act.2 狂いさくらティアドロップ。
目の前の光景――いや、状態に、俺は違和感を感じずにはいられなかった。
駅からひたすら走ってようやく辿り着いたコンサート会場の前。現在時刻は午後六時十分。開演時間は午後五時半だから、当然もうコンサートは始まっているはず。……なのに、何故かコンサート会場から歓声なりBGMなりが聞こえてこないんだ。
ただ、けして歓声ではないが何やらざわついているような声は聞こえてくる。少なくとも、会場内に観客は存在しているようだ。
じゃあ、いったいどうしてコンサートが始まっている気配がしないのだろう。……もしかして、何らかの要因で開演時間が遅れているのだろうか?
もしそうならば、すでに会場入りしている観客には悪いが、俺にとっては好都合なことだ。予定時刻を大幅に遅刻したにも関わらず、最初からコンサートを楽しむことが出来るのだから。座席も全て指定席だから、遅く入ったからって遠くから見守らなければならなくなることもない。
……けど、よくよく考えてみれば、開演時間が遅れているのであれば場内でその旨を告げるアナウンスがあり、予定時刻も告げられるはず。そうなれば、少しは会場の外に出ている観客がいてもおかしくない気がするんだけど。
開演時間まであと僅かなのだろうか。……それとも、予定が立たない程のトラブルでも起きていて、会場にいる観客に予定時刻を告げられずにいるのだろうか。そのせいで、観客も会場内に居続けるしかない状態に陥っているのだろうか。
実際に会場入りしてみなければわからないが、どちらかと言えば後者の可能性の方が高い気がする。もし予定時刻まであと僅かなのであれば、もっと会場から歓声なり何なり聞こえてきそうなもの。それが聞こえてこないということは、やっぱり……。
「……ふぅ、考えてても仕方ないし、とにかく入るか」
ようやく呼吸が落ち着いてきたところで、そんなことを呟きながら目の前にある建物へ向かう。
建物まで真っ直ぐ続く道は桜の並木道になっていて、四月始めの今、満開ではないけど綺麗な花を見せてくれている。……葉桜に毛虫が群がる時期は悲惨な光景になりそうだけど。
そんな並木道を抜けて建物の正面入り口前まで辿り着いた俺は、肩掛けバッグの中に仕舞っておいたチケットを確認しつつ建物の中へ入ろうとしたんだけど――。
「――何考えてるんだ『さくら』はっ! おい、『さくら』のやつどこ行った!?」
「えっ? さっきの『さくら』さんだったんですか!?」
「そうだよ! で、あいつはどっちに行ったんだ!?」
「す、すいません! 中から出てこられたので、関係者の方だと思って特に気にしてませんでした……」
「ったく! ……わかった。ここの警備は良いから、お前もあいつ探すの手伝ってくれ!!」
「は、はい! 了解しました!!」
――ここからは死角になっている建物の脇の方から聞こえてきたそんな男性の叫び声に、俺の足は完全に止まっていた。言葉の内容から察するに、誰かが建物の中から飛び出していき、それを追いかけていた誰かが建物への入り口を警備していた警備員さんか誰かに行方を聞いていたのだろう。
会話していた人が誰なのかは、別にどうだって良い。……気になるのは、会話の中に出てきた『さくら』という固有名詞だ。
このコンサート会場という場所と、異様な程慌てていることが窺える男性の叫び声。そこから俺の想像の中で導き出される『さくら』という固有名詞が指す人物。それは『さくらん』――『風見咲良』だ。
普通に考えれば、自分のコンサートが行われる会場から飛び出すだなんてこと、全く以って考えにくいことだろう。ただでさえ、開演予定時刻はとっくに過ぎているというのに。
でも、『さくら』という固有名詞が指す人物は他に思い付かない。それこそ、俺の居る正面入り口前まで聞こえてきたあの男性の叫び声……よっぽど重要な人物だとしか思えないし。そうなれば、尚更さくらんである可能性が高い気がする。
ただ、仮にさくらんだったとするならば、いったい何故コンサート会場から飛び出すだなんてことを――って、そんなこと考えている場合じゃないし、いくら考えたって答えは出てこないだろう。
――無意味な思考をするよりは行動した方が早い。それに、あわよくばさくらんに会えるかもしれない。
そう思い至った俺は、建物の壁に沿って男性の叫び声が聞こえてきた方に向かって小走りに進み出す。そして、元居た地点からは死角になっている場所まで到達すると、やけに慌てている様子のスーツを着た男性とすれ違った。
その男性は一瞬俺の方を訝しげに見たが、すぐに視線を進行方向に戻して走り去っていく。……おそらくあの男性が、聞こえてきた叫び声の主だろう。あの慌てよう……ますます俺の想像の信憑性が増してくる。
建物の側面には、関係者用のものと思しき入り口が存在していた。近くには同じく関係者用であろう駐車場や、何やら雷マークの描かれた板が付いているフェンスで囲まれた建物がある。
こんな場所、本来ならば俺みたいなやつが居て良い場所ではないのかもしれないけど、幸い周囲に人影は窺えない。警備員の姿も見当たらないし、おそらくさくらんを捜し回っているのだろう。俺の考えが間違っていなければ。
――そう、もし俺の考えが間違っていなければ、さくらんはまだこの近くに居るはずだ。
元居た場所からここに辿り着くまでの間、さくらんと思しき人物とすれ違うことはなかった。それはつまり、さくらんは俺が通ってきたルートを進んではいないことを指す。以前外からぐるっと外周を回ってみたことがあるが、基本的にこのコンサート会場となっている建物の周りはコンクリートの壁で囲まれているから、まず間違いないだろう。
