〈下〉デトックス
その1 虐待
恭子は簡単に一人分の夕食を作り、谷口の爺さんが寝ている部屋の入り口に置いた。
ふすまを開けると、爺さんが気付き、何か言った。恭子は無視して、ふすまを閉めた。
「また、出かけるのか」
とでも言ったのだろう。
爺さんにはもう、用はなかった。
貧しい田舎家から脱出し、都会にマンションを買ってもらった。贅沢もさせてもらった。十代の頃から爺さんに弄ばれてきた恭子には、当然の報酬だった。
爺さんの貯金を解約して、無一文にした。手切れ金だ。その金を元に、新しい恋人と事業を起こし、ゆくゆくは結婚するつもりだ。
ワインを飲みながら、ディナーを食べた。早い夕食だった。男は今夜、最終便を利用して東京に戻る。二人の時間は限られていた。
やきもきする恭子をよそに、男はスタッフを雇い、開業準備が進んでいることを話している。なんでも携帯電話の販売店を出す計画らしい。
「もう、固定電話の時代じゃない。携帯電話の出現で通信革命が起きるんだぜ。携帯はどんどん進化していく」
男は熱っぽく語った。恭子には言っていることが難しすぎた。男に買ってもらった現在の携帯で十分だった。適当に相槌を打っておく。
たまに男の携帯が鳴ることがある。
「社員からだ」
と舌打ちして、席を外す。戻ると、男は社員の愚痴をこぼす。
(大変なんだ)
恭子は男を頼もしく思った。
食事が済むと、部屋に行って、体を重ねる。ワインが恭子を大胆にさせる。男は女盛りの恭子を堪能する。
別れの時間がくるのが、恭子には耐えられなかった。
「爺さんが出て行ったら、マンションに泊まってくれる」
訊くと男は熱いキスをしてきた。
爺さんは食事を平らげていた。
「年寄りのくせに、食い意地は張るんやなあ」
酔いも手伝って、恭子の口は軽くなっていた。
「臭! 息が詰まるわ」
恭子はベランダの掃き出し窓を開け放った。
その2 老妻の恨み
男との情事の後、恭子は余韻に浸りたくて、そのままホテルの部屋にひとり泊まるようになっていた。
コンビニに寄って弁当とお茶を買い、爺さんに与える。爺さんは待ちかねていて、ガツガツと食べた。
「うまい?」
恭子が訊くと、爺さんは「うまい」「うまい」と繰り返した。
「コンビニ弁当が好きなんや。今度からコンビニ弁当にしよう」
恭子は頻繁に出かけるようになった。帰りに弁当を買ってくる。爺さんは一日一食になった。
恭子が昼前にホテルから帰ると、爺さんが何か言いたそうに布団に座っていた。
「ほら、弁当や。腹、減っとんやろ」
恭子は放り投げた。
「もう、村に帰りたい」
恭子は喜びを隠して、話しかけた。
「また、なんで」
「こんなところで死にとうない」
「じゃあ、ウチが連絡してあげるわ。ウチひとりが悪者にされるやろけど、ウチは村との関係が切れた人間やから、何を言われてもええ」
恭子だけでなく爺さんも、悪者になった。
爺さんは帰っても母屋では寝かせてもらえなかった。爺さんの寝室は納屋を片付け、板の間に布団を敷いただけのものだった。
いちばん冷たく当たったのは、婆さんだった。婆さんは元々、爺さんが帰るのを頑として拒んだ。若い女に亭主を寝取られたばかりか、名家を没落させられた。親戚縁者に合わせる顔がなかった。まさに恨み骨髄だった。
息子夫婦に説得されて門はくぐらせたものの、母屋には一歩も足を踏み入れさせない。爺さんとは顔を合わせないし、口も利かない。食事は一日二回、嫁が納屋に差し入れている。
婆さんは爺さんが家を出て以来、ある宗教に凝るようになった。婆さんが落ち込んでいるのを見かね、知り合いが勧誘してきたものだ。知り合いも、夫の不行跡に泣かされ続けた一生だった。
