act.5 下されたレゾリューション。
桜の俯かせていた顔が、その声によって瞬時に上がっていた。そのとき手に伝わってきた振動から、桜の驚いている様子が窺える。
その反応に、三人組は何やら言葉を交わしながらゆっくりとこちらに近付いてきた。
「もしかして君、風見咲良?」
「……ち、違います」
「その声……やっぱり風見咲良じゃね?」
どこか試すような表情を見せながら話しかけてくる男。これは……明らかにマズい。こんなところで桜の正体がバレたりしたら、すぐさま周囲に情報が広がってしまうだろう。そして、桜はコンサート会場に強制送還だ。
……っていうかこの男、隣の俺は完全に無視ですか。
「風見咲良って……今はちょうどコンサートの真っ最中じゃないですか。彼女が風見咲良なわけないでしょ」
「あ、そうか。そういえばそうだったな。……でも、やっぱりすげぇ似てるように見えるんだけどな」
何とか誤魔化そうとそう返すが、どうやら男は納得していない様子。桜を覗き込むように顔を近づけてくる。
そんな男の行動に桜はそっと後ずさるが、そんなのお構いなしに男は更に近付いてくる。そして、
「――なぁ、ちょっとそのサングラス外してみてよ」
「えっ?」
「確かに風見咲良じゃないんだろうけど、やっぱすげぇ似てそうだからさぁ。なっ!」
「い、嫌です!」
少しも悪びれずにそんな言葉を放ってサングラスに手をかけようとする男に、その手を払いながら拒否する桜。サングラス越しでも、彼女が怯えてる様子がよくわかる。
しかし、桜がそんな行動をとるのは至極当然なことであるはずなのに、男は急に逆ギレして詰め寄ってきた。残りの二人も男を止めるわけでもなく、それどころか興味津々といった様子で状況を窺っている。
「何だよ、サングラス外すくらい別に良いじゃねぇか。何もアンタを取って食おうってわけじゃねぇんだからよ!」
「い、嫌だって言ってるでしょ!」
「いいから外せよっ!!」
最早男の行動は感情任せのものになっていた。掴みかかるような勢いで、桜のサングラスを外しにかかる。桜は必死で抵抗しようとするが、どう考えても桜に男の行動を抑えることが出来るとは思えない。
そう思うと、一気にこの男に対する怒りが込み上げてきた。そもそも、桜はこの男に何も悪いことはしていない。一方的に逆ギレしてるのは男の方だ。
だいたい何なんだこの男は。相手が誰であろうと、初対面の人に対してあまりにもなれなれしいじゃないか。
何にしても、これは本当にマズいぞ。悠長に思考してる場合なんかじゃない。とにかく、何とかして桜を助けないと!
男に対する怒りと、桜を助けたいという気持ちが一気に俺の心を満たしていた。いや、支配していたと言った方が適当かもしれない。……だからなのだろう。
――俺は男の手を思い切り払って桜を片手で抱き寄せながら、睨みを利かせていた。
「おい、さっきから何なんだよ! いきなり近寄ってきて失礼じゃないか!! いいか、コイツは風見咲良でもなければ風見咲良に似た女の子でもなくて、俺の彼女なんだよ! 目の前で人の彼女に手出そうとしてんじゃねぇよ!! ……あんなの放っといて行くぞ」
三人組は俺の突然の叫び声に驚いたのか、何も言わずに呆然としていた。その好機を逃さんとばかりに、俺は桜を腕の中に抱いたまま三人組の横を通り過ぎていく。
そしてある程度歩みを進めると、だいぶ気持ちが落ち着いてきた。
三人組だけではなく、きっと俺の腕の中にいる桜も、表情は窺えないが何の言葉も口にしないところを見るとおそらく驚いていたのだろう。
――けど、誰よりも俺自身が、自分の発言に対して驚きを隠せずにいた。
『俺の彼女なんだよ』だなんて、俺は何て血迷ったことを言ってしまったのだろう。しかも桜を腕に抱きつつだなんて……。
どうやら俺の心はだいぶ正常な反応を取り戻してきたようで、驚きの感情は一気に恥ずかしさと後悔へとシフトしていく。
本当に、何てことを言ってしまったんだ俺は!
桜が俺の彼女だって? あの人気アイドルの『風見咲良』である桜が?
