↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
凡人がなるルイ16世  作者: 山口祐輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

69/79

私の名を使うな

第六十五話 「私の名を使うな」

一七九一年六月末。

パリ。

テュイルリー宮殿。

六月二十日が何事もなく過ぎてから、数日が経っていた。

国王一家は宮殿から逃げなかった。

東へ向かう大型馬車は用意されなかった。

国境付近の部隊へ、国王を迎えるための命令が送られることもなかった。

ヴァレンヌという小さな町の名が、パリ中で叫ばれることもなかった。

国民議会は通常どおり審議を続けている。

新聞も、地方裁判所の整備や小麦価格、アッシニャの流通状況について報じていた。

ルイは、一日ずつ歴史を変えるという言葉どおり、再び日々の公務へ戻っていた。

しかし、彼が知らないところで、別の動きが始まっていた。

国王一家が逃げなかったことを、誰もが喜んでいたわけではない。

国境の外に集まった亡命貴族たちは、ルイが自分たちのもとへ来る日を待っていた。

改革によって失われた特権を取り戻すため。

身分による秩序を復活させるため。

国民議会を解散させるため。

そして、自分たちこそが国王に忠実な臣下であると証明するため。

彼らには、国王という旗印が必要だった。

だが、ルイは来なかった。

助けを求める手紙も送らなかった。

外国軍の支援を要請する命令も出さなかった。

だから彼らは、待つことをやめた。

国王本人が来ないのなら、国王の名前だけを使うことにした。

⸻

午前。

国王執務室。

ルイは地方交換所から届いた報告書を読んでいた。

南部のある町で、小麦との交換を求める者が急増している。

凶作ではない。

輸送の遅れでもない。

近隣の商人が、アッシニャの価値が下がるという噂を流し、小麦を買い集めているらしい。

ルイは報告書の余白へ指示を書き込んだ。

『商人を直ちに犯罪者として扱ってはならない。』

『まず在庫量、購入価格、販売予定価格を確認すること。』

『同時に、交換所の備蓄を市場へ放出し、急激な値上がりを防ぐこと。』

そこまで書いたところで、扉が叩かれた。

「陛下。」

侍従の声だった。

「外務大臣がお目通りを求めております。」

「予定にはなかったはずだ。」

「至急お伝えしたいことがあるとのことでございます。」

ルイは羽根ペンを置いた。

胸の奥に、わずかな不安が生まれる。

六月二十日は過ぎた。

だが、歴史そのものが消えたわけではない。

「通せ。」

扉が開いた。

外務大臣は、一冊の薄い書類と、封蝋の割れた手紙を持って入ってきた。

その表情は硬い。

「陛下。」

「何があった。」

「国外へ出た貴族たちの動きについて、報告が届きました。」

ルイの指先が止まった。

「亡命者か。」

「はい。」

外務大臣は机の前まで進み、手紙を差し出した。

「ライン川沿いの町から、ウィーンとベルリンへ使者が送られております。」

「目的は。」

外務大臣はすぐには答えなかった。

ルイは差し出された手紙を手に取った。

原本ではない。

国外にいる協力者が書き写し、パリへ送ったものだった。

そこには、フランス国王一家の置かれた状況が記されていた。

『国王陛下はテュイルリー宮殿に幽閉されている。』

『国民議会への協力は、武装した民衆によって強制されたものである。』

『陛下は自由を奪われ、救援を求める手紙を出すことさえ許されていない。』

『フランス国境へ軍を集結させれば、陛下に忠実な軍人と臣民は一斉に立ち上がる。』

『陛下は、ヨーロッパ諸君主による速やかな介入を望んでいる。』

ルイは最後の一文を何度も読んだ。

「私が望んでいる。」

「そのように書かれております。」

外務大臣が答えた。

「私は、いつ彼らへ頼んだ。」

「頼んでおられません。」

「外国軍を国境へ集めろと命じたか。」

「いいえ。」

「ウィーンへ密使を送ったか。」

「外務省が把握する限り、その事実はございません。」

ルイは手紙を机へ置いた。

紙の端が、指の震えによって微かに揺れている。

それは恐怖から来る震えではなかった。

怒りだった。

「では、これは何だ。」

「亡命者たちは、陛下が自由に意思を表明できない状態にあると主張しております。」

「私は毎日、議会へ意見を伝えている。」

「それも強制されたものだと。」

「サン=クルーへ行き、帰ってきた。」

「監視された外出にすぎないと主張しております。」

「国外へ出る意思はないと公表した。」

「その言葉も、議会によって言わされたものだと。」

何をしても同じだった。

ルイが改革へ協力すれば、強制されたのだと言う。

ルイがパリへ残れば、拘束されているのだと言う。

ルイが外国軍を拒絶すれば、拒絶するよう脅されたのだと言う。

彼らの中では、すでに結論が決まっている。

国王は救援を望んでいる。

その結論に合わない言葉は、すべて偽物として扱われる。

「国王本人が何を言っても、国王の意思とは認めないのか。」

外務大臣は答えなかった。

ルイは椅子から立ち上がった。

窓の外では、庭園の木々が夏の風に揺れている。

柵の向こうには市民がいる。

兵士もいる。

議会の代表者もいる。

確かに、完全な自由があるとは言えない。

国王という立場にある以上、どこへでも好きに行けるわけではない。

だが、少なくとも今のルイは、自分の意思で宮殿へ残っていた。

逃げようと思えば、逃げるための計画を考えることはできた。

それをしなかった。

怖くても残ることを、自分で選んだ。

その選択を、国外の者たちは認めようとしない。

「彼らは、私を救いたいのではない。」

ルイは呟いた。

「陛下。」

「彼らが救いたいのは、自分たちの中にいる国王だ。」

「改革を拒み、議会を憎み、外国軍とともにパリへ戻る国王。」

「そのような国王が現実には存在しないから、私の名前を与えた。」

外務大臣は慎重に言葉を選んだ。

「亡命者の中には、純粋に陛下と王妃陛下の安全を案じている者もいるでしょう。」

「分かっている。」

ルイは振り返った。

「だが、善意なら何をしてもよいわけではない。」

「私を守るためなら、私の意思を無視してよいということにはならない。」

ルイは再び手紙を取った。

宛先には、神聖ローマ皇帝レオポルト二世と、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の名が書かれている。

