五年後のこと
「どういうことですの、フィル」
社交シーズンが終わり、そろそろカントリーハウスへ移動しようかという日の午前。
わたしはフィルの執務室の扉をノックもせずに開け放ち、大きなマホガニーの机越しに、目を吊り上げて詰め寄っていた。
「……どうしたんだ、アイリーン」
突然の出来事にフィルはポカンとしている。
「どうしたじゃありませんわ、これですわよ!」
わたしは眼前に書類を突きつけた。途端にフィルはしまったという顔になり、気まずそうに顔を逸らす。
「それは、その……」
言い逃れができない証拠の品を見せたというのに、フィルはどうにか誤魔化そうとしているのか、もごもごと何かを言っている。
情けないですわ。以前はこんな態度を取る人ではなくて、もっとしっかりした人でしたのに。ああ、結婚して五年。フィルは変わってしまいましたわ。
「ショーン&アディントン商会の領収書ですわよね?」
どう見ても、そうとしか読めないものをわざわざ口に出して確認すると、フィルは観念したのか、顔を正面に戻してぽつりと呟いた。
「そうだな」
目を合わせようとしないところは往生際が悪いですわ。
「とてもお高い買い物をなさったのね?」
フィルはぐっと言葉に詰まった。
このショーン&アディントン商会というお店、女性のドレス専門店なのですわ。それも夜会や外出用の高級品ばかりを扱っているお店です。
でもこれはわたしのものを買ったわけではありません。わたしのものでしたら、いくら高くても何着も大量に買わない限りは、それほど家財を圧迫しませんし、特に問題はありませんもの。
ですから問題は、わたし以外の人間に買ったということですわ。
「もうやめてって言いましたわよね?」
更にぐいっと詰め寄ると、フィルはちょっと顔色が悪くなる。
「そうなんだが……いや、すまない」
言いにくそうに謝るフィルに力が抜けて体を引いた。
「酷いですわ」
額に手を置いて嘆く。
「何度もやめてと言いましたのに。わたしの言葉などもう耳に入らなくなってしまいましたのね。こんな日が来るなんて思いもしませんでしたわ」
「いや、そんなことは……」
「最近はわたしのドレスなんて買ってくださらないというのに。それなのにシャーリーンには何でも買い与えますのね。そうですわね。わたしよりもシャーリーンのほうが余程可愛らしいですものね」
「ま、待て、アイリーン。余程なんてことはない。そうではなくてだな……」
フィルは焦ってどうにかわたしを宥めようというのか、立ち上がって机を回り込む。
「ちょっと落ち着け、アイリーン。ほら、な?」
肩に手を置こうとしたフィルの手を、わたしは振り払った。
「もう、いいですわ。わたしのことが飽きたのなら、はっきりそう言えばいいのです。わたしちゃんと受け入れますわ。みっともなくすがるなんてことは致しませんから」
「…………」
キッと睨みながら告げると、フィルは何も言わなくなってしまった。
「シャーリーンに負けたわたしが悪いのですものね。女の戦いに負けたのなら、引き際は弁えるべきですわ。わかっています」
声を震わせながら言うと、部屋に沈黙が下りた。
「アイリーン」
やがて口を開いたフィルの声は冷たくて。
「……暇なのか?」
やけに冷静に尋ねられる。
「暇ですわよ!」
わたしは勢いよく即答した。
悲しげな迫真の演技は疲れたのでやめます。
「とてつもなく暇ですわ。社交シーズンだというのに、夜会にもお茶会にもほとんど出席できませんでしたし、オペラや買い物まで禁止するんですもの。当たり前でしょう!」
「禁止して当然だろうが! 妊婦が夜会やお茶会に出掛けるな。体を締め付けるドレスを着るな!」
わたしが拗ねるように怒ると、フィルに本気で怒り返されてしまいましたわ。
「だってやることがないんですのよ」
「今日は父さんたちが晩餐に来るんだから、準備でもしていればいいだろう」
「そんなの昨日のうちに、わたしがやるべきことは終わりましたわよ。後は最終チェックだけですもの。暇ですわ」
「だからって俺で遊ぶな。妊娠のせいで情緒不安定になったのかと思ってしまっただろうが!」
「まあ、変に焦っていると思ったら、そんなことを心配していましたの? 今までだって平気だったのですから、今更、情緒不安定になんてなりませんわよ」
あっけらかんと答えると、フィルは口元を引きつらせた。
「本当に大人しくしてろ!」
怒鳴られましたわ。最近ずっと優しい口調で言い聞かせられていたのと同じ言葉で。
久しぶりに本気で叱られましたわね。