……そんなこと、あるわけないじゃないか。いくら緊急事態だったとはいえ、何か他の手段はなかったのかよ。
もしかしたら、桜は驚いているだけじゃなくて、怒っているのかもしれない。桜にしてみれば勝手に彼女呼ばわりされたのだから、そう思われても何の不思議も――。
「――貴彦くん」
「な、何? ……あっ!」
いきなり話しかけてきた桜に、俺は慌てて腕を解く。そして恐る恐る、桜に視線を向けて呟く。
「わ、悪い」
「えっ、何が?」
「あ、いや……その、桜を抱き寄せたままだったから怒ってるのかと思って」
「……………」
俺の呟きに、桜はしっかりと俺に視線を向けながら無言を貫いていた。……でも、しばらくすると突然口を手で押さえながら笑い出す。
「ふふ、何を言い出すかと思ったらそんなこと?」
「そんなことって……」
「そんなことよ。もぅ、そんなことで怒るわけないじゃん。貴彦くんは私を助けてくれたんだから」
「桜……」
「怒るどころか感謝してるよ。本当にありがとう」
桜はそう言うと、何を思ったのか自ら俺の腕の中に収まってくる。何かもう……何が起こってるのかよくわからない。
「さ、桜!?」
「ん?」
「『ん?』じゃなくて、な、何でそんな……」
困惑……いや、半ば錯乱しながらそう返す。
桜はいったい何を考えているのだろうか。あまりにも……無防備すぎやしないか?
出会ってからのわずかな時間の中で、桜は俺のことを信頼してくれた……ということなのだろうか。っていうか仮にそうだとしても、それがこんな行動に繋がるか?
まるでそんな俺の錯乱ぶりを楽しんでいるかのように、桜は腕の中で俺の胸をコツンと叩きながら上目遣いに囁いた。
「――ふふ、だって私、彼女なんでしょ? ねっ、貴彦くん♪」
……俺はどうすれば良いんだよ。こんな凶悪な武器を持ち出されたら、即刻撃墜されるの目に見えてるじゃないか。
これは、下手したらさっきよりももっとヤバい状態かもしれない。――正直、さっきから心臓がバクバクしっぱなしだ。
『隣に居る』どころか、しっかりと俺の腕の中に収まっている桜。何だかもう、このままどこかに連れ去ってしまいたい衝動すら生まれそうな気がする。
この、俺の腕にすっぽり収まる可愛らしい桜を――。
――しかし、どうやらそんな妄想を膨らませている場合ではないようだ。
「おい、風見咲良が居るって本当か?」
「何か似た子がいるって言ってたぞ!」
「マジかよ! だって今コンサートやってるはずだろ?」
「それが、コンサート行ってるやつからメール来たんだけど、何でかわからないけどまだコンサート始まってないみたいなんだよ」
「マジで!! じゃあ、もしかしたら本物かもしれないわけ!?」
「あぁ、もしかしたらな!」
「よし、ちょっと探してみようぜ!」
「た、貴彦くん……」
「……これは本気でヤバそうだな」
さっきの三人組が要因なのかはわからないが、いつの間にか桜のことが広まり始めていた。あの風見咲良が近くにいるとなれば、近くに居る人たちはこぞって桜のことを探し始めるだろう。
もし見つかったりしたら、ただじゃ済まないはず。それこそ、ただのファンな俺と一緒にいるんだ。その事実が明るみになったりすれば、桜はもうアイドルとしてやっていけなくなってしまうかもしれない。
それに俺だってどれだけバッシングを受けることか。……いや、俺のことなんて二の次で良いのだけれど。
とにかく、このままここにいるのは間違いなく危険だ。それに……あの三人組が現れる前に、桜に伝えようとした言葉のこともある。
「なぁ……桜」
「何?」
「……やっぱり、桜は会場に戻った方が良いよ」
「えっ? どうして!? ……私と一緒にいるの、嫌になったの?」
「そうじゃない! ……そうじゃないんだ。まずここに居るのはどう考えても危険だし、それに、やっぱり桜はファンの人たちのためにもコンサートに出た方が良いよ」
周囲の様子を気にしながら、桜に囁くように告げる。すると桜は、俺の胸に顔を埋めながらくぐもった声で返してきた。
「やっぱり貴彦くんも、『風見咲良』のファンなんだね。私じゃなくて、清純派のアイドル『風見咲良』の……」
「いや、そういう意味じゃなくて、俺は――」
「じゃあどうしてよっ! 貴彦くんは……貴彦くんはちゃんと私のことを見てくれてると思ったのに!!」
――俺の胸に、桜の感情が直接ぶつかってくる。