どちらも強大な軍隊を持つ君主だった。

彼らがフランス国境へ兵を動かせば、国民議会はそれを単なる威嚇とは受け取らない。

革命を武力で潰すための準備だと考える。

民衆も同じだった。

外国軍が王家を救うために来る。

その噂が広がるだけで、ルイとマリーへ向けられる疑いは再び強くなる。

サン=クルー以来、何度も約束を守ることで積み上げてきた信頼が崩れる。

「この手紙は、すでにウィーンへ届いたのか。」

「数日中には届くと考えられます。」

「ベルリンにも。」

「はい。」

ルイは短く息を吐いた。

「マリーを呼んでくれ。」

⸻

しばらくして、マリー・アントワネットが執務室へ入ってきた。

ルイは何も説明せず、亡命者の手紙を渡した。

マリーは立ったまま読み始めた。

最初は落ち着いていた。

だが、読み進めるにつれて表情が曇った。

『陛下は、ヨーロッパ諸君主による速やかな介入を望んでいる。』

その一文まで読むと、マリーは顔を上げた。

「あなたは、頼んでいませんね。」

「頼んでいない。」

「私も、兄へそのような手紙は書いていません。」

「ああ。」

マリーはもう一度、手紙へ目を落とした。

「ですが。」

ルイは黙って続きを待った。

「兄が私たちの安全を心配するのは当然です。」

「分かっている。」

「兄は、フランスを征服したいわけではありません。」

「それも分かっている。」

「ならば、事情を説明すればよいのではありませんか。」

「説明するつもりだ。」

ルイは答えた。

「ただし、曖昧な言葉ではいけない。」

マリーの顔に不安が浮かんだ。

「どのように書くのですか。」

「外国軍を求めていないと書く。」

「国境へ兵を集めないよう求める。」

「亡命者に私の意思を代弁する権利はないと伝える。」

マリーは手紙を持ったまま、しばらく動かなかった。

「もし。」

「もし何だ。」

「本当に危険が迫ったら。」

彼女の声が小さくなる。

「宮殿へ、再び群衆が押し寄せたら。」

「子どもたちが危険にさらされたら。」

「そのとき、兄の軍隊が近くにいれば、助けを求められるかもしれません。」

ルイは答えられなかった。

マリーの恐怖は理解できた。

彼女もまた、前世の処刑について知っている。

宮殿への襲撃。

家族との別離。

裁判。

そして断頭台。

ルイから聞かされた記憶でしかなくても、自分と子どもたちが辿るかもしれない未来として、彼女の心へ刻み込まれている。

外国の軍隊は、恐ろしい存在であると同時に、最後の逃げ道にも見える。

「私も。」

ルイはようやく口を開いた。

「助けてほしいと思うことはある。」

「夜になると、兵士に囲まれた宮殿を思い出す。」

「国民衛兵ではない。」

「私たちを守るはずだった兵士たちが倒れ、群衆が階段を上ってくる光景だ。」

ルイの呼吸がわずかに乱れた。

マリーが近づき、その手を握った。

「だからこそ、国境の向こうに軍隊がいれば安心できるという気持ちは分かる。」

「ですが。」

「外国軍が動けば、議会は私たちを敵だと思う。」

「民衆も、私たちがフランスへ外国兵を呼び込んだと思う。」

「そうなれば、その軍隊が到着する前に、私たちは再び囚人になる。」

マリーは何も言わなかった。

「助けを求めることと、外国軍を国境へ呼ぶことは違う。」

ルイは続けた。

「君の兄へ、家族として心配してくれることへの感謝は伝える。」

「だが、フランス国王として、軍事介入は拒絶する。」

「それが、今のあなたの意思なのですね。」

「ああ。」

「誰かに言わされているのではなく。」

「ああ。」

マリーはゆっくりと頷いた。

「ならば、私も署名します。」

「よいのか。」

「兄へ助けを求めたい気持ちはあります。」

「子どもたちだけでも、ウィーンへ送りたいと思うこともあります。」

彼女は苦しそうに微笑んだ。

