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父さんと母さんにも全てを話した。じいちゃんが遺したノートも見せた。二人とも俄かには信じられないといった様子だったが、実際にじいちゃんとばあちゃんが亡くなっているという事実もあり、否定したいがしきれないといった様子だった。
「もう壊しましょう」
最終的に母さんの決断によりじいちゃん達の家を壊す事となった。ここまでする必要があったのかなと父さんは少しぼやいていたが、
「残していても何も良い事なんてないじゃない」
母さんにそう言われてしまっては父さんも何も言えなかった。
これで良いと僕も思った。この家がある限り何かの間違いで還り火に引き寄せられるかもしれないという恐怖に苛まれ続ける事になる。でも壊してしまえば、嫌でもそれは叶わなくなる。
想い出の場所が無くなる事は悲しかった。母さんもきっと辛かったと思う。でも僕の為、自分自身の為に、母さんは決断してくれた。
僕の家族はここにいる。還り火の向こうに家族なんていない。
僕は嫌だ。仮にそこにじいちゃんとばあちゃんがいたとしても、きっとそれは僕が知っている二人ではない。
ーーさようなら。
心の中で僕は別れを告げた。
*
長い時間が流れた。結婚し子供が産まれ、成長した息子もまた結婚し子供を授かった。
両親は既に亡くなっていた。いずれ親も死ぬ。それは避けられない事だ。自分の子供達や孫達にも等しく訪れる未来だ。
だが私達にとっては違う。私達家族に与えられた死はやはり不平等だ。
先に母さんが亡くなった。実家のクローゼットの中で。
その十年後父さんが亡くなった。同じくクローゼットの中で。
どうしてこんな事が続くのか。どうして私達なのか。
理由も何も分からず周期的に訪れる死。
母さんが死んだ時、どうして自分じゃないのかと思った。それと同時に次こそは自分かと怯えた。しかしそうはならなかった。
十年間というのは絶妙な周期だった。最初は怯えるが徐々に恐怖は薄れる。大丈夫なんじゃないかと思えてしまう。だが十年目が訪れる手前になってより純度の高まった状態で恐怖が甦る。
もうそろそろ。今度こそ本当に。
弄ばれているような、じっくりと時間をかけて調理されているような気分だった。
質が悪いのは怯えた所で対処法が存在しない事だ。祖父が遺してくれたノートにも、還り火の対抗手段は載っていなかった。祖母の血筋から受け継がれてきた還り火という存在を知り生きている人間はもう私しかいなかった。
息子達に還り火の事は伝えていない。言った所でどうにもならない。怯えさせてしまうだけだ。だから考え方を変えた。
人はいずれ死ぬ。形はどうあれ平等に訪れる死に変わりはない。
もはや開き直りだった。あんなもののせいで塞ぎ込む必要などない。そう考えるようになってからは少し楽に生きられるようになった。
「じいちゃん、お菓子食べたい」
「あぁ、冷蔵庫にあるから勝手に食べていいぞ」
「やったー」
孫の陽介は名前の通り明るく元気な子だった。見ていて眩しい。目に入れても痛くないという表現が比喩ではなく本当にそうだと思える。
「親父、足の方は大丈夫か?」
「ああ、普通に過ごす分には問題ない。この歳で走り回る事もないからな」
息子の誠二も立派に育ってくれた。家族を持つ事が出来て本当に良かった。
「あれ、陽介は?」
「二階にでも行ったんじゃないの」
「ああ、そうかもな」
妻の瑞枝が穏やかに微笑む。その微笑み通りの優しい女性だ。彼女と出会えたからこそ今こうして孫にも恵まれた。この上ない幸せだ。
ーー陽介。
ふいに不安が過った。当たり前だと思っていた存在は何の前触れもなく消えてしまう。 立ち上がり二階へと向かう。若い頃は何の負担もなかった一段一段が地味に険しい。歳を重ねるのは悪い事ばかりではないと思っているが、体力と筋力に関してはやはり若さには勝てない。
「陽介?」
結婚して二年程して建てた念願のマイホーム。重圧もあったが、希望を持って生きるのだという強い決意を持って瑞枝と決めた。
妻との幸せな空間。しばらくして誠二を授かった。もちろん辛い事も多かった。うまくいかない事だってたくさんあった。