では反対方向からぐるっと回って行ったのかと言えば、その可能性も低いだろう。最初の進行方向がどちらであろうとも、結局辿り着くのは正面入り口前なのだから。そうなれば、さくらんを捜している人物と鉢合わせになってしまう可能性が高い。
――つまり、さくらんは下手に動き回ることなく、この近くで身を潜めているのではないだろうか。
そんな自分自身の推測を立証すべく、俺はパッと見身を隠せそうな場所だと思えた雷マークの建物の裏を覗き込んで――。
「だ、誰っ!?」
――思いっきりビンゴだった。
目の前に、ステージ衣装であろうベージュを基調とした花柄のチュニックに大きめの白いリボンが付いたカチューシャといった服装をしているさくらんが居た。俺だってさくらんのファンだ。流石に間違えようがない。
自分の推測に自信が無かったわけではないけど、まさかこれ程一致するだなんて。……何かもう、信じられない。
「ご、ごめん……」
……でも、さくらんを前にして俺が咄嗟に放てたのは、そんな言葉だけだった。
よもやのさくらんに、緊張してしまったというのもあるかもしれない。でも、そうだとしてもそれは本当に些細な要因だろう。
――何よりも、目の前のさくらんが目を赤くして泣いていたから。
どうしてさくらんは泣いているのだろうか。いきなり俺が現れたから? ……いや、そうではないだろう。もしそれが原因だとしたら、瞬時にこんなに目を赤くすることなんて出来るはずがない。
それじゃあ、いったい何で……。
そんなことを思いながらも、俺はただ、目の前でフェンスに寄りかかりながら不安そうな視線を向けてくるさくらんのことを見ていることしか出来ずにいた。何かに怯えているように見えるさくらん。それは……俺のせいなのだろうか。
「あなた誰なの!? あなたも、私を連れ戻そうとしてるんでしょ!!」
さくらんは少しずつ後ずさりしつつ、小さな声ながらも感情を剥き出しにして叫んできた。さくらんに何があったのかはわからない。……でも、少なくとも相当追い詰められているということは容易に想像出来る。
……今まで、こんなさくらん見たことがないから。
そう、それは俺にとって信じられないような光景だった。普段テレビを通して見ているさくらんは、柔らかな微笑みと穏やかな口調で俺たちファンのことを癒してくれるような存在だというのに。きっと、他のファンが見ても同じような印象を受けるだろう。
でも、いくら普段の印象と違おうとも、目の前に居るのがさくらんなのは確か。……ホント、いったい何があったというんだ。
「『連れ戻す』って何のことだかわからないけど、俺はさくらんのファンだよ」
「ファン……」
「そう。何か凄い叫び声が聞こえてきたから気になって様子を見に来ただけで――」
とりあえずまともな会話に発展しそうなことに内心ホッとしながら、慎重に言葉を選びつつ話し掛けていた俺。……でも、そんな俺にさくらんは嘲笑を見せる。その対象は、はたして俺なのだろうか。
「そうなんだ。……それじゃあガッカリしたでしょうね。あなたの『さくらん』がこんなんで」
「えっ?」
「だってそうでしょ? 可愛くてちょっとしたことですぐに恥ずかしがるような、そんな清純派アイドルの『さくらん』だからファンになったんでしょうけど、実際はこんなブスッとした顔して口の悪いただのガキなんだから」
「さくらん……」
ガッカリしなかったと言えば、嘘になる。確かにさくらんの言う通り、清純派アイドルである『さくらん』に魅力を感じていたところもあるから。今目の前に居るさくらんは、表情も口調もそのイメージからは掛け離れている。
……でも、何故かそれほど落胆することもなかった。軽く天を仰ぎながら自分なりにその理由を考え、導き出された答えをさくらんに告げる。明らかに不審者だと思われているであろう俺が今出来ることといえば、それくらいしかない。
「ガッカリした……かもしれない。でも、そこまでショックでもないかな」
「えっ?」
「だって、他のファンの人はどうだかわからないけど、少なくとも俺はさくらんの見た目とか話し方だけでファンになったわけじゃないから」
「……………」
「その、覚えてるかどうかはわからないけど、結構前に生放送の音楽番組で『さくらん』って呼ばれることをどう思うかって質問されたことあったでしょ? そのときのさくらんの回答――『アイドルの風見咲良なんだって割り切れますから』ってのを聞いて、俺はさくらんのファンになったんだ。週刊誌とかで結構叩かれてたみたいだけど、俺は『アイドルとしての自分と普段の自分をしっかり分けて考えてるんだな』って、良い印象を受けたから」
「……………」
「……だから、別にめちゃくちゃガッカリはしなかったかな、うん」
……とりあえず伝えられることは伝えたつもりだし、変にカンに障るようなことを言ったつもりもない。でも、そんな俺の言葉に対して中々返事は返って来なかった。
少し不安になりながらも改めてさくらんの様子を窺うと、さくらんは相変わらずの涙目で呆然と俺の姿を見ていた。ただ、俺が視線を戻したことに気付いたさくらんは、何だか気まずそうに顔を俯かす。
……そして、その体勢のままボソッと呟きだした。
「……ねぇ、わかってる?」
「えっ……何?」
その小さな声がよく聞こえなくて、数歩近づきながらそう返す――と、
「私達今、二人きり……なんだよ?」
――全身が一瞬硬直してしまうような何かが、俺の頭を勢いよく貫いた。