「ですが、恐怖から秘密の手紙を書けば、私たちはまた同じ場所へ戻ってしまうのでしょう。」

ルイはマリーの手を強く握った。

「秘密にはしない。」

「ええ。」

「誰に見られても困らない手紙を、一通だけ書こう。」

⸻

その日の午後。

外務大臣と数人の官吏が、国王執務室へ集められた。

机の上には、皇帝レオポルト二世へ送る書簡の草案が置かれている。

外務大臣は慎重な案を用意していた。

王家の安全に対する懸念には感謝する。

フランス国内の混乱が続いていることは認める。

だが、現時点で軍事的な行動は求めない。

外交文書としては穏当な内容だった。

しかしルイは、最初の草案を読み終えると首を横に振った。

「これでは弱い。」

「陛下。」

「現時点では求めない、では駄目だ。」

「将来は求めるかもしれないと読める。」

外務大臣は答えた。

「外交文書では、将来の選択肢を完全に閉ざさないことも必要でございます。」

「その選択肢があると思われるだけで、私たちは疑われる。」

「ですが、情勢が変わる可能性もございます。」

「情勢が変わったときには、そのとき改めて判断する。」

ルイは草案を机へ戻した。

「今、私が頼んでいないことを明確にしたい。」

官吏の一人が口を開く。

「それでは、公開用の文書では軍事介入を明確に拒絶し、皇帝陛下へ送る親書で事情を説明するのはいかがでしょうか。」

ルイはその官吏を見た。

「二通作るのか。」

「はい。」

「一通は議会と国民へ。」

「もう一通は、皇帝陛下だけがお読みになるものとして。」

「内容を変えるのか。」

「完全に異なる内容ではございません。」

官吏は慌てて説明した。

「ただ、親族間でなければ伝えられない懸念や、王家が置かれている実情を、より率直に記すことができます。」

確かに合理的な提案だった。

外交には、公開される言葉と、秘密裏に交わされる言葉がある。

すべてを公表すれば、交渉にならない場合もある。

だが、ルイは前世を知っていた。

表向きは憲法へ忠誠を誓いながら、裏では外国君主へ助力を求める。

その矛盾は、やがてすべて明るみに出る。

秘密の文書。

隠された金庫。

国外との連絡。

一つ一つが、国王は最初から革命を裏切るつもりだったという証拠に変わる。

「公開されたら困る手紙は書かない。」

ルイは言った。

「陛下。」

「皇帝が公表するつもりはないと約束しても、手紙は残る。」

「使者が捕まるかもしれない。」

「書記官が写しを取るかもしれない。」

「亡命者へ渡るかもしれない。」

「そして一度書いた言葉は、私の手を離れる。」

外務大臣は沈黙した。

「議会へ見せる手紙と、皇帝へ送る手紙を同じものにする。」

「暗号も使わない。」

「通常の外交使節を通じて送る。」

「発送記録も残す。」

「陛下、それでは皇帝陛下が、王家の窮状を理解されない可能性がございます。」

「窮状を誇張して外国軍を動かせば、もっと悪い窮状になる。」

ルイは新しい紙を自分の前へ置いた。

「私が書く。」

羽根ペンへインクをつける。

最初の一行を書こうとしたところで、手が止まった。

相手は、神聖ローマ皇帝だった。

同時に、妻の兄でもある。

単なる外交上の相手ではない。

マリーと子どもたちを案じている人間へ、助けは必要ないと伝えなければならない。

ルイは一度目を閉じた。

それから、ゆっくりと書き始めた。

『神聖ローマ皇帝レオポルト二世陛下へ。』

『フランス国外へ出た一部の者が、私の名において援助を求めているとの報告を受けました。』

『私は、彼らへそのような権限を与えておりません。』

『私と家族は、現在パリにおります。』

『我々の行動には法律による制限がありますが、国外へ脱出する意思はなく、自らの判断によってフランスに残っています。』

『私は国民議会とともに憲法制定を進め、王国の改革へ協力しています。』

