ワイド周遊券をもって北海道へ行こう
国鉄は、夢のような切符を用意してくれていた。
周遊券である。
周遊エリアは乗り降り自由、自由席なら急行に乗ることができた。後に急行列車が減って特急が幅をきかせるようになると、周遊エリア内の特急自由席も乗り放題となった。
例えば、北海道ワイドの有効期間は20日間で、これだけの間、北海道内の足が確保されるのだ。
夜行列車がふつうに運転されていた時代である。北海道や九州、四国では島内の夜行列車に乗れば、宿代さえ節約できる。カネはないが時間ならある学生にうってつけであった。
北海道ワイド周遊券を手に、北海道へ行ってみよう。
東京からなら、上野発の夜行列車に乗るのもいいが、東北本線を白昼延々と時間をかけて青森を目指すのもわるくない。上野8時ちょうど発の急行「もりおか1号」に乗れば、16時10分に盛岡に着く。夕刻の盛岡を散策し、17時50分発の急行「しもきた」に乗り継げば、青森には21時2分着。青函連絡船11便の出港は0時10分で、翌朝4時ちょうどに函館に着く。「ニセコ1号」に乗り継げば、10時6分、札幌着。
大阪からなら、1日かけて東京を目指す。大阪7時58分発の急行「たかやま」で大垣10時11分着。46分発の3122M快速に乗り継ぎ、13時4分浜松着。17分発三島ゆき466Mに乗り継ぎ、15時38分三島着。16時17分発急行「伊豆10号」で東京には18時22分に着く。上野発の夜行列車はよりどりみどりである。
あるいは日本海側を延々北上する手もある。22時10分発の青森ゆき急行「きたぐに」の青森着は、翌夕17時10分である。青森発19時25分出港の青函連絡船27便で23時15分函館着。「すずらん5号」に乗り継げば、6時8分、札幌に着く。
福岡からなら、博多19時24分発の急行「阿蘇」に乗れば、大阪着が7時50分なので、上記の急行「たかやま」に間に合う。博多8時3分発の快速1220Mに乗れば、山陽本線を乗り継いで、22時10分発の青森ゆき急行「きたぐに」に接続する。
無論、別途料金を払って、特急や寝台特急に乗れば、選択肢は格段に広がる。
東京からなら、「はつかり」「みちのく」「はくつる」「ゆうづる」で、最小時間で北海道に乗り込める。
大阪からなら、日本一の長距離昼行特急「白鳥」や、寝台特急「日本海」が、青森まで一本で連れていってくれる。
福岡からなら、新幹線でも、東京ゆきや大阪ゆきの寝台特急でもいい。山陰本線経由が認められていたかどうか知らないが、仮にOKならば、特急「まつかぜ」で大阪までという選択肢もあったことになる。
凍えそうなカモメを見たり、ご覧あれが竜飛岬と見知らぬ人が指をさす方向を眺めたりしながら、3時間50分。逆巻く波を乗り越えて、青函連絡船は函館に着く。
東京からでも半日以上かかるのだから、はるばる来たぜと甲板から眺める函館の街は、多くの若い人たちにとって、輝いて見えたことだろう。
周遊券をもつ旅行者にとって、特急列車には乗ることができない(別途、特急券を買えば乗れる)不便はあるものの、急行列車がたくさん運転されていたので、移動にさほどの不便はなかったはずだ。
なにより、札幌と道内各地を結ぶ夜行列車の存在が大きい。
函館には急行「すずらん5・6号」と43列車と44列車が
稚内には急行「利尻」が
網走には急行「大雪9・10号」が
そして釧路には急行「狩勝7・8号」と423列車・424列車「からまつ」が運転されていた。
これらを宿代わりにすれば、宿泊代が浮くだけでなく、遠距離を寝ている間に移動できる。
例えば、「からまつ」で朝、釧路に着く。1日、釧路観光をして、夕方の17時15分発「しれとこ6号」に乗れば、20時27分に網走に着く。20時45分発の「大雪10号」に乗れば、翌朝に札幌に戻れる。無論、変化はないが、上り「からまつ」でトンボ返りしてもよい。
札幌を拠点に昼間を過ごし、夜になれば最果てに向かって夜行列車に乗る。最果てで1日を過ごして、夜になれば夜行列車で札幌に戻る。そして夜になれば、別の最果てに向かう。そんなことができたわけだ。
現在残るJR北海道の路線網はスカスカといった印象だが、昭和53年10月改正当時は充実していた。国鉄の線路網を形にすると、北海道の形が朧げにわかるほどだった。
周遊券をもつ者からすれば、乗り甲斐があったとも言えるし、鉄道で行けるところが格段に多かったとも言える。
