私の名を使うな
第六十五話 「私の名を使うな」
一七九一年六月末。
パリ。
テュイルリー宮殿。
六月二十日が何事もなく過ぎてから、数日が経っていた。
国王一家は宮殿から逃げなかった。
東へ向かう大型馬車は用意されなかった。
国境付近の部隊へ、国王を迎えるための命令が送られることもなかった。
ヴァレンヌという小さな町の名が、パリ中で叫ばれることもなかった。
国民議会は通常どおり審議を続けている。
新聞も、地方裁判所の整備や小麦価格、アッシニャの流通状況について報じていた。
ルイは、一日ずつ歴史を変えるという言葉どおり、再び日々の公務へ戻っていた。
しかし、彼が知らないところで、別の動きが始まっていた。
国王一家が逃げなかったことを、誰もが喜んでいたわけではない。
国境の外に集まった亡命貴族たちは、ルイが自分たちのもとへ来る日を待っていた。
改革によって失われた特権を取り戻すため。
身分による秩序を復活させるため。
国民議会を解散させるため。
そして、自分たちこそが国王に忠実な臣下であると証明するため。
彼らには、国王という旗印が必要だった。
だが、ルイは来なかった。
助けを求める手紙も送らなかった。
外国軍の支援を要請する命令も出さなかった。
だから彼らは、待つことをやめた。
国王本人が来ないのなら、国王の名前だけを使うことにした。
⸻
午前。
国王執務室。
ルイは地方交換所から届いた報告書を読んでいた。
南部のある町で、小麦との交換を求める者が急増している。
凶作ではない。
輸送の遅れでもない。
近隣の商人が、アッシニャの価値が下がるという噂を流し、小麦を買い集めているらしい。
ルイは報告書の余白へ指示を書き込んだ。
『商人を直ちに犯罪者として扱ってはならない。』
『まず在庫量、購入価格、販売予定価格を確認すること。』
『同時に、交換所の備蓄を市場へ放出し、急激な値上がりを防ぐこと。』
そこまで書いたところで、扉が叩かれた。
「陛下。」
侍従の声だった。
「外務大臣がお目通りを求めております。」
「予定にはなかったはずだ。」
「至急お伝えしたいことがあるとのことでございます。」
ルイは羽根ペンを置いた。
胸の奥に、わずかな不安が生まれる。
六月二十日は過ぎた。
だが、歴史そのものが消えたわけではない。
「通せ。」
扉が開いた。
外務大臣は、一冊の薄い書類と、封蝋の割れた手紙を持って入ってきた。
その表情は硬い。
「陛下。」
「何があった。」
「国外へ出た貴族たちの動きについて、報告が届きました。」
ルイの指先が止まった。
「亡命者か。」
「はい。」
外務大臣は机の前まで進み、手紙を差し出した。
「ライン川沿いの町から、ウィーンとベルリンへ使者が送られております。」
「目的は。」
外務大臣はすぐには答えなかった。
ルイは差し出された手紙を手に取った。
原本ではない。
国外にいる協力者が書き写し、パリへ送ったものだった。
そこには、フランス国王一家の置かれた状況が記されていた。
『国王陛下はテュイルリー宮殿に幽閉されている。』
『国民議会への協力は、武装した民衆によって強制されたものである。』
『陛下は自由を奪われ、救援を求める手紙を出すことさえ許されていない。』
『フランス国境へ軍を集結させれば、陛下に忠実な軍人と臣民は一斉に立ち上がる。』
『陛下は、ヨーロッパ諸君主による速やかな介入を望んでいる。』
ルイは最後の一文を何度も読んだ。
「私が望んでいる。」
「そのように書かれております。」
外務大臣が答えた。
「私は、いつ彼らへ頼んだ。」
「頼んでおられません。」
「外国軍を国境へ集めろと命じたか。」
「いいえ。」
「ウィーンへ密使を送ったか。」
「外務省が把握する限り、その事実はございません。」
ルイは手紙を机へ置いた。
紙の端が、指の震えによって微かに揺れている。
それは恐怖から来る震えではなかった。
怒りだった。
「では、これは何だ。」
「亡命者たちは、陛下が自由に意思を表明できない状態にあると主張しております。」
「私は毎日、議会へ意見を伝えている。」
「それも強制されたものだと。」
「サン=クルーへ行き、帰ってきた。」
「監視された外出にすぎないと主張しております。」
「国外へ出る意思はないと公表した。」
「その言葉も、議会によって言わされたものだと。」
何をしても同じだった。
ルイが改革へ協力すれば、強制されたのだと言う。
ルイがパリへ残れば、拘束されているのだと言う。
ルイが外国軍を拒絶すれば、拒絶するよう脅されたのだと言う。
彼らの中では、すでに結論が決まっている。
国王は救援を望んでいる。
その結論に合わない言葉は、すべて偽物として扱われる。
「国王本人が何を言っても、国王の意思とは認めないのか。」
