37 疑惑
幸いなことに恵子は大した怪我をしておらず、すぐに意識を取り戻した。隆弘は自分が守りきれなかったことを悔やんでいたが、恵子は特に気にしてはいないようだ。
「香坂くん待ってて、すぐに怪我を治してあげるから」
恵子は隆弘に治癒魔法をかけようとするが、ルクスがすかさず止めに入った。
「待ちなさい。あなたは今、とても疲れているはずだよ。今は魔法を使わずに安静にしておくべきだ」
「でも」
「そうだよ藤木。俺は平気だから、今は休んだ方がいいって」
隆弘にもそう言われ、恵子は渋々と引き下がった。
「ごめんね香坂くん」
「謝ることねーって。それより俺こそ……役に立てなくて悪かった」
隆弘が申し訳なさそうに呟くと、恵子は「そんなことないよ」と小さく首を横に振った。
「じゃあさっさと宿に戻るわよ。怪我人に無理させるわけにはいかないもんねぇ」
そう言って、莉愛は隆弘を引っ張っていく。
「いてててて……! ちょっ、やめろって! 俺も怪我人だから!」
隆弘は騒ぎながらも莉愛に連れて行かれてしまう。真紀と恵子は顔を見合わせつつ、二人を追って神殿を後にした。
「それにしても、あの蛇の化け物は結局何だったのかな?」
神殿からの帰り道、真紀は先程の大蛇について振り返っていた。するとルクスも難しい顔をして考え込む。
「さっきも言った通り、あれは深淵の民が操る悪魔だよ。けれどなぜ、それがここへ現れたのかは私にもわからない」
ルクスの言葉に、隆弘が心配そうに口を開いた。
「さっきのあいつさ……いきなり神殿の中に現れたって話したよな」
「それがどうかしたの?」
莉愛が首を傾げると、隆弘は険しい表情を浮かべた。
「あの蛇、急に出てきたと思ったら真っ直ぐに祈りの間に向かってったんだよ。もしかしたら、あいつの狙いって」
その言葉に、恵子は俯いてしまった。二人の態度を見て真紀もハッとする。
「もしかして、恵子を?」
「だとしたらますます不思議だね。深淵の民が聖女を狙う理由なんてないはずだ」
「けどあの連中も魔女を倒そうとしてるわけだろ。その為に、聖女である藤木が邪魔になったとか」
隆弘が口にした可能性に、真紀達は黙り込む。
もしあの蛇が深淵の民の手先で、恵子の命を狙っているとしたら……そう考えた瞬間、真紀は背筋が冷たくなるのを感じた。
「確かに深淵の民は魔女を倒そうとしているよ。かといって聖女に手を出したり、ましてやその命を奪おうなんて考えはしないと思うけどね」
「だけど、あの蛇の化け物は藤木を狙ってたのはマジなんだ」
そう言って隆弘は唇を噛み、恵子も暗い表情を浮かべて黙り込んでしまった。
「彼らが何を考えているのかも気になるし、今はとにかく体を休めて、それから今後について考えていこう」
「そう……ですね。わかりました」
ルクスの言葉に頷きつつ、真紀は不安な気持ちを抱えたままだった。
(あの人達、今度は何を考えているんだろう?)
真紀は心の中で、もう一度あの蛇の化け物を思い浮かべる。あんなものが急に神殿の中に現れたのだ。彼らが何かを企んでいるのは間違いない。
でもその目的がわからなくて、真紀はモヤモヤとした気持ちになってしまう。
(あれは本当に恵子を狙っていたの? それとも、何か別の目的が?)