声を発したことによる振動。軽く胸を叩いてくる腕の感触。そして――次第に聞こえてくる、すすり泣く声。
鎖で身体中を締め付けられているような感覚。心を鷲掴みされたかのような……痛み。
でも……でもやっぱりこのままじゃダメなんだよ……桜。
周囲の様子を確認しつつ、なるべく人通りの少なそうな小道に移動。
そして、桜を建物の壁に寄りかからせながら諭すように話す。
「ちゃんと見てる……つもりだよ。だからこそ、桜はコンサート会場に戻らないと」
「どういう……こと?」
「桜のことを、沢山のファンが待ってる」
「だからそれは、私じゃなくて『風見咲良』のことを待ってるんでしょ」
「そう、『風見咲良』のことを待ってるんだ。……『桜』のことをね。俺、思ったんだ。桜は『風見咲良』のことを別人のように思ってるみたいだけど、本当にそうなのかな? 確かに風見咲良として表に出してるものは、素の桜ではないかもしれない。……けど、ファンのことを大切に思っているのは桜も風見咲良も変わらない。それにファンの人たちだって、風見咲良の見た目やイメージだけでファンになったわけじゃないんだと思う。さっきポスター見てた人たちの話を聞いて確信したよ。桜だって聞いてただろ? もちろん、俺だってそうだしさ。……やっぱり、桜は『風見咲良』なんだよ。ファンの人たちは桜を待ってるんだ!」
「そんなこと言われても……。でも……」
「清純派のイメージを演じなきゃならないことに抵抗があるのはよくわかるよ。そのことは俺だっておかしいと思う。だからさ、いきなりとはいかなくても、少しずつ素の自分を出してみたらいいんじゃないかな? 俺なんかが口出せることじゃないだろうけど、絶対その方が良いと思うよ」
「貴彦くんは嫌じゃ……ないの? 清純派じゃない風見咲良になっちゃうことが」
「そんなことない! だって俺、清純派な風見咲良より今の桜のこと凄く可愛いと思うし、さっきのことじゃないけど本当に彼女だったらどんなに良いかと……あ、いや、それは関係なくて、あの――」
桜を何とか説得しなければという想いで一杯だったからか、俺は必要のないことまで口走ってしまっていた。
けして嘘なんかではない。確かに俺は『こんな元気で可愛い桜みたいな子が彼女だったらどれほど良いか』と思っている。
でも、それは俺が頭の中で勝手に妄想していることなわけで。それこそ、桜にコンサート会場へ戻るよう説得するために必要な情報などでは全く以ってない。
そんなこと、少し考えればすぐにわかることだというのに……俺は何バカなことを口走ってるのだろう。下手したら説得するどころか、桜を混乱させてしまうかもしれない。
そう思い、俺はすぐさま話を本筋に戻そうとしていたが――。
「……ふふ」
「……ん?」
「ふふ、あはははは!」
「さ、桜?」
何故か桜は盛大に笑いだしていた。サングラスを外し、浮かんだ涙を手で拭いながら。
桜の顔が晒されているのだから、すぐにでも周囲の様子を確認するべきなのだろうが、今の俺にそんな冷静な判断が出来る余裕はない。
桜を笑わせるようなこと……何か言っただろうか。――と、
「貴彦くん、そんな風に思ってくれてたんだ」
「あ、いや、その……」
「そっか、貴彦くんは今の私の方が好みなんだぁ」
「いや、だからそれは……って、そんなことより本当にコンサート会場に戻らないと――」
「――うん、そうだね。私のことをちゃんと見てくれてる貴彦くんが言うんだもん。……きっと、それがベストな選択なんだよね」
桜はそんなくすぐったくなるような言葉を放つと、俺の手をしっかりと握って穏やかな笑みを浮かべた。
そしてサングラスをかけなおすと、完全に沈んだ雰囲気を振り払った桜が花開く。
「さぁて、それじゃあコンサート会場までのエスコートよろしくねっ♪」
その変わり身の早さに、俺は本気で桜がずっと演技をしていたのではないかと思ってしまった。それくらい、ついさっきまでとは明らかに違った桜がそこにいる。
俺の言葉が、桜の気持ちを良い方向に持っていくことに繋がったのか。……正直、そこがよくわからない。
……でも、何にしても桜がコンサート会場に戻る気になってくれたのだから、この好機を逃すわけにはいかないだろう。
桜の言葉を頭の中で反芻して何だか複雑な気分になりながらも、しっかりと一歩を踏み出す。
――夢の時間の終わりまでは、あとわずかだ。