『外国軍をフランス国境へ集結させることを望んでおりません。』

『そのような行動は、私と国民との間に再び疑念を生じさせ、かえって王妃と子どもたちの安全を脅かします。』

『私の許可なく、私の名を用いて軍事援助を求める者の言葉を、フランス国王の意思として受け取らないでいただきたい。』

ルイはそこで筆を止めた。

公的な文面は、これで十分だった。

だが、最後にもう一つだけ書き加えた。

『兄として、妹とその家族を案じてくださることには、心より感謝します。』

『しかし君主として、妹の国へ兵を向けないでいただきたい。』

ルイは署名した。

そして紙をマリーへ渡した。

マリーは最初から最後まで、時間をかけて読んだ。

最後の二行に差しかかると、その目が潤んだ。

「兄は、怒るでしょうか。」

「分からない。」

「私たちを見捨てるかもしれません。」

「それも分からない。」

マリーは羽根ペンを取った。

「それでも、今はこれが必要なのですね。」

「ああ。」

彼女はルイの署名の隣へ、自分の名を書いた。

マリー・アントワネット。

フランス王妃。

その署名は、兄へ救援を求めるものではなかった。

兄の軍隊を拒絶するための署名だった。

⸻

翌日。

国民議会。

議長の机の上に、ルイが皇帝レオポルト二世へ送る書簡の写しが置かれていた。

書簡はまだ国外へ発送されていない。

ルイは、最初に議会へ内容を示すことを選んだ。

議長が全文を読み上げる。

議場は、異様な静けさに包まれていた。

国王が外国軍の介入を拒絶する。

亡命貴族へ、国王の名を使う権利はないと宣言する。

それは急進派にとっても、穏健派にとっても予想外の内容だった。

朗読が終わると、改革派の席から拍手が起こった。

穏健な立憲王政派も机を叩いた。

だが、すべての議員が納得したわけではない。

急進派の一人が立ち上がる。

「確認したい。」

「この書簡以外に、皇帝へ送られる文書は存在しないのですか。」

外務大臣が答える。

「存在しません。」

「暗号による指示は。」

「ありません。」

「王妃陛下が、個人的な手紙を送っている可能性は。」

議場がざわめいた。

外務大臣は、すぐには答えられなかった。

王妃の私信まで、外務省が完全に管理しているわけではない。

その沈黙を見て、急進派議員は声を強めた。

「表向きは介入を拒みながら、裏では救援を求めることもできる。」

「国王の言葉だけで、我々に何を信じろというのです。」

そのとき、議場後方の扉が開いた。

ルイが入ってきた。

議員たちが一斉に振り返る。

事前に知らされていなかった国王の登場に、議場は騒然となった。

ルイは護衛を入口へ残し、一人で中央へ進んだ。

手には外務省の記録簿を持っている。

「疑うのは当然だ。」

議員たちの声が静まっていく。

「これまで王室は、多くのことを秘密にしてきた。」

「外国との交渉。」

「財政の実態。」

「宮廷の支出。」

「議会へ示した言葉と、宮廷で語られた言葉が異なることもあった。」

「その積み重ねが、現在の不信を生んだ。」

ルイは記録簿を議長の机へ置いた。

「皇帝へ送る書簡は一通だけだ。」

「発送する使者の名。」

「出発日時。」

「通過予定地。」

「書簡の写し。」

「すべて、この記録簿へ記載する。」

「議会から監査人を出してもよい。」

急進派議員が尋ねる。

「王妃陛下の私信については。」

「王妃も、この書簡へ署名した。」

「別の手紙は送らない。」

「それを、どう証明されるのです。」

ルイは議員を見つめた。

「完全に証明することはできない。」

ざわめきが広がる。

「私が夜中に誰かへ紙を渡す可能性まで、法律で消すことはできない。」

「ならば。」

「だから、行動で示す。」

ルイは言葉を遮った。

「今日、手紙を一通だけ公開しても、信頼されないことは分かっている。」

