芹香は慎重に唱える。
だれか、だれか答えて。
ここから私を連れ出して。
そう願いながら、魔方陣を見つめていると、不意に中央にこぽり、と泡が浮かんだ。
泡は魔方陣の光を反射しながら、唐突に数を増やしていく。
泡の数が止まり、薄く水がしみ出てくる。
まるで水たまりのようだが、色は暗い部屋の中でもわかるぐらい、暗く染まっていた。
不意にその水たまりから、手が出てきた。
ほっそりとして綺麗な女性の手だったが、爪がまるで鉤爪のように曲がっている。
手はもちろん、あっという間に美しい顔、豊かな胸、芸術的な足――全身が這いあがってくる。
「こんにちは。可愛いお嬢さん」
女性は、にやっと芹香に笑いかけた。
予想外の出来事に固まる芹香をよそに、女性は部屋を一望する。
「すごい。素敵なお部屋ね。
こんなに凝った魔方陣も、初めて見た」
人型の魔物は、上級魔族であることの証だ。
とんでもないものを召喚してしまった。芹香はそう悟る。
上手くいって、せいぜい中型の召喚獣。
そう予想していたからこそ、凝った魔方陣を作り上げたのが裏目に出たらしい。
「すごく珍しくて、美味しい血だったよ。ありがとうね。
私はカーラっていうのよ。召喚されたのは初めて」
にこにこと笑顔を崩さず、カーラはそう続けた。
優しく笑っているのにもかかわらず、どこか色香が漂う。
「見たところ召喚獣を呼び出そうとしてたみたいだけど・・・おめでとう、大当たりを引いたね!」
「さて。じゃあ取引の話をしようか。
いったい何が欲しいの?」
召喚の基本は、等価交換。
芹香は茫然としつつも、頭をフル回転させる。
「もっと、もっと強く、なりたい」
帰りたい。生きていたい。誰かにそばにいてほしい。
思わず、芹香は一番シンプルな『正解』を選んでしまう。
そう、もしも芹香が強ければ、こんな思いはせずに済んだのだ。
「直球だねー。お姉さんそういうの大好き。
何か君のこと気に入っちゃったから、そのお願いは叶えてもいいよ」
ただし、とカーラは続ける。
肉厚な唇を、赤い舌がかすめていく。ご馳走を見つけた美女の欲望が垣間見えた。
「私たちの仲間になればね。
断ったら、君を食べちゃう」
冗談ではないことは、芹香には分かった。
彫刻のように完璧な造形美を持つ瞳。今芹香に注がれる視線は、恐ろしいほど熱いものだ。
恋情にすら似ている、食欲という欲望。
芹香は心を決めた。
道は一つしかない。
「なります。だから、私に力を貸してください」
カーラは最高の笑顔を浮かべる。
次の瞬間、芹香の全身が厚くなる。
まるで細胞すべてが放熱しているように感じ、思わず目を閉じる。
「人間やめても生きたいなんて、最高だよね」
頭を抱えてうずくまり、身を小さくする芹香にカーラの笑い声が降ってくる。
異変が収まり、やっと芹香が顔を上げた時には、カーラの姿は消えていた。
「ステータス」
名前:笹本芹香
種族:サキュバス
属性:闇
レベル:1
スキル:幻視、催眠
芹香は絶句する。
まさか、こんなことになるなんて。
尋常じゃない事態だという思いは、正しかった。
カーラの楽しくてたまらないという笑い声を思い出す。
芹香はまさに、彼女たちの仲間となってしまった。