外務大臣は答えなかった。
ルイは椅子から立ち上がった。
窓の外では、庭園の木々が夏の風に揺れている。
柵の向こうには市民がいる。
兵士もいる。
議会の代表者もいる。
確かに、完全な自由があるとは言えない。
国王という立場にある以上、どこへでも好きに行けるわけではない。
だが、少なくとも今のルイは、自分の意思で宮殿へ残っていた。
逃げようと思えば、逃げるための計画を考えることはできた。
それをしなかった。
怖くても残ることを、自分で選んだ。
その選択を、国外の者たちは認めようとしない。
「彼らは、私を救いたいのではない。」
ルイは呟いた。
「陛下。」
「彼らが救いたいのは、自分たちの中にいる国王だ。」
「改革を拒み、議会を憎み、外国軍とともにパリへ戻る国王。」
「そのような国王が現実には存在しないから、私の名前を与えた。」
外務大臣は慎重に言葉を選んだ。
「亡命者の中には、純粋に陛下と王妃陛下の安全を案じている者もいるでしょう。」
「分かっている。」
ルイは振り返った。
「だが、善意なら何をしてもよいわけではない。」
「私を守るためなら、私の意思を無視してよいということにはならない。」
ルイは再び手紙を取った。
宛先には、神聖ローマ皇帝レオポルト二世と、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の名が書かれている。
どちらも強大な軍隊を持つ君主だった。
彼らがフランス国境へ兵を動かせば、国民議会はそれを単なる威嚇とは受け取らない。
革命を武力で潰すための準備だと考える。
民衆も同じだった。
外国軍が王家を救うために来る。
その噂が広がるだけで、ルイとマリーへ向けられる疑いは再び強くなる。
サン=クルー以来、何度も約束を守ることで積み上げてきた信頼が崩れる。
「この手紙は、すでにウィーンへ届いたのか。」
「数日中には届くと考えられます。」
「ベルリンにも。」
「はい。」
ルイは短く息を吐いた。
「マリーを呼んでくれ。」
⸻
しばらくして、マリー・アントワネットが執務室へ入ってきた。
ルイは何も説明せず、亡命者の手紙を渡した。
マリーは立ったまま読み始めた。
最初は落ち着いていた。
だが、読み進めるにつれて表情が曇った。
『陛下は、ヨーロッパ諸君主による速やかな介入を望んでいる。』
その一文まで読むと、マリーは顔を上げた。
「あなたは、頼んでいませんね。」
「頼んでいない。」
「私も、兄へそのような手紙は書いていません。」
「ああ。」
マリーはもう一度、手紙へ目を落とした。
「ですが。」
ルイは黙って続きを待った。
「兄が私たちの安全を心配するのは当然です。」
「分かっている。」
「兄は、フランスを征服したいわけではありません。」
「それも分かっている。」
「ならば、事情を説明すればよいのではありませんか。」
「説明するつもりだ。」
ルイは答えた。
「ただし、曖昧な言葉ではいけない。」
マリーの顔に不安が浮かんだ。
「どのように書くのですか。」
「外国軍を求めていないと書く。」
「国境へ兵を集めないよう求める。」
「亡命者に私の意思を代弁する権利はないと伝える。」
マリーは手紙を持ったまま、しばらく動かなかった。
「もし。」
「もし何だ。」
「本当に危険が迫ったら。」
彼女の声が小さくなる。
「宮殿へ、再び群衆が押し寄せたら。」
「子どもたちが危険にさらされたら。」
「そのとき、兄の軍隊が近くにいれば、助けを求められるかもしれません。」
ルイは答えられなかった。
マリーの恐怖は理解できた。
彼女もまた、前世の処刑について知っている。
宮殿への襲撃。
家族との別離。
裁判。
そして断頭台。
ルイから聞かされた記憶でしかなくても、自分と子どもたちが辿るかもしれない未来として、彼女の心へ刻み込まれている。
外国の軍隊は、恐ろしい存在であると同時に、最後の逃げ道にも見える。
「私も。」
ルイはようやく口を開いた。
「助けてほしいと思うことはある。」
「夜になると、兵士に囲まれた宮殿を思い出す。」
「国民衛兵ではない。」
「私たちを守るはずだった兵士たちが倒れ、群衆が階段を上ってくる光景だ。」
ルイの呼吸がわずかに乱れた。
マリーが近づき、その手を握った。
「だからこそ、国境の向こうに軍隊がいれば安心できるという気持ちは分かる。」
「ですが。」
「外国軍が動けば、議会は私たちを敵だと思う。」
「民衆も、私たちがフランスへ外国兵を呼び込んだと思う。」
「そうなれば、その軍隊が到着する前に、私たちは再び囚人になる。」
マリーは何も言わなかった。
「助けを求めることと、外国軍を国境へ呼ぶことは違う。」
ルイは続けた。
「君の兄へ、家族として心配してくれることへの感謝は伝える。」
