【4】泳いで戻ったら、結婚前提でした。〜セレニス州・深夜二時〜
それから四時間後――。
ルシアンは、ずぶ濡れの柄on柄のスーツ姿のまま、
普段と変わらぬ無表情でヴィラのリビングへ戻って来た。
全身から滴る水が、床に静かに落ちていく。
アンジュの姿が見えず、ルシアンはハッとして声を上げる。
「アンジュさまは!?」
焦りの滲む声に、ロクシーが淡々と答えた。
「今、何時だと思ってんの?
空を見て。暗いでしょ?
アンジュちゃんはディナー前のシャワーよ。
ルシアンも隣のヴィラに行って、シャワー浴びて着替えれば?」
「隣、とは?」
一瞬、空気が止まる。
ロクシーはパソコンから顔を上げ、
呆れを含んだ視線で、ルシアンを真っ直ぐに見据えた。
「私とルチアーノが一緒に泊まると思う?
ルシアンも、ルチアーノのところに行きなよ。
……まさか、女子二人の部屋に居続ける気?」
「……失礼!」
そう言い残し、ルシアンは足早に玄関へと向かった。
隣のヴィラ。
メインリビングの明かりもついていない中、
ルチアーノはソファに沈み込み、しょんぼりと座っていた。
ルシアンが静かにスイッチを入れると、
眩い光がリビングを満たす。
ずぶ濡れのルシアンをちらりと見て、
ルチアーノはぽつりと呟いた。
「……ルシアン……
俺様たちのズッ友の証を、ロクシー先生に駄目だと言われた」
ルシアンは前髪から水滴を落としながら、淡々と尋ねる。
「ズッ友の証とは何だ?」
「んーもうー!!」
ルチアーノはソファの上で、ばたばたと身をよじらせた。
「ルシアンが初めてお父様に会う時……
ルシアンと俺様は、お揃いのスーツにしたい!って
ロクシー先生に訴えたんだ……!
だってズッ友って、そういうもんだろ!?
人生の節目でお揃いになるロマン……!」
一息ついて、肩を落とす。
「それなのに……駄目だってさ……。
脚本家って、時に非情だよな……。
ロマンさえ、切り捨てるのさ……」
――意味が分からない。
ルシアンは何も言わず、シャワールームへと向かった。
そうして――
「デザートよ。今すぐ、私たちのヴィラに集合」
ロクシーから届いた簡潔なスマホメッセージを受け取り、
ルシアンとルチアーノは隣のヴィラへと向かった。
二人がメインリビングに入ると、
テーブルの上には色とりどりのスイーツがずらりと並び、
その向こうのソファにはアンジュが座っていた。
アンジュは二人の姿を認めると、にっこりと笑う。
「二人とも、夕食は済ませたか?
ルシアンは随分と泳いでいたから、お腹が空いたであろう?」
「済ませたよん♪
そしてデザートは別腹❤️」
ルチアーノがそう言った瞬間――
「……うるさい」
ロクシーの肘鉄が、容赦なくルチアーノの脇腹に突き刺さった。
「ぐふっ……!」
そのままルチアーノは床にうずくまり、
アンジュは「???」と首を傾げる。
ルシアンは一言だけ、静かに答えた。
「ええ」
するとアンジュはミルクティーを一口飲み、
カップをソーサーに置くと、胸を張って高らかに宣言した。
「ルシアンよ!
私はお前の“結婚を前提とした恋人役”をやるぞ!」
その瞬間――
空気が、ぴたりと止まった。
「えぇ!?」
ルチアーノの叫びが響く一方で、
ルシアンは文字通り、ビシッと固まった。
しかしアンジュは二人の様子など気にも留めず、続ける。
「ロクシーから聞いたのだ。
ルチアーノの父親とは、アフタヌーンティーの時間に会うのであろう?
その間、私はルシアンの隣でデザートを食べていれば良いと」
そして、迷いのない声音で言い切った。
「ならば、やろう!」
ルチアーノが慌てて口を開こうとした、その瞬間――
ロクシーの鋭い視線が、一直線に突き刺さる。
「…………」
ルチアーノは背筋を正し、
反射的に深々と頭を下げた。
「……ありがとう!アンジュちゃん!」
一方のルシアンは――
まるで思考を完全に停止したかのように。
石像のように、
ただその場に立ち尽くしていた。
深夜二時――
ロクシーは自分のベッドルームから、タブレット越しにルチアーノとルシアンを相手にビデオ通話をしていた。
「ロクシー先生!
アンジュちゃんに何と言って承諾を得たのか、お聞かせ下さいッ!」
ルチアーノが勢いよく頭を下げる。
一拍遅れて、ルシアンも静かに頭を下げた。
ロクシーは余裕たっぷりの笑みを浮かべる。
「夕食の時に、さり気な〜く聞いただけだよ」
ルチアーノが息を呑む。
ロクシーの瞳が、いたずらっぽく光った。
「アンジュちゃんさ、語学堪能でしょ?
私がイレイナに叩き込んでもらった言語、全部できるの。
……っていうか、それ以上」
ルチアーノがごくりと喉を鳴らす。
ルシアンの無表情が、ほんのわずかに揺れた。
「食事も会話のマナーも完璧。
上流階級の振る舞いも、何も教えなくていいレベル。
だから、こう言ったの」
「な、何をでございますか……!?」
ルチアーノの声が裏返る。
ロクシーは指を一本立てた。
「アンジュちゃんはね、ルシアンの隣でデザートを食べて、
気が向いたらルチアーノのお父さんに微笑んで、
相槌を打ってあげるだけでいいって」
一拍。
「それだけで“結婚を前提とした恋人役”としては完璧だから、って」
「ロクシー先生……天才ですか!?」
目を潤ませて感動するルチアーノに向かって、
ロクシーは焦らすように人差し指を左右に振った。
「それだけなわけ、ないでしょ」
含み笑い。
「各国の一流スイーツ、食べ放題だよって言ったの!」
「ロクシー先生〜!!
やっぱり天才でありますッ!!」
ルチアーノは特大クラッカーを鳴らし、
どこから取り出したのか、薔薇の花びらを盛大に散らした。
ロクシーは満足そうに頷く。
その画面の端で――
ルシアンは一言も発さず、
膝の上で固く組んだ指先を見つめたまま、
深く、静かに項垂れていた。
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