真紀がそんな風にあれこれ考えていると、そこへ一人の少年がぱたぱたと駆けてきた。
「おーい姉さーん」
とか言いながら蓮也がこちらへと走ってくる。彼は大変のんきな様子であったが、真紀の表情を見て首を傾げた。
「どうしたの、深刻そうな顔して。何かあった?」
すると隆弘が険しい表情で口を開いた。
「おい……まさかと思うけどさっきのはお前のせいじゃねーだろうな?」
「何のこと?」
隆弘の問いに、蓮也は怪訝そうに眉をひそめる。
「さっき、神殿に大きな蛇の化け物が現れたの。ルクスさんによると、あれは深淵の民の悪魔だったらしいの」
真紀にそう言われて、蓮也はますます怪訝顔になる。
「それで、なぜ僕が疑われるわけ?」
「とぼけんじゃねーぞ。お前、あいつらんところにずっといたんだろ。お前があいつらと手を組んで、あの蛇をけしかけたんじゃねーのかよ!」
隆弘は声を荒げるが、蓮也は面倒くさそうに首を振った。
「僕がそんなことするわけないでしょ」
「じゃあお前は今までどこで何してたんだよ。全部終わってから来るなんて怪しすぎんだろ」
「僕は買い物の後、宿に荷物を置きに帰っただけだよ。それからすぐこっちに来たってのに、どうして僕が疑われなきゃいけないわけ?」
「その割には随分時間がかかってんじゃねーか」
隆弘は蓮也に詰め寄り、蓮也もムッとして隆弘を睨み返した。
「言いがかりはやめてほしいな。そんなもの、状況証拠によるただのこじつけだ。僕が怪しいというのなら証拠を出してよ」
蓮也が挑戦的に言うと、隆弘は悔しそうな表情を浮かべる。そんな彼を見かねて、真紀は慌てて口を挟んだ。
「二人ともやめてよ。今は言い争ってる場合じゃないでしょ」
「姉さん……。可愛い弟が疑われてるのに悔しくないの?」
と、蓮也。
「こんな奴信用できるわけねーだろ」
と、隆弘。
そして二人はまた睨み合いを始める。隆弘は忌々し気に、蓮也は冷たい視線で。真紀は頭を抱えたくなった。
「あんた達、いい加減にしなさいよ!」
莉愛が苛立ったように声を荒らげる。
「莉愛だってこいつを怪しいと思うだろ?」
「だから落ち着きなさいって。瀬川さんの弟が、何の為にあんな化け物をけしかけたって言うのよ」
「樋口先輩の言う通り。僕がそんなおっかないことをして、どんなメリットがあるんです?」
勝ち誇ったように蓮也が笑う。その態度にますます煽られたのか、隆弘は眉間にしわを寄せる。
「てめぇ……マジで殴り倒すぞ」
「はは、やってみなよ」
蓮也は挑発するように口元を歪めるが、そこへルクスが割って入った。
「二人ともやめなさい。今は喧嘩をしている場合じゃないだろう」
「けど、こいつが」
なおも食い下がろうとする隆弘に、ルクスは厳しい口調で告げる。
「いい加減にしろと言っているんだ。キミも弟くんも、頭を冷やしなさい」
ルクスの強い言葉に、ようやくのことで二人は大人しくなった。
蓮也はわざとらしく溜息を吐いて、うんざりした顔をしている。隆弘はそんな彼を睨みつけていたが、真紀が間に入ったので舌打ちをして押し黙った。
「ねえ香坂くん、蓮也は敵じゃない。これは間違いないよ」
「そいつが連中に洗脳されてないとも限らないだろ」
「洗脳だなんて……そんな言い方しないでよ」
「もういいよ。姉さんが信じてくれるだけで充分」
「蓮也……」
いつもと変わらない笑顔で蓮也は言う。しかし真紀の中に、ほんの少しだけ不安がよぎる。
蓮也の胸には黒い宝石が埋め込まれている。それがある限り、彼は深淵の民に支配され続けたままだ。
(あの宝石にどんな力があるのかはわからないけど、もしもあれに蓮也を洗脳するような力が秘められていたとしたら)
それを考えると不安でたまらなくなるが、麻由は首を振ってその考えを振り払った。こんならちのない仮説に怯えるなんて、どうかしている。
(蓮也は絶対に私達を裏切るようなことはしない)
真紀は自分にそう言い聞かせると、改めて蓮也の顔を見つめた。
「……あーあ。もういいや」
隆弘は露骨な舌打ちと共に呟くと、町の方へ歩いて行った。
莉愛はやれやれといった風に隆弘の後を追いかける。真紀達もまた、宿屋へと戻る為に再び歩き出すのであった。
――結局その日はそれ以上何かが起きることもなく、無事に夕食を迎えることができた。
「恵子、体はもう大丈夫?」
「うん。すっかり元気」
そう言って恵子は明る微笑んだ。確かに顔色も良くなっているし、もう心配する必要はなさそうだ。
「うんうん恵子ちゃんが無事で本当によかった」
蓮也は満足げに頷いており、隆弘は不機嫌そうに彼を睨んでいた。
「てめーなに藤木に馴れ馴れしくしてんだよ」