爺さんと恭子への復讐に燃え、婆さんは朝夕の勤行を欠かさない。その姿には鬼気迫るものがあり、読経する声は屋敷下の往還を行く人の耳にも届いた。
祈りが通じ、爺さんは生ける屍となった。後は、あの憎たらしい恭子を地獄に突き落とすだけだった。
その3 取締役
爺さんが出て行き、恭子は清掃業者にマンションの部屋のクリーニングを依頼した。爺さんの匂いをことごとく消したかったのだ。
男はマンションに泊まってくれた。恭子はおもてなしをしようにも料理には自信がなかった。近くの寿司屋に特上の出前を頼んだ。
男はいよいよ新規事業の見通しがついたと語った。
「今日は大事なお願いがあって」
いつになく神妙な面持ちだった。
「君に、新しい会社の取締役になってほしいんだけどさ」
恭子は快諾した。男の出した書類に署名、捺印した。
男の携帯が鳴った。
「あ、ボクだけど。何、あの先生、そんなこと言ってるの。困ったなあ。分かった。電話しておく」
男はどこかに電話を掛けた。
丁寧な言葉遣いだった。
「そういうことですから、ぜひ、先生からも一言お願いいたします。では、詳しい話は先生の事務所にお伺いいたしまして」
恭子は火照る体を持て余していた。
「あの先生は気まぐれだからなあ」
男は時々ニュースで聞いたことのある政治家の名前を口にした。
恭子は食事もそこそこに風呂に入り、男をベッドに誘った。
入籍は準備中の事業がスタートしてからという約束だった。その時は東京に二人の新居を構えることになっていた。
「今度、銀行の融資を受けることになってね」
男は切り出した。
「連帯保証人が必要だから、引き受けてくれないかなあ。なに、形式的なもんだよ」
恭子は訳が分からないまま、署名・捺印した。
いずれにしても、男の始める事業に役に立っているのだという満足感があった。それだけに、恭子は床に入ってから特上のサービスをし、男を歓喜させた。
その4 無一文
男からの連絡が途絶えた。携帯に電話しても通じなかった。
恭子は男との仲が終わったのだと自分に言い聞かせた。
それだけでは済まなかった。傷心の恭子にある機関から電話が入った。男が借金を返済していないので、連帯保証人の恭子に支払えという。寝耳に水だった。
「私は騙されとったのよ。そんなもの払えません」
と言い張った。
「では、裁判に訴えます。あなた、財産が差し押さえられますよ。連帯保証人のことを簡単に考えすぎてますよ」
裁判と聞き、携帯を持つ手がブルブル震え出した。
「いくら払えばいいのですか」
相手は二千三百万だと答えた。
爺さんの貯金を解約した金はかなり使っていた。それでも四、五百万くらいならすぐにでも払えると恭子は目算していた。
「そんなには払えん。ウチやって生活があるし」
「今、マンション住まいでしょ。あなた名義なら、売却するのが手っ取り早いですよ。よく検討してください」
また、連絡してくることになった。
マンションの売却価格は一千五百万あまりだった。最終的に、恭子の手元には百万足らずしか残らなかった。
恭子はマンションを出た。キャリーバッグに洗面具と化粧品、洋服を詰め込み、街をあてもなく歩いた。
「修理したら、なんとか住めるかな」
田舎のあばら家が目に浮かんだ。恭子は列車に乗り込んだ。
爺さんと田舎を出てから、はや七年が経過していた。
(どこで、どう間違ったのだろう)
恭子は自問した。
あの男が現れた時から何かおかしくなった。
爺さんの貯金のことを詳しく訊かれた。定期預金がかなりあることを知り、解約の仕方を教えてもらった。あの時はじめて委任状というものを見た。
