〈上〉リベンジ
その1 貧困
恭子は家に帰るなり、ランドセルを投げ出した。
ブラウスの下から小さなサツマイモが二個、土間に落ちた。水ガメの水を柄杓で汲み、サツマイモに付いた泥を洗い流した。思わず笑みがこぼれた。
恭子は生のサツマイモに齧りついた。噛み応えがあった。かすかな甘みか口中に広がる。しかし、味わっている場合ではなかった。父親に見つかると、味噌汁の具になるからだった。
夕方、バイク音が聞こえた。父親は酒臭い息を吐きながら帰ってきた。また、麓の商店街の立ち飲み屋に寄っていたのだ。
父親は手に買い物をぶらさげていた。量り売りの米だった。
「ほら。メシ、焚け」
父親は上がりかまちに包みを置いた。
農家といっても畑は狭く、母親が元気な頃は一人で野菜や雑穀類を育て、父親は日雇いに出ていた。家計は苦しかった。仕事があってもなくても、父親はつましい晩酌を唯一の楽しみにしていた。
母親が入院してからは、畑は荒れ放題だった。父親は立ち飲み屋で飲むようになり、恭子は寂しく、夕飯のおかずや米を買って帰る父親を待った。
母親が病気で亡くなると、父親の酒に歯止めが利かなくなった。母親の祖父から、酒を飲んでバイクに乗るのは危ない、といくら注意されても、耳を貸さなかった。バイクの運転には自信を持っていた。
恭子の学校の帰り、商店街を抜けていると、たまに父親の姿があった。早くから飲んでいたのだ。小学校の上級に進むにつれて、そんな父親を恥ずかしく思うようになった。急ぎ足になっていると、呼び止められる。
「ちょっと、待っとけ」
という。こんな日は決まって、恭子をバイクの後ろに乗せる。恭子は怖くて父親にしがみついていた。
その2 意地悪婆さん
恭子はその日、谷口の爺さん宅の下を歩いていて、道端にサツマイモの葉を発見した。茎を引っ張ってみると、小さなイモが二個ついていた。これで夕飯までの耐えがたい空腹はしのげる。
サツマイモの発見現場の少し山手に、谷口の爺さん宅のゴミ捨て場があった。サツマイモがゴミに交じって捨てられ、芽を出したものと思われた。
恭子がサツマイモをさっと洋服の下に入れた。その時、何かがパラパラと降ってきた。ゴミだった。手をかざして上を見ると、谷口の婆さんがほうきと塵取りを手に立っていた。
「食費は酒代に消え、ゴミを漁るようになったんかいな」
婆さんは声をあげて笑った。
ゴミ捨て場近くを通るたびに、恭子は目を凝らした。
いろいろな野菜が芽を出した。ジャガイモ、キウリ、ダイコン、ニンジン、トウモロコシ、スイカ、まくわ瓜など、気を付けて見ていると食べられる物はけっこうあった。しかし、そのたびに婆さんからゴミを投下された。
婆さんは畑仕事のおりにも恭子を見かけると、よく草を投げつけた。
「家に植えとけ。草でも煮炊きしたら腹の足しにはなるわ」
などと悪口の限りを尽くしたものだった。
中学校に上がると、恭子もさすがに腹に据えかねるようになった。唇を噛んでにらみつけてやる。婆さんは負けずに、恭子の顔に畑の土を投げつけた。
谷口家は昔、庄屋だった。総戸数二〇戸ほどの小さな村ながら、村の実力者、資産家であり、逆らえる村人はいなかった。
婆さんも嫁にきた当初は大人しかったらしい。姑にいじめられ、うっぷんのはけ口を弱く貧しい村人に求めるようになった。落ちぶれ果てた恭子の父親は、娘がどんな仕打ちをされても黙ってみているしかなかった。
その3 セーフティネット
中学を出て、関西地方の縫製工場に就職した。母の姉の嫁ぎ先だった。
その年のお盆に帰省した。家の下を行く恭子を見て、谷口の爺さんが声をかけてきた。
「恭ちゃんか。べっぴんになったなあ」
横で婆さんが舌打ちした。
「チェッ。小娘が。化粧だけは一人前にしとるわ」
婆さんの顔には深い皺が刻まれていた。目をしょぼつかせてはいても、悪口には磨きがかかっていた。
婆さんの不愉快な記憶も薄れかけた九月末、父親がバイクの事故を起こしたという報せが届いた。いつものように飲んでバイクを運転していて、山道から転落したらしい。背骨が折れ、下半身がマヒしていた。やむなく、恭子は父親を介護するため田舎に帰った。
もとより貯えなどなかった。恭子が働きに出ようにも、父親から目が離せなかった。
親子が途方に暮れているところに訪ねてきたのが、谷口の爺さんだった。
民生委員と懇意にしていて、生活保護が受給できるようにしてやる、ということだった。親子は行為に甘えることにした。
谷口の婆さんは相変わらずだった。恭子一家の不幸を嘲笑っているかのようだった。