「僕は誰かさんと違って、元の世界にいた頃から恵子ちゃんと仲が良かったからね。別に馴れ馴れしくなんてしてないし、いちいち突っかかってくるなんてみっともないですよ」
隆弘が睨み付けると、蓮也は涼しい顔で答える。明らかに、彼を煽るような言い方である。
「この野郎」
連夜の態度に隆弘はますます不機嫌になるが、咄嗟に恵子が静止する。
「ねえ香坂くん、蓮也くんは仲間なんだから仲良くしようよ」
恵子が困ったように言うと、莉愛が呆れ顔で答えた。
「藤木さんは口出ししないで。あんたがあいつを庇うと、余計に隆弘が不機嫌になるだけだから」
「えっと……でも、ずっとこの調子じゃ良くないよ」
「いいから、隆弘のことはしばらくほっといて」
莉愛は恵子の言葉をさえぎって言い、恵子もそれ以上は何も言わなかった。
その後は各々、自分の食事を済ませて部屋へ戻ることになった。
真紀は蓮也の腕を引っ張って、人気のない所へと連れて行く。
「蓮也……あんた何考えてるのよ」
「えー? 僕何か変なこしたかなぁ」
「香坂くんを煽るような言い方しないで。彼と喧嘩でもしたいの?」
「だってあの人、第一印象が最悪だったからね。初めて会った時、樋口先輩と一緒に姉さんや恵子ちゃんに意地悪な態度を取っていたでしょ」
「それは、そうだけど……でも、だからと言って挑発したりしないでよ。樋口さんも香坂くんも、今は仲間なんだから」
「わかってるってば。僕だってこの旅は楽しい方がいいと思ってるよ。ただ、あの人の方からいちいち突っかかって来てるだけ」
「もう……あんたは賢いんだから、もっとうまく立ち回れるはずでしょ」
「はいはい、努力するね」
蓮也は悪びれる様子も見せずにそう言った。
「にしても、ただあの場にいなかっただけで疑われるって、理不尽だよね」
「……香坂くんは恵子のこととなると、ムキになっちゃから」
「だったらなおさら、先輩はあんな意地悪な態度を取るべきじゃなかったのにねぇ」
そう言うと蓮也は苦笑する。
真紀もその意見には同意だが、しかし隆弘はどうも素直になれない性格らしいので、あの世界にいた当時はああするしかなかったのかもしれない。
とは言えこちらの世界へ来てから彼が恵子に優しく接していることに関しては、真紀も驚きを覚えていたが。
「それより蓮也、あれは本当にあんたの仕業じゃないんだよね」
「他の人ならともかく、姉さんに疑われるのは傷つくな」
「ごめん」
「いいよ。状況的に僕が怪しいことには変わりないし」
「ありがとう。香坂くんに疑われて、あんたもショックだったろうに」
「気にしないでいいよ」
蓮也はちょっとだけ笑みを浮かべながら、自分の胸に手を当てた。
そこに埋め込まれている黒い宝石は、今も蓮也を支配している。
「それ、苦しくないの?」
「今のところはね。でも、こんな物がくっついていていい気分はしないけどさ」
蓮也はそう言って苦笑する。あの宝石は彼と一体化して、外すことができないらしい。
だけどなんとかしてやりたい。せめて気休め程度でもできることがあればいいのだが……そこまで考えて、真紀はふと思いついた。
「そうだ。ルクスさんに相談してみようよ」
「え?」
「あの人、魔法について詳しいでしょ。それに深淵の民についても、何か知ってるかもしれないじゃない。だから」
「ダメ!」
蓮也は首を横に振った。
珍しく強い口調で言われ、真紀は目を丸くする。
「蓮也?」
「お願いだから……このことは誰にも言わないで。特に、ルクスさんには」
深刻な表情で蓮也は言う。どうして彼がそんなに切羽詰まった様子なのかがわからず、真紀は困惑してしまった。
「でもあの人に相談すれば、何かいい考えが浮かぶかもしれないよ?」
「いや、絶対にダメ!」
蓮也は顔を真っ青にして、首を横に振るばかりだ。彼は胸の宝石をおさえて、何かに怯えるような目をしていた。
「蓮也……?」
真紀が心配そうに声をかけると、彼はハッとしたように顔を上げる。そしていつものような笑顔を浮かべた。
「僕は大丈夫だよ。それより今日のところはさっさと休もうよ」
「でも」
「てゆーか今すっごい眠いんだよね。ほら、もう遅いし」
「蓮也ってば」
「おやすみ姉さん。また明日ね」
蓮也は手をひらひらと振って、自分の部屋へ行ってしまった。残された真紀は、釈然としない思いでその後姿を見送ったのだった。
(蓮也ってば、どうしちゃったのよ)
彼はやっぱり、何かがおかしい。
でも、それが何なのかがわからない。
真紀は仕方なく自分の部屋へ戻り、ベッドに潜り込んで目を閉じる。
けれど今日あったことや、蓮也の様子が気になってしまい、その日はなかなか眠ることができなかった。




