【5】千年前の常識では、結婚前提は婚約者らしい〜大天使、聖なる務め確定です〜
そして、一週間後。
セレニス州の空は、穏やかな青に澄み渡っていた。
何事も起きていない――
かのように。
その静けさを破るように、
ルチアーノの泊まるヴィラへ、
地獄から、お付きの一人が現れた。
無言で、差し出されたのは、一通の封筒。
深紅のシルクの布に、丁寧に包まれ、
その中央には――
血のように濃い色をした蝋印が、
重々しく、押されていた。
ルチアーノは、それを一目見るなり、
パパッと慌てて、封筒を再び布で包み直す。
次の瞬間。
「いだだだだっ……!
痛いであります!
ロクシー先生!!」
ロクシーが、容赦なく、
ルチアーノの耳を引っ張っていた。
「だったら、さっさと、開けろ!」
「で、でも〜……!
もし、
この蝋印に魔術が施されていたら!?
俺様は、強制的に結婚させられてしまいます……!
顔も知らない相手と……!」
「だーかーらー!」
ロクシーは、ペーパーナイフをテーブルに置いた。
カツン。
乾いた音に、
ルチアーノは椅子からぴょんと跳ねる。
「あのね……。
私たちは、なぜ、セレニス州にいるんだっけ?」
ロクシーは、指を一本、立てる。
「ここは、魔術無効。
あんたのお父さんが、どんな細工をしていようが、発動しないの。
……理解した?」
そして、にっこり笑ったまま、告げる。
「5秒以内に開けないなら、
この計画は、ここで終了。
残金は返す。
はい、いくよ――」
「ちょ、ちょっと待っ……!」
「5」
「分かりました〜!!」
ルチアーノは、情けない声を上げ、
慌ててペーパーナイフを取り、封を切った。
中に入っていたのは、
古式ゆかしい便箋が一枚――
それだけだった。
そこには、簡潔な文字で、こう記されていた。
『我が最愛の息子、ルチアーノよ。
そなたの親友と、
その婚約者に会えるのならば、
セレニス州に、
再び行くことも、
やぶさかではない。』
沈黙。
「……婚約者?」
ルチアーノとロクシーの声が、同時に重なった。
「……婚約者!?
私が……!?
アンジュさまの……!?」
思わず息を呑み、
ルシアンは天を仰いだ。
「……なんと、恐れ多い……!!」
――その一時間後。
ルチアーノのヴィラのメインリビングには、
普段の冷静沈着さも、大天使としての威厳も、
すでに、影も形もなかった……。
真っ赤な顔のまま、
頭を抱え、ソファに沈み込むルシアンがいる。
ルチアーノは、脂汗を浮かべつつも、
いつもの調子を装った笑顔で声をかけた。
「ズッ友❤️
そんなに緊張すんなって!
ルシアンなら、完璧に演じられるって!
なっ!」
その軽い声とは裏腹に、
指先は、落ち着きなく動いている。
「……いや、無理だ……」
地を這うような、低い声。
ルシアンの言葉に、
ルチアーノは慌てて背中を揺さぶった。
「ルシアン! 頼むって〜!
もう、ロクシー先生は、その気なんだよ!
脚本作りに、入っちゃってるんだって!」
一瞬、言葉を切り、
そして必死に続ける。
「ここで、ルシアンが降りたら……
ロクシー先生も、降りるんだよ!
あの人はさ、
一度降りたら、絶対に引き返さない!
そうなったら……」
声が、ほんの少しだけ小さくなる。
「……俺様は、強制的に、結婚確定……!」
そこまで、一気に言ったあと、
ルチアーノは、ぽつりと付け足した。
「俺様はさ……
ルシアンみたいな、初恋を、してみたいんだ……」
その言葉に、
ルシアンが、ゆっくりと視線を向ける。
「……ルチアーノ……」
ルチアーノは、目を伏せ、
手に持った特大クラッカーの紐を、
もじもじと弄っていた。
ルシアンは、小さく息を吐く。
「……アンジュさまは、何と?」
その問いに――
ルチアーノは、がばっと顔を上げた。
さっきまでの沈んだ表情は消え、
妙に輝いた目で、叫ぶ。
「これを見ろーーー!!」
勢いよく声を張り上げながら、
テレビのリモコンを、叩きつけるように押した。
そこに、映し出されたのは、
アンジュの顔のアップだった。
ルシアンは、反射的に立ち上がり、
テレビの前に跪く。
画面の中のアンジュは、
チョコレートラテを一口飲むと、
少し考えるように首を傾げ、
すぐに、晴れやかな声で言い切った。
「婚約者?
なるほど!
悪魔の王だっただけはあるな!
“結婚を前提とした恋人”であれば、
婚約者で、間違いは無い!
やろう!」
その清らかな笑顔は、まさに、大天使ガブリエル。
どこか幼さを残した神々しい美しさに、
ルシアンは一瞬、言葉を失い――
思わず、見惚れていた。
そして、その背後。
ルチアーノが、音もなく、
ルシアンの後ろに回り込み、
肩越しに、まるで確認するように、低く囁く。
「……ルシアン。
やってくれるよな?」
ルシアンは、ゆっくりと胸に手を当てる。
祈るように目を伏せ、
次の瞬間、
覚悟を宿した瞳で、力強く頷いた。
「これは……聖なる務めだ。
私は――
やり遂げよう」
セレニス・ベイのお洒落なカフェ。
ロクシーは、地ビールに口を付けると、
グラスを軽く傾け――
口元だけで、ニヤリと笑った。
その目は、24歳の女子のものではない。
盤面を確認し終えた、軍師の眼だった。
「ルチアーノ……
あんた、やれば出来るじゃん。
そのタイミングで、
よくアンジュちゃんのビデオを流したわね」
まずは、第一段階、成功。
――そんな声なき呟きが、
確かに、その表情に浮かんでいた。
ルチアーノは、背筋を正し、
弟子のように深く頭を下げる。
そして、赤ワインのグラスを掲げ、
誇らしげに言った。
「ありがたきお言葉……!
ロクシー先生の、脚本と演出、
毎回、本当にお見事であります!」
「でもさ」
ロクシーは、グラスを置き、肩をすくめる。
「あんたの本音が漏れたから、
ルシアンの心が、開いたんだと思うよ?
やっぱり、そこは、あんたのお手柄」
「いえいえ!」
ルチアーノは、照れたように笑い、即座に明言した。
「ルシアンが迷ったら、
“心を開いた瞬間に、あのビデオを流せ”と、
教えて下さったのは、ロクシー先生です!
ラブ❤️」
二人は、顔を見合わせ、ぐふふ、と笑い合う。
だが――
二人は、知らない。
そのやり取りの一部始終を、
イレイナが、
水晶玉越しに、
静かに見つめていることを。
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