反省するよりもちょっと安心してしまったので、笑いそうになる顔を隠すように横に向ける。すると扉が開いてそこに人が立っていることに気づいた。
「あ」
声を出したわたしにつられてフィルもそちらを見る。わたしが動くよりも、フィルのほうが早かった。
「シャーリーン!」
少しだけ開いた扉の隙間で、不安そうな顔をしている小さな女の子。彼女に駆け寄ると、フィルは抱き上げて、蕩けるような笑顔を向けた。
「どうしたんだ、シャーリーン」
まだ三歳のシャーリーンは瞳を潤ませて、じっとフィルを見つめる。
「おとーさま、おかーさまとけんかするの?」
舌足らずの可愛らしい声で、シャーリーンは一瞬でフィルを追い詰めた。
「えっ、いや」
「おとーさま、おかーさまおこったら、だめ」
責めるように言われてフィルは固まった。
「まあ、シャーリーン優しい子ね、ありがとう!」
わたしはフィルの腕の上にいるシャーリーンに笑顔で抱きついて頬擦りした。全く我が子ながら天使のように可愛らしいですわ。
フィルと同じ青い瞳に、髪はわたしとフィルの色を混ぜたようなブラウン。顔立ちはこの国のどこを探しても、この子よりも可愛い子なんていないんじゃないかというくらい可愛いんですのよ。さっきの冗談だって、このことに関しては冗談などではなく、母親のわたしとは比べるべくもなく、とても可愛いですわ。
まあ、わたしによく似ているとは言われますけど、それはそれでしょう。わたしはフィルにも結構似ていると思っていますけど。
フィルがシャーリーンに見えないように恨みがましい目を向けてきましたわ。
でもこの子が庇ってくれたのはわたしですからね。勝ち誇った顔をすると、フィルは悔しげに眉を寄せて、それでもシャーリーンの機嫌を取るべく、すぐに笑顔に切り替えた。
「シャーリーン、お父様とお母様は喧嘩なんてしていないよ。いつも仲良しだろう?」
「……ほんとに?」
「ああ、怒ってもいない。本当だ」
いえ、さっきのが喧嘩ではないとしても、怒られはしましたわよ、わたし。子供の前で堂々と嘘吐かないでほしいのですけど。
でもフィルの言うことなら大抵のことは信じてしまうシャーリーンは納得して、安心したように笑った。
「じゃあ、おとーさま、おかーさまにキスして?」
首を傾げておねだりされたフィルはすぐさま応じた。
「もちろん」
えー。
不満げなわたしの空気を察したのか、シャーリーンを抱っこしたままのフィルは、逃げるなよと目で訴えてくる。仕方がないですわね。
片手でシャーリーンを抱え直したフィルが、もう片方の腕をわたしの肩に回してくる。顔が近づいてきて、ちゅっと唇に触れるだけのキスを受けた。
「ねぇ、シャーリーンも、シャーリーンも!」
いつものように、すぐさまシャーリーンが自分にもキスをしてとねだってくる。わたしもフィルも思わず笑みを溢した。
シャーリーンの顔を挟むように、両方の頬に同時にキスを贈る。きゃあっと嬉しそうな歓声が上がった。この子はこうやってわたしとフィルに同時にキスをしてもらうのが大好きなのよ。
もうもう、可愛すぎますわ。
わたしはフィルごとシャーリーンに抱きついた。
両親にサンドされたことが楽しいのか、シャーリーンが声を出して笑う。
ああ、この少し高い体温。癒されますわ。
しばらくこの温もりに浸っていましたけど、どうしても気になるものが目に入ってしまう。
わたしはシャーリーンのドレスをじっと見たあと、フィルに胡乱な目を向けた。
普段の様子とはかけ離れた、だらしなく頬を緩ませた表情でシャーリーンの額にキスをしていたフィルが、それに気づいて視線をさ迷わせる。
この豪華で繊細な刺繍やレースが付いた、初めて見るドレス。間違いなくあの領収書のドレスですわね。
あのお店は大人のオーダーメイドドレス専門店なのですわ。それなのに子供用のドレスをわざわざ特別に作らせるなんて。
わたしもシャーリーンには甘いという自覚がありますけど、それにしたってこれはやり過ぎですわよ。シャーリーンは社交のためのドレスが必要な大人ではないですし、いくら貴族の子供といえども、子供に贅沢をさせるのはよくないと言われていますもの。わたしもそう思いますし、フィルだってそうやって育てられてきたはずですのに。
フィルが弟たちに接する態度を見ていれば、優しくも厳しい父親になると思っていましたけど、シャーリーンが女の子だからなのか、これは少し予想外でしたわ。
いえ、フィルが何でもかんでも甘いというわけではないですわよ。シャーリーンが悪いことをすればちゃんと叱るのですけど、シャーリーンが可愛すぎて、叱るという行為が辛いのか、その後に毎回何かしら買い与えてしまうのですわ。
