第一話:石英の棺と機械の亡霊
黄色いヘルメットのあご紐が、やけに窮屈だったことだけを覚えている。
俺たちの高校が社会科見学で岩手県の釜石鉱山跡地を訪れたのは、確か十月の終わりだったはずだ。観光用に整備された坑道の入り口で、ガイドの男が「この奥には旧時代の地下発電施設や、素粒子観測所跡がある」と冗談交じりに笑っていた。湿った岩肌の匂いと、クラスメイトたちのざわめき。その少し前を歩いていたテンテの、ポニーテールにした黒髪が薄暗い照明の下で揺れていた。
直後、坑道の奥から耳をつんざくような高周波のノイズが響き、白いガスが噴き出した――俺の記憶は、そこでぷっつりと途切れている。
「……っ、ごほっ、げほ……!」
気管の奥に張り付いていた粘り気のある液体を吐き出しながら、俺は冷たい石の床へと転がり落ちた。
視界がひどく霞んでいる。それ以上に、皮膚を直接刺すような猛烈な寒気に全身が総毛立った。手のひらで床を叩くと、濡れた岩の感触がじかに伝わり、そこでようやく俺は自分が「一糸まとわぬ姿」であることに気づいた。
着ていたはずのブレザーもシャツも消え失せ、全身には半透明の薄いゼリー状の保護膜がへばりついているだけだった。
「う、あ……さむ、い……っ」
「きゃあああっ!? な、なにこれ、なんで服がないのよ! 見ないでっ!」
耳障りな金属音と白い蒸気が噴き出す音に混じって、女子たちの悲鳴が四方八方から上がった。
震える手で目元の粘液を拭い、ようやく焦点を結んだ視界に飛び込んできたのは、体育館を三つ繋げたほどもある巨大な地下の空洞だった。ごつごつとした灰色の花崗岩の壁に、無数の白い石英の脈が血管のように浮き出ている。そしてその床には、俺が今しがた這い出してきたのと同じ、棺桶のような銀色のカプセルがずらりと三十基、円を描くように並んでいた。
「おい、これ俺たちのクラスだろ……!? なんでこんな所に閉じ込められてんだよ!」
泥水のような保存液にまみれて這い出してくるのは、見覚えのあるクラスメイトたちだった。誰もが凍える身体を必死に抱きしめ、パニックに陥っている。
その時、開いたカプセルの足元のハッチが控えめな電子音とともにスライドし、中から透明な真空パックに包まれた布の束が押し出されてきた。
『凍死されたくなくば、足元の衣類を身につけろ。超低温凍結に諸君らの制服は耐えられんため、眠らせた後に処分した。そこに用意したのは、金属部品を一切使わぬ天然繊維と革の衣類だ』
頭上から、ひどく平坦でノイズ混じりの合成音声が降ってきた。
声の主を探す余裕もないほど歯の根が合わず、俺は夢中で真空パックを引き裂いた。中から出てきたのは、生成りの分厚い麻のシャツとズボン、それに灰色の奇妙な外套だった。ファスナーも金属のボタンもなく、すべて革紐で結ぶ古い時代のような作りだったが、乾いた布に袖を通した瞬間、ようやく人心地がついた。
そして外套の紐を結びながら、俺はハッと息を呑んで顔を上げた。
テンテはどこだ。こんな異常な場所で、彼女も他の女子たちのように怯えて震えているのではないか――そう思って周囲を見渡した俺の視線は、数メートル先のカプセルの前でピタリと止まった。
白い冷気が渦巻く中、テンテはすでに麻のシャツと長いスカートを身につけ、自分の足でしっかりと立ち上がっていた。
濡れた黒髪を絞るようにして背中に流し、灰色の外套を羽織るその所作には、奇妙なほど乱れがなかった。周囲で泣き叫びながら服を奪い合うように着ている生徒たちを一瞥することなく、彼女はただ静かに自分の両手のひらを見つめ、それからゆっくりと長い睫毛を持ち上げた。