令和の今では、オホーツク海に面する鉄路は、釧網線の網走ー斜里間の37.3kmしかない。
しかし、昭和53年10月当時は、天北線、興浜北線、興浜南線、名寄本線、渚滑線がオホーツク海に沿っていた。余談ながら、興浜北線と興浜南線の北見枝幸ー雄武間が開業していれば、稚内から知床半島の付け根の斜里までオホーツク海に沿った線路で行けたことになるが、結局、開通することはなかった。
同様に、今は北海道で日本海に面する鉄路は、函館本線の銭函ー余市間と宗谷本線の一瞬ほどであるが、当時は留萌本線の留萌ー増毛間と、羽幌線が日本海に沿っていた。
今は稚内に向かうには、主に内陸をゆく宗谷本線しかない。が、当時はオホーツク海側からも、日本海側からも北を目指すことができたわけだ。羽幌線1825D幌延ゆきに乗れば、晴れた日など、日本海に沈みゆく夕陽を眺めることができたであろう。留萌駅の駅弁、鳥めし300円をつまみながら、ビールを飲むひとときは、贅沢極まりないものであったに違いない。
稚内に向かう本命、宗谷本線にも話題があった。
看板列車、急行「宗谷」の上り列車には奇妙な停車駅があった。
佐久駅である。
宗谷本線の音威子府以北には、3往復の急行列車が運転されていたが、佐久に停車するのは上り「宗谷」だけ。しかも、停車時間が長い。おそらく佐久には8時56分頃に着く。6分停車し、9時2分に発車する。その間、下り急行「礼文」と交換する。
列車の行き違いのために停車するのだから、客扱いもすればという判断であろうが、にしても解せないのは6分停車で、ここで6分も停まるくらいなら、稚内の発車時刻をもう少し遅らせればいいのにと思える。
上り急行「宗谷」は次の停車駅・音威子府でも5分停車する。はるか函館をめざす急行にしては、モタモタしている。ちなみに、上り「宗谷」は、その後、旭川で5分停車し、札幌で9分停車し、小樽で6分停車する。稚内ー函館の通しでは、11時間49分かかる。下り「宗谷」が10時間56分だから、ずいぶんのんびりしている。周遊券をもつ旅行者が、北海道からの帰路、名残惜しいと思う気持ちを汲んでのダイヤであったのかもしれない。「宗谷」は函館で青函連絡船16便につながり、青森では上野ゆき寝台特急「ゆうづる14号」「はくつる」、急行「八甲田」に接続する。
今はなき路線にも、いろいろ話題はあった。
宗谷本線の美深駅から東へ向かう美幸線は、日本一の赤字ローカル線で知られていた。当時の町長がそれを逆手に、美幸線のきっぷを東京まで売りに来たこともあったと、宮脇俊三氏はその著書の中で綴っておられる。
美幸線の美は美深の美であるが、では、美幸線の幸はどこのことかと言えば、興浜北線の終点、北見枝幸の幸だそうである。なぜかような路線が計画されたのか、よくわからない。名寄本線以外に、宗谷本線からオホーツク海に抜ける路線が必要と考えた時代があったのであろう。実際には美深駅から3つ先の仁宇布駅までの開業で終わった。
美幸線は美深、東美深、辺渓、仁宇布の4駅しかない21.2kmの路線であった。辺渓、仁宇布とも、いかにもアイヌの地名である。辺渓など、漢字からも、音からも、まこと寂寞とした感ばかりが迫ってくるような気がする。
辺渓ー仁宇布の駅間は、14.9kmある。北海道の駅間距離は長いのが一般的であるとは言え、これはかなり長い部類になる。途中、人の気配がほぼなかった証左であろう。
帯広ー広尾間を結ぶ広尾線は、日本中に大プームを起こした駅のあることで知られていた。
幸福駅である。
帯広よりふたつ手前に愛国駅があって、「愛国から幸福ゆき」のきっぷが爆発的に売れた。いつの世も、人々は単純にしあわせを願う。幸福に連れていってくれるきっぷには、素朴な願いを簡単に託すことができたのだと思われる。
広尾線が廃止になるとき、幸福までは線路を残してもいいのではと思った。札幌ー帯広間の特急は帯広ゆきではなく、幸福ゆきにすれば人気が出ると考えたためだ。
周囲はだだっ広い十勝平野の只中にある。郊外型ショッピングセンターを作って、そこへの輸送を兼ね備えば、そこそこ集客できるのではないか。
もうひとつ思ったのは、広尾線の幸福駅がなくなるなら、他のどこかに幸福駅を作ってもいいのではないかということ。今なら、東京からそこそこ近くて集客に困るローカル線に、愛国と幸福の二駅を作り、商業施設を併設すれば、集客ネタになるかもしれない。まあ、安直きわまりないことではあるものの。
