第1話:浮遊する十五万
巨大な講堂を包み込んでいたのは、祝祭の華やかさというよりは、冷徹なまでの静寂だった。
新入生数百名が集うその空間で、壇上の巨大スクリーンに映し出された文字が青白い光を放っている。
『——初期同期完了。エグゼクト(EXECT)端末の有効化を確認しました』
各々の座席に用意されていたのは、重厚なチタニウム合金の筐体に漆黒の画面を嵌め込んだ電子契約端末『エグゼクト』。
手元の端末が同時に微振動し、画面に一つの数値が表示される。
『残高:150,000 AP』
瞬間、張りつめていた講堂の空気が、じわじわと波紋のように蠢き始めた。
「……ひゃ、十五万……!?」
「これ、円に換算して十五万円分ってことか……?」
「入学しただけで? マジで……!?」
囁き声は瞬く間に伝染し、戸惑いと歓喜が混ざり合った熱気が座席のあちこちから立ち上る。
高校一年生にとって、手元に突如として転がり込んできた十五万という数値の重み。それはあまりにも生々しく、これから始まる生活への期待を決定づけるには十分すぎる額だった。
列の最後方、1年Eクラスの座席に腰を下ろしていた蓮も、手の中にある端末の画面を何度も見つめ返していた。
(本当にこんな大金をもらっていいのか……? でも、これがあれば教材も寮の備品も不自由しないし、クラスのやつらと飯を食べに行ったりもできる)
素朴な驚きと胸の高鳴り。蓮もまた、周囲の生徒と同じように学園の太っ腹さに期待を膨らませていた一人だった。
だが、ざわめきが最高潮に達しようとしたその時——
『——静粛に』
マイクを通した短く、しかし氷のように冷ややかな鈴の音が、講堂内に響き渡った。
言葉の重みそのものが空気を圧殺したかのような錯覚。歓喜に沸いていた新入生たちが、吸い寄せられるように壇上へと視線を向ける。
そこに立っていたのは、在校生代表——2年Sクラス生徒会長、白雪華乃。
白銀を思わせる美しい髪をなびかせ、隙のない所作で立つその姿は、学園の頂点に立つ者にふさわしい神聖さと、近寄りがたい冷酷さを同時に纏っていた。
彼女は手元の原稿など一切見ず、冷ややかな紫紺の双眸で新入生全体を氷のように見下ろしている。
「在校生を代表し、諸君の入学を歓迎いたします」
白雪の声は美しく澄んでいたが、そこに歓迎の温もりは欠片も存在しなかった。
「この学園において、与えられた資源をどう運用するかは個人の自由です。……ですが、勘違いなさらないように。この島で価値を持つのは『成果』と『契約』のみ。自己の無知と怠惰によって権利を失った者を、学園も、生徒会も救済することはありません」
白雪は微かに唇の端を上げ、優雅で、それでいて残忍な笑みを浮かべた。
「十五万という数字の重みを正しく理解しなさい。……無知な敗残者として淘汰されるか、それともルールを掌握する側へ上り詰めるか。諸君の『選択』を愉しみに見せていただきます」
背筋が凍りつくような、圧倒的な「支配者」としての挨拶。
新入生たちが気圧されて息を呑む中、在校生代表の白雪が優雅に一礼して戻ると、続いて新入生代表の登壇がアナウンスされた。
壇上に上がったのは、1年Aクラスの代表——神堂律。
寸分の狂いもなく着こなされた制服に、鋭い理知を宿した眼鏡の奥の双眸。彼は先ほど白雪が放った圧倒的な威圧感を全身で受け止めながらも、一切臆することなくマイクの前に立った。
「新入生代表、1年Aクラス・神堂律です。……先ほど生徒会長のおっしゃられた通り、我々1年生に与えられたのは過酷な競争の切符です」
神堂の声には、新入生の中で自身だけが白雪の意図を正確に汲み取っているという、絶対的な自負と冷徹な合理性が宿っていた。
「富と権力は、奪い取る意志と能力を持つ者にのみ集う。……我々1年Aクラスは、学園の提示するシステムを最も迅速に攻略し、必ずや最速で上位階級へと進出することを、ここに宣誓します」
神堂の視線が、一瞬だけ講堂の後方に位置する下位クラス(Eクラス)のエリアを舐めるように通り過ぎた。そこにあったのは、明確な見下しと、「搾取対象」として定める冷酷な計算の光だった。
新入生代表としての宣誓を終え、神堂が堂々とした歩調で壇上を降りていく。
「……な、なんだよあいつら。生徒会長もAクラスの代表も、上から目線すぎるだろ……」
「でも、雰囲気ヤバかったな……なんか、普通の高校じゃないぞここ……」
怯えと圧迫感が混ざり合った囁きが漏れる中、Eクラスの列に座る蓮は、白雪華乃と神堂律という二人の異質な存在を呆然と見つめていた。
学園の絶対的なシステムを完全掌握し、高みから見下ろす2年Sクラスの白雪。
そして、その支配構造を即座に見抜き、下位クラスを喰らう準備を進める1年Aクラスの神堂。
(なんなんだよ……あの二人……)
少し前までの浮かれた気持ちが、急激に冷やされていくのを感じた。
「……すごい威圧感だったな。でも、みんな最初からあんなに身構えなくてもいいのにさ」
前方の座席から振り返り、困ったような苦笑いを浮かべながら声をかけてきた男がいた。
1年Eクラスの赤城拓也。
整った顔立ちに、親しみやすい柔らかな笑顔。殺伐とした雰囲気が漂う中、彼の周囲だけは暖かな人徳のオーラが漂っていた。
「俺は赤城拓也。よろしくな、黒宮」
「……黒宮蓮だ。よろしく、赤城」
「どんな学校なのかまだ分からないけどさ、俺たちEクラスもみんなで助け合っていけたらいいよな」
赤城は自らの端末をポケットに収めながら、爽やかに笑った。その瞳には、一切の毒も裏も存在しない、純粋な善意だけが宿っていた。
圧倒的な支配者・白雪華乃。
冷徹な侵略者・神堂律。
そして、無垢な理想を掲げる赤城拓也。
新入生たちを惑わす「十五万AP」という甘い毒を抱えたまま、至誠館高等育成学園での過酷な一年間が、静かにその幕を開けたのだった。