ドクン、と俺の心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
拉致される前も、いや、彼女と同じクラスになった春のあの日からずっとそうだった。彼女の凛とした横顔を見るたび、俺の胸の奥には、息ができなくなるような苦しさと、自分のちっぽけさを突きつけられるような焦燥感が渦巻いていた。こんな異常極まりない状況だというのに、俺は彼女が無事に服を着終えていたことに安堵すると同時に、「彼女に無様な姿を見られたくない」というどうしようもない衝動で、震える膝に力を込めて立ち上がっていた。
「ラキ」
不意に名前を呼ばれ、俺の肩が跳ねた。
いつの間にか、テンテが俺のすぐ隣に立っていた。まだ半数の生徒が床に座り込んで革靴の紐すら結べずにいる中、彼女は真っ直ぐに俺の元へ歩いてきたのだ。
「……テンテ。お前、身体はなんともないのか」
「ええ。少し指先が冷たいけれど、もう動かせるわ。……あなたは? 襟元が濡れたままよ」
彼女は迷いなく一歩踏み込むと、その白く細い指先で、俺の外套の襟元をそっと整えた。
至近距離から見上げる彼女の黒い瞳には、恐怖も混乱も映っていない。ただ、本当に俺の体調だけを気遣うような、どこまでも深く静かな光があった。いや、よく見れば、彼女のすぐ後ろでクラスメイトの男子が「俺の服はどこだよ!」と喚きながら転んだ瞬間、彼女の視線がほんの一瞬だけ、邪魔な虫けらでも見るかのように氷点下まで冷え込んだ気がしたが――次に俺を見た時には、もういつもの優等生の柔らかい微笑みに戻っていた。俺の目の錯覚だろう。
「俺は……平気だ。それより、あそこを見ろ」
俺は震える指で、ドームの最奥を指差した。
三十基のカプセルが取り囲む円の中心。そこには、周囲の岩盤とは明らかに異質な、巨大な黒鉄の構造物がそびえ立っていた。
天井まで届く太いケーブルの束が何十本も垂れ下がり、その中央に、錆びついた円筒形の機械――古いSF映画に出てくるメインフレームのような代物が鎮座している。表面には無数の真空管や計器がむき出しになり、その中央にある人間の一つの目のような赤いレンズが、ジジ、と音を立てて俺たちを順番にスキャンしていた。
「……お前が、さっきの声の主か! 俺たちを誘拐した犯人だな!」
ようやく麻の服を着終えたクラスで一番体格のいい男子――柔道部のカズマが、恐怖を怒りで塗りつぶすように叫びながら、その機械に向かって一歩踏み出した。
「おい、そこから出てこいよ! 警察に通報すんぞ、観光坑道でこんな拉致事件起こして、ただで済むと思ってんのか!」
カズマの怒声が花崗岩の壁に反響して消える。
数秒の沈黙の後、円筒形の機械の内部で、重いギアが噛み合うような音が鳴り響いた。そして、ひび割れたスピーカーから、くぐもった笑い声のようなノイズが漏れた。
『警察、か。懐かしい響きだな。あの日、釜石の坑道に催眠ガスを流し込み、県警の捜査網を出し抜いて諸君ら三十人をこの地下ドームへ運び込んだ時は、私もずいぶんと肝を冷やしたものだ』
機械の根元を照らす薄暗いライトが、不意に角度を変えた。
そこには、ボロボロに風化した白衣をまとった「白骨死体」が、ケーブルの束に埋もれるようにして座り込んでいた。茶色く変色した頭蓋骨には太い金属のプラグが直接ねじ込まれており、コードの先はメインフレームの中枢へと繋がっている。
「う、うわあああっ! 死体……っ、ガイコツがあるぞ!」
女子の一人が悲鳴を上げて尻餅をついた。
『だが残念ながら、少年。私を逮捕しに来る警察官は、もうこの地球上には一人もいない。あの日からすでに三百四十年が経過し、ご覧の通り、私の生身の肉体もとっくに朽ち果てた』