「明日も。」

「一月後も。」

「一年後も。」

「秘密の救援要請を送らなかったという事実を積み重ねるしかない。」

議場は静かになった。

六月二十日を何事もなく過ごしたときと同じだった。

信頼は、一度の宣言では戻らない。

何度も同じ約束を守るしかない。

「だが、一つだけ今ここで明確にしておく。」

ルイの声が低くなる。

「私の許可なく、私の名において外国へ軍事援助を求める者は、私の忠臣ではない。」

議員たちが息を呑んだ。

「私を救うという者が、私の意思を無視してはならない。」

「王権を守るという者が、フランス国王の名を偽ってはならない。」

「彼らが守ろうとしているものは、私ではない。」

「彼ら自身の特権だ。」

今度の拍手は、先ほどよりも大きかった。

改革派だけではない。

一部の急進派議員まで、机を叩いていた。

ただし、それは国王を完全に信頼したという意味ではなかった。

国王が外国軍を拒絶する言葉を、公の議場で口にした。

その事実を支持しているにすぎない。

それでもルイにとっては十分だった。

この場で必要なのは、全面的な信頼ではない。

国王と議会が、外国軍の介入を拒むという一点で同じ側に立つことだった。

⸻

その日の午後。

テュイルリー宮殿前の掲示板へ、皇帝レオポルト二世に宛てた書簡の全文が貼り出された。

市民たちが集まり、声を出して読み上げる。

「国王は、外国軍を求めていないそうだ。」

「本当にそう思っているのか。」

「王妃も署名している。」

「オーストリア女が、自分の兄へ兵を出すなと頼んだのか。」

「表向きだけかもしれない。」

「だが、少なくとも公に拒絶した。」

新聞社も号外を出した。

王党派の新聞は、国王が外国の力に頼らず、フランス国内の和解を望んでいると称賛した。

改革派の新聞は、国王が立憲君主として責任ある判断を示したと評価した。

急進派の新聞は、王家の言葉を信用してはならないと警告しながらも、外国軍拒絶の宣言そのものは歓迎した。

一方、亡命貴族に近い新聞は、まったく違う解釈を載せた。

『国王陛下は、武装した議会の監視下で書簡を書かされた。』

『王妃陛下の署名も、自由な意思によるものではない。』

『この書簡こそ、国王一家が救援を必要としている証拠である。』

ルイが何を言っても、彼らの結論は変わらなかった。

外国軍を求めれば、救援の要請。

求めないと言えば、強制されている証拠。

沈黙すれば、声を上げる自由を奪われている証拠。

国王の意思を無視するための理屈は、いくらでも作ることができた。

⸻

数日後。

神聖ローマ帝国領内。

皇帝レオポルト二世の滞在する宮殿へ、二つの書簡が届いた。

一つは、フランスから亡命した貴族たちによるもの。

もう一つは、フランス国王ルイ十六世と王妃マリー・アントワネットによるものだった。

レオポルトは、まず亡命者の書簡を読んだ。

そこには、パリの状況が悲惨な言葉で記されている。

国王は幽閉されている。

王妃は群衆から脅迫されている。

王太子の命も危険にさらされている。

国民議会は王権を奪い、教会を破壊し、フランスの伝統を踏みにじっている。

今すぐヨーロッパ諸国が共同で圧力をかけなければ、王家は滅ぼされる。

レオポルトは表情を変えず、最後まで読み終えた。

次に、ルイとマリーの書簡を開いた。

そこには、助けを求める言葉はなかった。

国外へ逃げる意思もない。

軍を国境へ集めることも望まない。

亡命者へ、自分たちの意思を代弁する権利は与えていない。

文末には、妹の筆跡による署名があった。

レオポルトは、その署名を長く見つめた。

「陛下。」

側近が声を掛ける。

「亡命者の使者が、お返事を求めております。」

「会おう。」

やがて、正装したフランス人の貴族が部屋へ通された。

彼は深く頭を下げた。

「皇帝陛下。」