父親は目に見えて衰弱してきた。谷口の爺さんが足しげく様子を見にくるようになった。時にはお菓子などの差し入れもあった。
恭子が台所に立ってお茶をいれている時だった。背後に気配を感じた。爺さんが恭子の首筋に唇を近づけ、胸に手を回した。
初めての体験だった。逃げようにも、恭子の全身が固まっていた。
「な、悪いようにはせんから」
爺さんは耳元でささやいた。
爺さんは恭子を訪ねると、父親の目の届かない場所で愛撫するようになっていた。恭子は身を任せながら、密かに考えた。
「このままでは済まさないよ」
その4 ムラ社会
谷口の婆さんが畑仕事をしていた。髪はさらに白くなり、背中も曲がり始めていた。
「あらあ、年寄りのサルがおるわ」
恭子が言うと、婆さんは草を引いて投げつけた。
「そんなことより、しっかり爺さん、見張っといた方がええよ」
恭子は婆さんを諭すように言った。
父親が呼びかけに反応しなかった。脈を診ようとして手を取ると、冷たくなり始めていた。
「どうした」
谷口の爺さんが部屋に入ってきた。
型通りの検死が終わり、父親はダビに付された。
初七日が過ぎるのを待ちわびたかのように、谷口の爺さんが転がり込んできた。爺さんは恭子の体を激しく求めた。
「やっと、二人きりになれた」
爺さんはしばらく、恭子の体を離さなかった。
谷口の爺さんが恭子のもとに通っていることは、村中の話題になった。
婆さんは爺さんの衣類をすべてゴミ捨て場に捨てた。恭子は当てつけに、それを拾って洗濯し、爺さんに与えた。
恭子に対する村の衆の風当たりが強くなってきた。恭子は村の衆まで敵に回すつもりはなかった。
「もう、うるそうて、かなわん。街に引っ越したいなあ」
恭子が甘えながらねだると、爺さんは一も二もなく賛成した。爺さんも村が棲みにくくなっていたのだ。
その5 交換条件
市の中心部に近いマンションを買ってもらった。家具や電気製品はすべて新調した。恭子は生まれ変わった気分だった。
よく外食した。流行遅れだからと言っては洋服や靴、アクセサリーなどを買わせた。爺さんが金を出し渋っていると、恭子は肢体をくねらせて爺さんを懐柔した。老いてますますセックスにのめりこむ爺さんとは対照的に、恭子はいよいよ冷めてきていた。
爺さんの息子夫婦が叔父を伴って、マンションを訪ねた。恭子には席を外してくれ、という。
恭子はデパートへ買い物に行った。癪に障り、派手に散財した。
夕方、マンションに戻ると、爺さんがしょんぼりしていた。
「婆さんも弱ってきたし、家に帰れって。もちろん、突っぱねたよ。けんど、財産は生前贈与しろというのには参ったなあ」
世故に疎い恭子にも、息子たちの魂胆がなんとなく分かった。
「何よ、それ。そんなら、ウチがあんたの財産しゃぶり尽くすとでも言いたいの」
爺さんは首を横に振った。
恭子が他人行儀になってきた。爺さんは仕方なく印鑑と預金通帳を恭子に渡した。恭子は黙って受け取っておいた。
爺さんの老いが目立ってきた。動作が鈍い。加齢臭もひどい。恭子は寝付けないからと、寝室を別にした。爺さんはもう恭子の体を求めなくなっていた。
「ウチ、この間からずっと考えとったんやけど、あんた、そろそろ婆さんと仲直りしたら。意地悪婆さんやったけど、あんな片田舎で干からびて死んでいくのはあまりにも可哀そうや」
爺さんは目を剥いた。何か言おうとするのを恭子は遮った。
「ウチ、警察に行ってもええんよ。爺さんがウチの父ちゃんの口、ハンカチで塞ぐところ見とったんよ」
その6 ロマンス
「恭子、お前と言う女は…」
歯ぎしりして、つかみかかろうとする爺さんに、恭子は印鑑と通帳を投げつけた。
定期預金はことごとく解約され、普通預金も残高がゼロになっていた。
爺さんに残るのは家屋敷と田畑、森林だけだった。今の時代、財産価値は限りなくゼロに近かった。
恭子はマンションの廊下に出て、携帯電話を取り出した。
「あ、私です。終わりました。今夜、お会いできますか」
相手は先日デパートで声をかけられた男だった。
誠実そうな青年だった。二回目に会ってホテルに行った。寝物語に、恭子の境遇を包み隠さず話した。恭子は男の心変わりを心配した。しかし、理解を示して、優しく抱きしめてくれた。
爺さん以外の男を知らなかった。歓喜の瞬間だった。恭子は心も体も溶けるような感覚を味わった。
独身の青年実業家と言っていた。共同経営者になることを持ちかけられている。そんなことより、恭子の関心は妻の座だった。
(貧しかった田舎娘の苦労が、やっと報われようとしてるんだ)
恭子は携帯にキスをした。
この作品はフィクションです
登場人物等は実際のものとは関係がありません