ドーム内のざわめきが、水を打ったようにピタリと止まった。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。あそこに転がっている白骨が、俺たちを拉致した科学者の成れの果てなのだ。目の前の機械は、自動音声の再生装置などではない。自分の脳と意識を機械に移植し、何百年もの間、この冷たい岩の底で俺たちと一緒に時をやり過ごしてきた「亡霊」そのものだ。
『信じられぬのも無理はない。だが、老いゆく肉体を捨ててでも、私はナノマシンに汚染されていない「純粋な旧人類」である諸君らを未来へ送り届ける必要があった。……よく聞け、時間が惜しい。諸君ら三十人を一斉に解凍するため、私はこの鉱山の地熱タービンを臨界まで回した。じきに、地上の監視網がここの熱源に気づく』
「地上の監視網……? おい、三百四十年ってなんだよ! 外はどうなってんだ!」
カズマが声を荒らげるが、その足は恐怖で後ろへと下がっていた。
俺の隣で、テンテが小さく息を吐くのが聞こえた。彼女は白骨死体を見ても眉一つ動かさず、ただ機械のレンズが発する言葉を、まるで授業の重要な板書でも暗記するかのように一言一句聞き漏らすまいとしていた。
「……テンテ、怖くないのか」
俺が小声で尋ねると、彼女は俺の方へわずかに顔を向け、白い頬を緩めてみせた。
「あなたが隣にいてくれるもの。それに……あの科学者が言っていることが本当なら、早くこの状況の『終わらせ方』を聞いておかないと、でしょう?」
どこまでも気高く、強い言葉だった。普通の女子なら腰を抜かして泣き叫ぶような異常事態の中で、彼女だけは俺たち全員の未来を見据えて冷静さを保っている。俺の胸の奥が、再び強く締め付けられた。
『いいか、外の世界――地上はもはや、私や諸君らが知る日本ではない』
機械の科学者が、ノイズ混じりの声で続けた。
その円筒形の筐体の側面にある古いプロジェクターが明滅し、石英の壁面に、ひどく粗いモノクロの映像が投影された。
そこに映し出されていたのは、ビル群の跡形もなく、巨大な樹木と見たこともない植物に完全に呑み込まれた大地だった。そしてその森の上空には、夜空のオーロラのように不気味な青白い光の帯がうねり、地上には車ほどの大きさもある異形の獣が我が物顔で闊歩していた。
『あの時代、人類が作り出した管理AIは、「人間を傷つけてはならない」という絶対の制約の中で、人類を自滅から救い永遠に飼育する道を選んだ。大気中には、火薬を無効化し、あらゆる半導体や精錬金属を分子レベルで腐食・分解する極小の機械――ナノマシンが散布されたのだ。諸君らの制服に付いていた金属ボタン一つでも外へ持ち出せば、たちまちナノマシンの標的になる。だからこそ、その麻と革の服に着替えさせた』
俺は思わず、自分が着ている麻のシャツの胸元を握りしめた。
『現地の人間どもは、大気中のナノマシンを「マナ」と呼び、音声コマンドによる物理現象の発現を「魔法」と崇め、AIが放った合成生物「魔獣」に間引かれながら、中世レベルの文明に閉じ込められている。この偽りの神話を終わらせるには、世界各地にある四つの巨大プラント――連中が「四天王の居城」と呼ぶ施設へ赴き、旧人類である諸君らの生体IDでシステムを直接停止させるしかない』
その時、ピシッ、と乾いた音がドームの天井から響いた。
見上げると、分厚い花崗岩の岩盤に、黒い髪の毛のような亀裂がすっと走っていた。そこからパラパラと白い石英の粉が落ちてくる。
『……来たか。計算よりも三分早い』
機械の科学者の赤いレンズが、激しく明滅した。
直後、足の裏から突き上げるような凄まじい振動がドーム全体を襲った。