それって意味がなくないかしら。
ちょっと情けないですわ。
「さあ、シャーリーン。お父様はお仕事をしていらっしゃいますからね。お母様とシャーリーンとエリックで一緒に遊びましょうか」
わたしはフィルの腕からシャーリーンを奪い取って言った。
「はぁい」
シャーリーンが元気よく返事をすると、フィルは悲しそうに眉尻を下げる。
でも知ったことではありませんわよ。一人でちゃんと仕事していてください。
「エリックおっきしてるかなぁ?」
「そうね、そろそろ起きる頃ですわね」
わたしはフィルに背を向けて、シャーリーンと仲良くおしゃべりしながら執務室を出た。
フィルが窮地に陥ったのは、その日の夜のこと。
今日はお義父様たちが我が家に来て、晩餐を召し上がられる日なのですが、シャーリーンがあのドレスを脱ごうとしないのですわ。
フィルやメイドたちに可愛い可愛いと言われたせいで、かなり気に入ってしまったみたいです。
「いーやっ」
もう既にお義父様たちも到着なさっているというのに、往生際悪くフィルは着替えさせようとする。
「でも食事の前はいつもお着替えするだろう?」
「いやー。このドレスがいーの!」
シャーリーンはいやいやと首を振る。こうなるとシャーリーンは無理に言うことを聞かせようとした場合、泣き出してしまう。フィルはそれがわかっているので、観念したみたいですわ。
「そんなに気に入ったのか? そのドレス」
「うん」
大きく頷くシャーリーンに、フィルは苦笑した。
「そうか。なら仕方がないな」
自分がプレゼントしたものが、そんなに気に入られたのなら諦めもつく、という顔ですわね。
そうですわね。諦めて存分にお義父様に怒られてください。
一目で贅沢品だとわかるドレスですから、厳しいお義父様が黙って見過ごすわけがありませんもの。でも自業自得というものですわよ。
「うん、あのねぇ」
わがままが通って笑顔になったシャーリーンが、屈んでいるフィルの耳に、手を当てて口を近づける内緒話のポーズをとる。
「おじーさまにかわいいっていってもらうの!」
はにかみながら言ったシャーリーンは、全く声を潜められていないことも相まって、胸を撃ち抜かれたかと思うくらい殺人的に愛らしかった。
そう、可愛いシャーリーンの声はむしろ大きくて、部屋中に聞こえていた。つまり今まさに、この晩餐室の控えの部屋に入って来ていたお義父様にだって、もちろん聞こえていたはずです。その証拠にお義父様は入り口で固まっていらっしゃる。
シャーリーンはすぐにお義父様に気がついた。
「おじーさま!」
笑顔で駆け寄ったシャーリーンに、お義父様は条件反射のように屈み込んだ。
昔は子供相手だろうと立ったまま話をする方でしたけど、フィルがシャーリーンが恐がるから目線を合わせてやってほしいと、それとなくお願いすると、あっさりとそれを受け入れてくださったのですわ。
そのお義父様側の歩み寄りによるものなのか、シャーリーンの元々の性質なのかはわかりませんが、シャーリーンはほとんどお義父様を恐がりません。
今だってきっと期待のこもったキラキラとした眼差しを向けていますわ。後ろ姿でわたしには見えませんけど、そうに違いありません。
お義父様はさっきから表情が一切動いていませんわね。でも多分動揺していらっしゃいますわ。がんばってください。可愛いと言うだけですわよ。言ってもらえないとシャーリーンはきっとガッカリして、今日はお義父様とあまりお話しようとしなくなってしまいますわ。
もしや何も言わないのかと、わたしとフィルが心配する頃になって、お義父様はポツリと呟きましたわ。
「可愛いな……」
これが大人の淑女であったなら、あまりの素っ気なさに気落ちしていそうなくらい、飾り気のなさすぎる短い言葉。
でもシャーリーンにはそれで充分だったみたいですわ。
「えへへー」
嬉しそうに笑ってお義父様に向かって両手を伸ばす。お義父様は自然にシャーリーンを抱き上げた。
後ろにいたお義母様やジェームスやクリフが、わたしとフィルそっちのけで、そんなシャーリーンに次々に話しかけている。
これはもしかしてフィルへのお説教はなしなのかしら。
実はお義父様もシャーリーンには相当甘いのですわ。この正式な晩餐をするための晩餐室にだって、シャーリーンはまだ入っていい年齢ではないのですけど、一緒に食事をしたいと言って泣くシャーリーンを見たお義父様が、入って構わないと仰ったのです。