「フランス国王陛下と王妃陛下を救うため、どうかお力をお貸しください。」

レオポルトは机の上の二通を指した。

「フランス国王本人は、軍事介入を求めていない。」

貴族は顔を上げた。

「その書簡は、自由な意思によるものではございません。」

「なぜ分かる。」

「陛下はパリで監視されております。」

「国王はサン=クルーへ行き、戻ったと聞いている。」

「民衆に囲まれた外出にすぎません。」

「国外へ出る意思はないと、自ら議会で表明した。」

「言わされたのでございます。」

「外国軍を求めていないとも書いている。」

「それこそ、陛下が自由を奪われている証拠です。」

レオポルトは椅子へ深く腰掛けた。

「では、国王が何と言えば、自由な意思だと認めるのだ。」

貴族は一瞬、言葉を失った。

「国王が助けを求めれば、それを本心とする。」

「助けを求めなければ、強制された言葉とする。」

「沈黙すれば、救援を望んでいるとする。」

「違うか。」

「我々は、陛下の置かれた状況を理解しているのでございます。」

「本人よりもか。」

貴族は答えられなかった。

レオポルトはルイの手紙を持ち上げた。

「私は、フランス国王を救うために、フランス国王の言葉を無視せよと言われているのか。」

「国王陛下は、正常な判断を下せる状況にはおられません。」

「ならば、誰が正常な判断を下す。」

「我々、忠実な臣下が。」

その返答を聞いた瞬間、レオポルトの目が細くなった。

亡命者たちが求めているものを理解した。

彼らはルイを救おうとしている。

だが、自分たちの望むルイだけを救おうとしている。

改革へ協力するルイ。

特権の廃止を認めるルイ。

国民議会とともに憲法を作るルイ。

そのような国王は、彼らにとって本物ではない。

彼らが求めているのは、革命以前の秩序へ戻る国王だった。

「軍を動かすつもりはない。」

レオポルトは告げた。

貴族の顔色が変わった。

「皇帝陛下。」

「少なくとも、フランス国王本人が拒絶している間は動かさない。」

「しかし、このままでは王家が。」

「妹とその家族の安全については、外交を通じて確認する。」

「必要ならば、フランス政府へ正式な照会を行う。」

「だが、国境へ兵を集めることはしない。」

貴族は食い下がった。

「プロイセン国王陛下も、フランスの混乱を憂慮しておられます。」

「プロイセンとは、私が直接話す。」

「では、列強による共同声明を。」

レオポルトはしばらく考えた。

完全に何もしないわけにはいかなかった。

革命思想が国境を越えて広がることは、ヨーロッパの君主たちにとって無視できない問題だった。

さらに、フランス国内の情勢が今後も穏やかに進む保証はない。

今日、ルイが自由な意思で改革へ協力していても、明日には王権が廃止されるかもしれない。

マリーと子どもたちが、本当に危険へさらされる可能性もある。

「フランス国王の地位が、ヨーロッパ諸国にとって無関係であるとは言わない。」

レオポルトは答えた。

「プロイセンをはじめ、各国との協議は続ける。」

亡命貴族の表情に希望が戻る。

「では。」

「だが、フランス国王の明確な意思に反して、救援を名目とする軍事行動を認めることはできない。」

レオポルトは二通の手紙を重ねた。

「今後、国王の名において何かを求めるのであれば、本人の署名だけでは足りない。」

「フランス政府の正式な外交経路を通せ。」

「それができない要請は、国王の要請とは認めない。」

謁見は終わった。

亡命貴族は深く頭を下げ、部屋を出た。

だが、その顔には納得した様子がなかった。

⸻

宮殿を出た亡命貴族は、待っていた仲間の馬車へ乗り込んだ。

「皇帝は。」

仲間が尋ねる。

「動かない。」

「国王の手紙を信じたのか。」

「今のところは。」

馬車が走り始める。

石畳の振動が車内へ伝わる。