でもそれでこそ家族だ。色々なものを一緒に乗り越えていくからこそ、今振り返って幸せだと思える時間があるのだ。
「陽介?」
誰にも奪わせてはならない。私達の幸せだ。私達家族が積み上げ築き上げた幸せだ。
ーー還り火。
歩が早まる。一つ一つ部屋を確認していく。
いない、いない。いない。
いや、見ていない場所がある。自然と身体が拒否して見て見ぬふりをしようとした。
クローゼットの前に佇む。
前回の還り火から何年経っただろうか。
怖くて数えるのをやめた。十年を実感したくなくて目を逸らすようにしてきた。
祖父母の家を壊した時、これで解放されると勝手に信じきった。だが両親が実家のクローゼットで亡くなった時、それは自分の勝手な都合の良い解釈に過ぎなかったんだと知った。
還り火があの場所だけに縛られているはずがない。曾祖母の死も、それより前の祖母の血筋も還り火に巻き込まれている事を考えれば当たり前の話だった。
ーーまさか、今年が。
クローゼットに手を伸ばす。手の震えが強まる。
“太一”
頭の中で声がした。
ーーばあちゃん。
そうだ。あの日祖母が来てくれたから今の自分がいるのだ。
ばあちゃんが助けてくれた。ばあちゃんが身代わりになってくれたおかげだ。
「陽介」
ついに自分の番が来たのだ。
妙な納得感があった。還り火の意図が少し分かったような気もした。
つまりは、今日の為だったのか。
クローゼットを開ける。
暗い空間の中に陽介が座っていた。陽介の視線はあらぬ方向を向いていた。
視線の先に還り火がいた。幼い日に見た時と同じ漆黒の球体。ぞわぞわと蠢きながらその場に漂う、現実を超越した存在。
「じいちゃん、あれ何?」
陽介が私に問いかける。意識がある。間に合った。陽介は助かる。
「あれって、何だ?」
私は祖母がしたのと同じように知らぬ振りをした。
「下に行ってなさい」
はーいと返事をしながら陽介はそのまま一階へと降りて行った。
私は還り火から視線を外さない。還り火との距離は変わらないはずなのに、どんどん肥大化しているように感じられる。吸い寄せられている感覚。お互いの場所は変わっていないのに、空間そのものが捻じ曲げられ縮小されているようなこの世ではない感覚。
還り火の姿がだんだんと視認されていく。
一つの黒い球と思われた見た目は、無数の何かが集まりその一つ一つが意思を持って蠢いていた。
口だ。人の口。黒味を帯びた口達が私を飲み込まんとばかりに皆口をがばっと開けている。口の中は闇で宇宙のように底知れぬ漆黒が広がっていた。無限で無数の入口達。それらが私に呼びかける。
『かぞくかぞくかぞくかぞくかぞくかぞくかぞくかぞくかぞくかぞくかぞくかぞく』
重なり合い響き合う声。重ね上げられた声がとてつもない音量で全ての音を奪い覆っていく。
ーーやっぱりそうだったのか。
理解出来たのは還り火に近づいている証拠か。
私は今日まで生かされていた。あの日、還り火はまだ私を連れて行く気はなかった。
連れて行かれるのは、最初から祖母だったのだ。
私という孫を守るために飲み込まれた祖母。
祖母を守るために飲み込まれた曾祖母。
祖父のような例外も存在するが、孫に関してはその場で連れていけるのに還り火はそうしなかった。
何故そうしたのかは分からない。だがあえてそうしたという事だけは直感的に理解した。
抵抗できない音圧に晒される中、ふとそこだけに焦点が当たったかのように聞き覚えのある声が他の声を押しのけて鼓膜に流れ込んだ。
『まるは、まるじゃない』
ばあちゃん。
『なかに、おれもいる』
じいちゃん。
『かぞくにはかえるべきばしょがある』
そうだ。皆家族だ。家族は一緒にいるべきだ。
『たいち』
父さん。
『たいち』
母さん。
『ここはみんなのいえ』
皆、皆そこにいるんだ。
「みんな、みんな」
帰りたい。みんなのもとに還りたい。
いくら生きて家族が出来ても、いずれは皆死んで消えていく。
でも、僕らは違ったんだ。
家族を奪ったはずの還り火に対して、恨みの感情は一切湧かず恐怖もなかった。
僕らは死んでも会えるのだ。いやむしろ、死んでからこそが本当の家族としてまた過ごせるのだ。
『はやく、かえってこい。たいち』
僕は自分から還り火に手を伸ばした。
「ただいま」