さすがにまだ一歳のエリックは別室ですけど、三歳でもかなり早いですわよ。でもお義父様がそう仰ったなら、誰も文句は言えませんわ。言いそうな人もいませんけどね。
お義母様もジェームスもクリフもシャーリーンを囲って、隙あらば抱っこしようと目論んでいる様子。
本当にシャーリーンは天使のように可愛いらしくて、誰だって甘やかしたいと思ってしまうような子ですわ。
でもね、シャーリーン。
お母様はあなたの将来がいろんな意味で、ちょっとだけ心配ですわよ。
晩餐会が終わり、お義父様たちがお帰りになった後。
「アイリーン、居間に行ってお茶でも飲まないか」
珍しくフィルがそんなことを言う。
「ええ、いいですわよ」
シャーリーンは既に疲れて眠ってしまっている。こんな時間ですけどたまには二人でゆっくりお茶をするというのもいいですわね。
メイドにブランデー入りの紅茶を頼んで、居間まで持ってきてもらったあとは、もう全員休むように伝えて下がってもらう。
「アイリーン」
ソファーに座るフィルに手招きされたので近づくと、手を引っ張って膝の上に座らされた。
「重いですわよ」
お腹が膨らんできているので体重はそれなりにあります。持ち上げているわけではないのであまりしんどくはないでしょうけど。
「重くない」
フィルはそう言ってわたしの頭を肩にもたれかけさせた。大きな手が頭を撫でる。同時に別の感触もして、体に馴染んだそれがフィルの唇だとすぐにわかった。
何度も髪にキスをされてくすぐったい。
「フィル?」
顔を上げると今度は額にキスをされた。頬や目尻にもされて、これではシャーリーンに対してしているみたいですわ。
「もう、何ですの?」
くすぐったくて思わず笑いながら尋ねると、フィルは手でわたしの顎を持ち上げて、仕上げのように唇を合わせた。優しくて長い触れ合いは、ただ愛情だけを感じる。
「娘にばかりかまけていると思われないように」
唇を離したフィルがそんなことを言った。少しぼんやりしていたわたしは、言葉の意味がすぐにはわからなかった。
「……もしかして昼間の冗談を真に受けていますの?」
ムッとしながら尋ねると、フィルは当たり前のように笑った。
「シャーリーンのほうが余程可愛いらしいと思われているなんて心外だ。二人とも比べようもない程、ずっと腕の中に閉じ込めていたいくらいに可愛い」
臆面もなく言われて、わたしは頬を赤くした。
この人はそのほうが効果があるとわかっているみたいに、たまにこういうことを言う。
「ですから冗談ですわよ。娘に嫉妬なんてするわけないでしょう。それにシャーリーンのほうか断然可愛らしいに決まっていますわ」
「同じくらい、だよ。娘に嫉妬しても、何もおかしくはないだろう?」
「おかしくなくてもシャーリーンに嫉妬なんてしませんわよ」
わたしにとってはそんな馬鹿馬鹿しいこと、あり得ませんわ。
「本当に?」
それなのにフィルはしつこい。
「本当ですわよ。シャーリーンに嫉妬だなんて」
「少しも?」
もう、何なんですの。
「嫉妬、してほしいんですの?」
少し腹立たしくなったわたしは、挑発するように聞いてみる。でもそれをすぐに後悔してしまった。
「ああ、してほしい」
まるでその言葉を待っていたみたいに、フィルはすぐさま肯定した。
でも言っていることと、表情が一致していませんわ。どうしてそんなに余裕そうな顔をして微笑んでいますのよ。
「アイリーン、嫉妬してほしい」
答えなくなったわたしの顔を覗き込んで、フィルは繰り返した。頭に熱が集まりそうになりながら、目まぐるしく考える。
嫌だとか、しないとか言うのは簡単ですけど、こちらから挑発しておいてそれですと、逃げたかのようですわ。
フィルはこんなに余裕ですのに、それは悔しいですわよ。
それなら、嫉妬してあげます。
わたしはフィルの背中に両手を回して、肩に顔をうずめた。そしてしばし逡巡した後、口を開く。
「シャーリーンにばかり、構わないで……」
仕方なく、本当に仕方なく言っただけですわよ。
それなのに、どうしてこんなに子供が拗ねたみたいな、甘えているみたいな言い方になってしまっていますの。
「あっ、ちがっ……そうじゃなくて」
「違うって何が?」
慌てて否定するも、フィルは優しく耳元で囁くように聞いてくる。
何がと言われてもそんなことはわからない。わからないから答えられない。
わたしは恥ずかしくなって、腕にぎゅっと力を込めた。
フィルが同じくらいの強さで抱きしめ返してくる。
上のほうからくすくすと幸せそうな笑い声が聞こえてきて、頭の天辺にキスの感触を受け取った。
読んでくださってありがとうございます。