解約した金のうち一千万は会社の資本金として持って行かれた。
「確かにそういう会社はありましたが、すでに解散しています。社長とは連絡が取れません」
と、電話では言っていた。
何もかもが仕組まれたものだったのだ。それにしても、仲間に電話などさせ、まことに手の込んだ演出だった。
その5 荒廃
駅前のタクシー乗り場に行こうとしてやめた。これからは倹約に努めなければならない。
バスの乗客のほとんどが途中で降りてしまい、最後は恭子だけになった。
昔のバスは混んだ記憶がある。女の車掌がデッキから、半分からだを乗り出していることもあった。秘境に通じる、この街道はドル箱路線だったのだ。
最終便は恭子たちの通った学校がある繁華街が終点だった。もう、暗くなり始めていた。その方が都合が良かった。村に着くまでに三〇分ほど山道をのぼる。闇が恭子を隠してくれる。
玄関の戸を開けると、家の中を何かが駆け巡った。懐中電灯を点けても正体は不明だった。ハクビシンかイタチだろう。動物の糞尿の匂いが鼻を突いた。
居間の床板は歩くとへこんだ。ゴザは腐って床が露出し、あちこちに草が生えていた。座敷は風が通りにくいため、ほとんどが陥没し、懐中電灯を照らすと床下が見えた。押し入れの布団類がどうなっているかは考えてみるまでもなかった。
恭子はかろうじて原型をとどめているあがりかまちに身を横たえ、ショールをかけて眠った。
翌日、暗いうちに起き出して、居間と台所の片づけをした。
やるべきことがたくさんあった。村人が動き出す前に村を下り、始発のバスに乗る。市役所に行き、電力会社のサービスセンター、家具屋、電器屋、食料品店を回ると帰りのバスの時刻になっていた。
持てるだけの買い物を持ってバスターミナルに急いでいて、バイクに乗った男に声をかけられた。
「恭ちゃんと違う?」
男はバイクを停め、フルフェイスのヘルメットを脱いだ。
同級生の茂だった。
茂は恭子の村とは学校をはさんで反対側の村に、ひとり暮らしている。少し知的障害があり、いつも仲間外れにされていた。
「恭ちゃん、送ってやるよ。乗りな」
茂はバイクの運転は達者だった。乗り心地に、父親のバイクの後ろに乗ったことを恭子は思い出していた。
家に着くと、買ったばかりのヤカンで湯を沸かして、お茶をいれ二人して飲んだ。
茂は荒れ果てた室内を見渡して言った。
「掃除、手伝ってやりたいけど、オラがそばにいると恭子ちゃんの迷惑になるやろ」
子どもの頃、女の子は茂が近づくことを嫌がった。
峠に遠足に行った時の出来事だった。弁当を食べ終え、疲れから恭子は木の下でウトウトしてしまった。胸に何かが触れた。驚いて目を覚ますと、茂が手を差し込んでいた。
茂は担任からこっぴどく叱られた。
「今度あんなことしたら、警察行きやからな」
脅されて茂は泣きべそをかいた。
女子は毛嫌いするようになった。仮に女子に近づくようなことがあると、茂は決まってズボンに手を突っ込んでいた。
「まだ、そんなことにこだわっとるん。気にせんでもええって」
恭子が言うと、茂は満面の笑みを浮かべた。
その6 事故の真相
茂は骨身を惜しまず片付けや修理を手伝ってくれた。自宅に使っていない家具や寝具などがあれば、惜しみなく運び込んだ。
恭子が帰ってきたことは、すぐ村に知れ渡った。おまけに尾ひれまでついていた。
「今度はえらい(大変な)のを咥えこんどる」
どんな噂を立てられても、茂は恭子を乗せ、村じゅうにバイク音を響かせた。そのため、婆さんの恐ろし気な読経の声を二人は聞かなくて済んだ。
「恭ちゃんのお父、バイクの運転うまかったなあ。オラ、あこがれとった。ほんまに名人やったで」
