第92話 洗濯屋の受付机
月曜日、私はその日最後の講義を欠席して、モレティアさんが受付をしている洗濯屋に向かった。
モレティアさんを説得して、弁護士への依頼だけでなく、契約内容の見直しについても、常連客の社員さんに相談してもらうためだ。
あと、こうして内緒で学園を抜け出せば、カレフィーネとルッシェリーナに、私が星乃とどき先生への連絡に出かけたと思ってもらえるかもしれない。学園にいたまま採点結果を受け取ってしまう不自然さも、多少はごまかせそうだ。今更の小細工ではあるが、何もしないよりはましだと思おう。
学園を出て、いつも使う商業街とは反対の、南へ向かって歩く。30分ほど歩いて丘を一つ越えると、こじんまりとした商業街に着いた。モレティアさんが勤める洗濯屋は、この一角にある。
まずは道を挟んで反対側から、窓越しに店の中を覗く。
店の中に客の姿はなく、受付の机にモレティアさんが座り、何かを描いている様子が見える。
――あの漫画は、こうやって描かれているんだ……。
毎日読んでいる漫画が生まれている現場を見ると、なんだか感慨深いものがあった。
自分が文字に落として、翻案している物語も、同じように新聞に掲載されているのだが、やっぱりあれは異世界で創られたものだという意識が強いのかもしれない。
道を渡り、お店の扉を開けると、モレティアさんが顔を上げた。
「いらっしゃいませ。あれっ?受付さん?」
「お仕事中にお邪魔して申し訳ありません。継譚商会のミリアナと申します」
私は、木片で作った名刺をモレティアさんに渡す。
受付机に目をやると、何枚かの用紙の上に4つの枠が引かれ、鉛筆で下描きがされていた。
「ミリアナちゃんって言うんだ。お洗濯の用事じゃないのよね。なにか用なの?」
「はい。モレティアさんに、どうしてもお願いしたい事があって来ました」
「お願い?弁護士さんに依頼するって話は、まだ考え中よ。というのも、いつも相談している人に、今朝は会えていないから。まあ、月曜日は来ない事が多いかな。明日には相談できると思う」
モレティアさんは、相変わらず呑気そうに言う。でも、目の下にはうっすらと隈が浮かんでおり、昨日と同じように表情に疲れが見える。
「私のお願いは、モレティアさんに、もっと自分を大事にしてほしいというものです」
「えっと?私を大事にするの?」
モレティアさんは目を丸くする。どう切り出すか考えるより先に、気になった事が口をついて出てしまった。
「はい。私を含む大勢の人達が、毎日新聞を開いて、モレティアさんの漫画を読むのを楽しみにしています。モレティアさんには、この漫画をずっと描き続けてほしいと願っています。でも、今のモレティアさんは、自分を犠牲にしながら漫画を作っているように見えて、このまま描き続けられるのか心配です」
「ああ、睡眠時間を削っているから、眠そうに見えるのね。でも大丈夫。私、絵を描いている時には、ずっと寝なくても全然平気。睡眠不足には慣れているの」
駄目だ。この方向での説得は難しいだろう。
この人は好きな事をしていると、倒れるまで続けてしまう性格だ。私にはよくわかる。
――私だって、物語を聴くためなら、睡眠や食事を削るのをなんとも思わないもんね……。
私は少し説得の方向を変える事にする。
「あまり自覚していないかもしれませんが、今、モレティアさんは皇国で、いや、きっと世界で一番有名な漫画の作家さんです。だから、みんなが尊敬して、憧れる、そんな人になってほしいんです」
「ええっ、私は絵を描くのが好きなだけ。そんな偉い人間じゃないって」
「駄目です。私の夢のために、どうか偉い人になってください」
「そんな無茶な。ミリアナちゃんの夢ってなんなの?」
私はモレティアさんの目をしっかりと見据えた。
「私の夢は、物語が溢れる世界を作る事です。漫画やお話が周りに満ちて、読んでも読んでもまだ新しい物語がある、そんな世の中にしたいんです」
「はー、それはおっきな夢ね」
「そのためには、物語を創る作家がたくさんいないといけません。好きなものを描いて、ちゃんと暮らしていける。そんな姿を見たら、自分も作家になりたいと思う人が増えるはずです。だから、モレティアさんに憧れの存在になってもらう必要があるんです!」
私は思わず、モレティアさんに指を突きつけて力説してしまった。
本当は、描き続けられる条件かどうか、契約を確かめてほしいという話につなげるつもりだったのに。
モレティアさんは、私の勢いにびっくりしていたが、やがてにっこり微笑んだ。
「もしかして、ミリアナちゃんも何か物語を作っているの?」
「あ、いや、私は……自分でも物語を作りたいとは思っているものの、残念ながら実力が伴わず……」
「そんなの、勿体ない。好きなら実力なんて関係ないって」
あっという間に勢いが萎んだ私に、モレティアさんは机の上の漫画の下描きを差し出した。
「私だって、別に実力があるわけじゃないの。ほら、これだって、昔の事を思い出す場面が、うまく表現できなくて……」
「ああ、回想の場面ですね。教本にいくつか表現方法が載っていたはずですが――」
「教本って何なの!」
今度はモレティアさんが、いきなり受付机の向こうから身を乗り出し、顔を近づけてきたので、思わず私はのけぞった。
「ええと、継譚商会で、漫画の技法をまとめた冊子を作って発売しているんです。説明会で話せなかった表現方法もいくつか載せているんですけど――」
「どこで買えるの?教えて!」
どうやら、モレティアさんは『漫画教本』の事を知らなかったらしい。初版はあまり部数を刷らず、販売先も美術系の専門校とあの古書貸本屋に限っていた。
――そっか、専門校に通っているわけじゃなければ、目にする機会も少なかったよね。
だが、漫画教本は増刷を頼んでいるものの、今は売り切れで専門校に行っても買えないだろう。継譚商会としても販売用の冊子は残していない。
可能性があるとしたら、古書貸本屋くらいだろうか。公募期間が終了しているので、貸し出していた冊子も、返ってきているかもしれない。
「官庁街の近くにある古書貸本屋なら、借りられるかもしれません。でも、今は売り切れで、買う事は――」
「よし、わかった、すぐに行こう!」
そう言うとモレティアさんは、店の奥に引っ込んだ。
「おばあちゃん!私、今日はもう上がりなの。受付を代わって!」
奥からの返事を聞くと、モレティアさんは机の上の紙を手早くまとめ、出かける用意を済ませた。私の手を引いて店を出ると、そのまま近くの都電停留所へ向かおうとする。
「あの、私が案内するんでしょうか?貸し出し中かもしれませんし、本当に借りられるかわかりませんよ」
「お願い。なんでも言う事を聞くから、その本屋に連れて行って!」
モレティアさんは足を止めると、私の手を離して両手を胸の前で組み、目を潤ませながら見つめてくる。
――あれ?説得できていないのに、なぜかモレティアさんにお願いを聞いてもらえる状況になっているぞ?
悪魔: 睡眠より趣味を優先……まさに類は友を呼ぶ。
悪魔の眷属: マスター、自分もその「類」に入っている自覚はありますか?
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