「どうする。」

亡命貴族は窓の外を見た。

ウィーンが駄目なら、ベルリンへ行く。

プロイセンが駄目なら、ロシアへ。

それでも動かないなら、国境の諸侯へ直接働きかける。

王弟アルトワ伯の名を使うこともできる。

軍資金を集め、亡命者だけで部隊を作ることもできる。

「国王陛下は自由ではない。」

彼は言った。

「だから、あの手紙も陛下の本心ではない。」

「だが、皇帝はそう考えなかった。」

「ならば、本心でないことを証明する必要がある。」

「どうやって。」

亡命貴族は答えなかった。

国王が救援を求めているという証拠がない。

ならば、証拠を作ればよい。

国王の筆跡。

王室の封蝋。

国外の同志だけが知る符号。

それらを揃えた手紙が一通あれば、外国の宮廷を動かせるかもしれない。

たとえ軍隊を動かせなくても、フランス国内へ疑念を植えつけることはできる。

国王は表では革命へ協力し、裏では外国軍を求めている。

その噂が広がれば、国王と議会の関係は再び崩れる。

そして追い詰められたルイは、最後には自分たちのもとへ来るしかなくなる。

「国王陛下は、まだ御自身の置かれた状況を理解しておられない。」

亡命貴族は言った。

「我々が、陛下に代わって決断しなければならない。」

馬車は速度を上げた。

それはヴァレンヌへ向かう馬車ではなかった。

国王一家も乗っていなかった。

だが、その車内では、国王の意思とは無関係に、国王を救うための計画が進められていた。

⸻

同じ頃。

パリ。

ルイは、皇帝への書簡が正式に発送されたという報告を受けていた。

使者の名。

出発時刻。

予定経路。

携行する文書。

そのすべてが記録され、国民議会の監査人にも写しが渡された。

「これで、少なくとも私の意思は伝わる。」

ルイは言った。

マリーは窓の側に立っていた。

「兄は理解してくれるでしょうか。」

「分からない。」

「亡命者たちは諦めるでしょうか。」

ルイはしばらく黙った。

「諦めないだろう。」

「なぜ、そう思うのですか。」

「彼らが忠誠を誓っている相手は、私ではないからだ。」

ルイは机の上に残された、亡命者の書簡の写しを見た。

「彼らは王を守ろうとしている。」

「だが、その王は私ではない。」

「彼らの記憶の中にいる、改革以前の国王だ。」

マリーは不安そうに腕を抱いた。

「ならば、どうするのですか。」

「言い続ける。」

「私の名を使うなと。」

「それでも使われたら。」

「偽物だと証明する。」

「証明できなければ。」

ルイの手がわずかに震えた。

一通の偽書簡。

偽造された署名。

秘密の救援要請。

それが議会へ届けば、どれほど否定しても疑いは残る。

国王が本物だと言えば本物になる時代は終わった。

今は、国王の言葉さえ証拠を求められる。

「そのときは。」

ルイは自分の震える手を見つめた。

「私が何を言ったかではなく、何をしてきたかで判断してもらうしかない。」

マリーが近づき、その手を包んだ。

六月二十日。

ルイは馬車へ乗らなかった。

六月二十一日。

宮殿で朝を迎えた。

そして六月の終わり。

ルイは、外国軍による救援を自ら拒絶した。

一日ずつ。

一つずつ。

前世とは違う選択を積み重ねている。

だが、歴史を変えようとしているのは、ルイだけではなかった。

国境の外では、別の未来を望む者たちが動いている。

彼らは国王の命令を待たない。

国王の同意も必要としない。

国王の言葉が自分たちの望みと違えば、その言葉を偽物と決めつける。

そして、ついには自分たちの望む言葉を、国王の名で作ろうとしていた。

ヴァレンヌへ向かう馬車は走らなかった。

その代わり。

存在しない救援要請を載せた手紙が、国境を越えようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。