「けど、酒のんで乗ったら事故おこすわ」
「恭ちゃん、それ違う」
茂の声が低くなった。
「オラ、見とったんや。恭ちゃんのお父のバイク、ブレーキに油差したやつがおったんや」
恭子の父親は繁華街の飲み屋のお女将さんとねんごろになった。茂によれば
「朝早うに、バイクを見かけた」
ということだ。恭子が就職して行き、独り身の父親はお女将さんに急接近していたのだ。
茂が手間仕事から帰っていると、飲み屋の横の路地に見知らぬ男がいた。奥に恭子の父親のバイクが停まっていた。茂に気付き、男は手にしていたものを素早く隠した。茂には油差しであることがすぐ分かった。
その夜、バイクの事故は起きた。茂には信じられない事故だった。
茂がおかしなことを言っている、というのを民生委員が聞きつけ、茂を呼んだ。
「いいかげんなこと言うたらいかん。警察もあれは飲酒運転が原因の転落やって言うとる。警察に怒られて、飲み屋やって店をやめたんやからな。お前は福祉の世話になっとる身や。そこのところ、よう考えな」
その民生委員は、恭子の父親が生活保護を受けるに際して尽力してくれた。谷口の爺さんの知り合いだったはずだ。
(茂君の話は油差しを依頼した人物に伝わった。茂君には民生委員に釘をさしてもらったから、残る心配は父親だけ。それで、谷口の爺さんに止めを刺させたのでは。好色爺さんにとっても、恭子の父親は邪魔者だったわけだ)
恭子は推理をめぐらせた。しかし、そもそも誰の依頼だったのだろう。
「ほかに誰か店に泊まっとった人はおらんかった?」
恭子は茂に訊ねた。
「泊まったことある人、もうひとり知っとる」
茂は地元の大物議員の名をあげた。朝早くアルバイトに行っていて、店から出てくるのを見かけたとのことだった。
泊まることの意味が、茂に分かっているのかどうか。茂の口調は淡々としていた。
「議員も民生委員も死んだんやろ。谷口の爺さんも、もうすぐお迎えがくる。ウチは茂君から聞かんかったことにするから、油差しのことは忘れよう」
恭子が言うと、茂は「うん。オラ、忘れる」と少年のように答えた。
その7 田舎雀
村の清掃デーの回覧板が回ってきた。
行くと、もんぺ姿の高齢者が五人ほどいた。
「あらあ、奥様、お洋服が汚れますわよ」
谷口の嫁が言うと、ドッと笑いが起きた。
嫁は恭子を顎で使い、刈った草を運ばせた。どうやら姑仕込みらしい。
「ご主人はお休みですか」
誰かが訊いた。恭子は手を休めることなく答えた。
「外に出ると、年寄りの雀がうるそうざますでしょ。どうして、田舎の姥雀はこんなにうるさいんでしょうね」
恭子に草が飛んできた。
小学生の頃、谷口の家のゴミ捨て場にサツマイモのツルを見つけた。腹を空かせていた恭子は、イモを引いて服の下に隠した。それを見ていた谷口の婆さんに、ゴミを頭からかけられたことがあった。
(あれよりはマシかな)
と、思うと同時に
(ウチは染まらないよ)
恭子は決心を固めた。
茂は庭に出て、バイクの手入れをしていた。
「お風呂、沸いとるよ」
よく気が付いた。
ひと風呂浴びて、横になると眠気に襲われた。
前に茂が座っている。恭子のことをじっと見ているようだった。
「婆さんたち、茂君のこと、ご主人だって」
「オラ、友達だもん」
恭子が訊いた。
「ずっと、それでいいの?」
「オラ、ほんとは恭ちゃんのこと…」
恭子は最後まで言わせなかった。
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この作品はフィクションです
登場人物等は実際のものとは関係がありません