広尾線について言えば、おそらく襟裳岬をめざしていたのであろう。
そして、西から延びる日高本線とつながる構想があったのではなかろうか。
広尾線の終着駅の広尾駅と、日高本線の終着駅の様似駅からは、国鉄バスが連絡しており、2時間半ほどで乗り継ぐことができた。
札幌からの夜行列車「からまつ」は帯広に5時30分に着く。5時43分発の広尾線始発821Dに乗り継げば、7時39分広尾着。8時15分発の国鉄バスに乗り継げば、様似駅には10時33分。日高本線の様似発は、11時20分となる。
帯広8時4分発823Dなら、広尾に10時2分着で、10時20分発のえりも岬ゆき、10時30分発の様似ゆきに乗り継ぐ。
札幌7時40分発の急行「えりも1号」は様似に11時34分に着く。12時ちょうどの国鉄バスに乗り継げば、広尾駅には14時26分に着く。15時28分発に乗れば、17時28分帯広着。
様似駅12時45分発のバスなら14時2分にえりも岬に着く。
国鉄バスだから、周遊券で乗ることができる。
何もない春を目指して、広尾線や日高本線から国鉄バスに乗り継いだ人が多くいたことであろう。
函館本線の倶知安から室蘭本線の伊達紋別を結ぶ胆振線。
ここには急行が上下一本ずつあった。線名と同じ「いぶり」である。
グリーン車どころか指定席車さえない地味な列車であったが、この列車にはきわめて珍しい特徴があった。
始発駅と終着駅が同一なのである。
札幌発札幌ゆき。
下りは千歳線、室蘭本線、胆振線、函館本線を経由する。
上りは函館本線、胆振線、室蘭本線、千歳線を経由する。
この急行「いぶり」の上下列車が交換するのが、胆振線の京極駅である。
ともに同じ名前、行き先の上下列車が異なるホームに入線する。
京極駅の案内は大変だったであろう。
札幌に行きたい乗客は、下り列車に乗るのが正解で、札幌には17時36分に着く。
万が一、誤って上り列車に乗ると、その2時間後の19時27分着になってしまう。
道東の標津線は、急行も走る標茶ー根室標津と、途中の中標津から根室本線の厚床までを結ぶ二股線である。沿線は根釧台地の畜産地帯なので、人口はきわめて少ない。根室標津は野付半島の付け根に位置する。北方領土の国後島は目と鼻の街である。
今や北海道の鉄道網は、ほぼほぼ、幹の部分だけと言っていい。
当時は枝の部分が多数あり、美幸線も、広尾線も、胆振線も、標津線も枝である。
今となっては、線名だけでは、どこにあったっけと考える線区も少なくない。
江差線、松前線あたりは、地名から察することができる。
瀬棚線、岩内線あたりになると、怪しくなってくる。
士幌線は知る人ぞ知る遺構があるけれども、白糠線や相生線となると、もうあやふやである。
石狩炭田の石炭輸送を担った幌内線、万字線もよくわからない。歌志内線は歌志内市が日本で最も人口の少ない市だからまだなんとなくわかる。
極めつけは富内線で、日高本線から日高山脈に向けて82.5kmも分け入る線があったことは、復刻版時刻表を見るまで、わたしは知らなかった。
ところで、北海道は500万人ほどが住む。今はそのうち200万人近くが札幌市に住む。
小樽や千歳など周辺を含めた人口はもっといるから、札幌都市圏の人口が北海道で占める割合は5割ほどになるであろう。
東京一極集中がよく言われるが、関東一都三県の人口は日本の総人口の3割ほどである。北海道の中の札幌の立ち位置は東京の比ではない。
昭和53年10月当時、北海道の総人口は今と大きく変わらない。
しかし、札幌市の人口はまだ140万人に満たなかったのだから、この半世紀ほどの間に、60万人ほどの移動があったことになる。北海道各地から札幌市への。
恵庭、北広島、江別など札幌都市圏まで広げれば、100万人近くの移動があったのではないか。
これを札幌都市圏以外の地域からみれば、みんな札幌に出ていってしまったということになろう。
鉄道の立場で言えば、札幌都市圏の輸送は増え続ける一方で、札幌と道内諸都市との輸送は縮小の一途を辿る外部環境にあったと言えよう。
北海道の形がわかるほどの鉄道網が消えていった背景のひとつには、かような人口移動があったことは間違いあるまい。
周遊券の話から、ずいぶん逸れた。
鉄道だけで北海道を満喫できる時代があったということで、この稿を終わる。