「だが、フランス国王として、軍事介入は拒絶する。」
「それが、今のあなたの意思なのですね。」
「ああ。」
「誰かに言わされているのではなく。」
「ああ。」
マリーはゆっくりと頷いた。
「ならば、私も署名します。」
「よいのか。」
「兄へ助けを求めたい気持ちはあります。」
「子どもたちだけでも、ウィーンへ送りたいと思うこともあります。」
彼女は苦しそうに微笑んだ。
「ですが、恐怖から秘密の手紙を書けば、私たちはまた同じ場所へ戻ってしまうのでしょう。」
ルイはマリーの手を強く握った。
「秘密にはしない。」
「ええ。」
「誰に見られても困らない手紙を、一通だけ書こう。」
⸻
その日の午後。
外務大臣と数人の官吏が、国王執務室へ集められた。
机の上には、皇帝レオポルト二世へ送る書簡の草案が置かれている。
外務大臣は慎重な案を用意していた。
王家の安全に対する懸念には感謝する。
フランス国内の混乱が続いていることは認める。
だが、現時点で軍事的な行動は求めない。
外交文書としては穏当な内容だった。
しかしルイは、最初の草案を読み終えると首を横に振った。
「これでは弱い。」
「陛下。」
「現時点では求めない、では駄目だ。」
「将来は求めるかもしれないと読める。」
外務大臣は答えた。
「外交文書では、将来の選択肢を完全に閉ざさないことも必要でございます。」
「その選択肢があると思われるだけで、私たちは疑われる。」
「ですが、情勢が変わる可能性もございます。」
「情勢が変わったときには、そのとき改めて判断する。」
ルイは草案を机へ戻した。
「今、私が頼んでいないことを明確にしたい。」
官吏の一人が口を開く。
「それでは、公開用の文書では軍事介入を明確に拒絶し、皇帝陛下へ送る親書で事情を説明するのはいかがでしょうか。」
ルイはその官吏を見た。
「二通作るのか。」
「はい。」
「一通は議会と国民へ。」
「もう一通は、皇帝陛下だけがお読みになるものとして。」
「内容を変えるのか。」
「完全に異なる内容ではございません。」
官吏は慌てて説明した。
「ただ、親族間でなければ伝えられない懸念や、王家が置かれている実情を、より率直に記すことができます。」
確かに合理的な提案だった。
外交には、公開される言葉と、秘密裏に交わされる言葉がある。
すべてを公表すれば、交渉にならない場合もある。
だが、ルイは前世を知っていた。
表向きは憲法へ忠誠を誓いながら、裏では外国君主へ助力を求める。
その矛盾は、やがてすべて明るみに出る。
秘密の文書。
隠された金庫。
国外との連絡。
一つ一つが、国王は最初から革命を裏切るつもりだったという証拠に変わる。
「公開されたら困る手紙は書かない。」
ルイは言った。
「陛下。」
「皇帝が公表するつもりはないと約束しても、手紙は残る。」
「使者が捕まるかもしれない。」
「書記官が写しを取るかもしれない。」
「亡命者へ渡るかもしれない。」
「そして一度書いた言葉は、私の手を離れる。」
外務大臣は沈黙した。
「議会へ見せる手紙と、皇帝へ送る手紙を同じものにする。」
「暗号も使わない。」
「通常の外交使節を通じて送る。」
「発送記録も残す。」
「陛下、それでは皇帝陛下が、王家の窮状を理解されない可能性がございます。」
「窮状を誇張して外国軍を動かせば、もっと悪い窮状になる。」
ルイは新しい紙を自分の前へ置いた。
「私が書く。」
羽根ペンへインクをつける。
最初の一行を書こうとしたところで、手が止まった。
相手は、神聖ローマ皇帝だった。
同時に、妻の兄でもある。
単なる外交上の相手ではない。
マリーと子どもたちを案じている人間へ、助けは必要ないと伝えなければならない。
ルイは一度目を閉じた。
それから、ゆっくりと書き始めた。
『神聖ローマ皇帝レオポルト二世陛下へ。』
『フランス国外へ出た一部の者が、私の名において援助を求めているとの報告を受けました。』
『私は、彼らへそのような権限を与えておりません。』
『私と家族は、現在パリにおります。』
『我々の行動には法律による制限がありますが、国外へ脱出する意思はなく、自らの判断によってフランスに残っています。』
『私は国民議会とともに憲法制定を進め、王国の改革へ協力しています。』
『外国軍をフランス国境へ集結させることを望んでおりません。』
『そのような行動は、私と国民との間に再び疑念を生じさせ、かえって王妃と子どもたちの安全を脅かします。』
『私の許可なく、私の名を用いて軍事援助を求める者の言葉を、フランス国王の意思として受け取らないでいただきたい。』
ルイはそこで筆を止めた。
公的な文面は、これで十分だった。
だが、最後にもう一つだけ書き加えた。
『兄として、妹とその家族を案じてくださることには、心より感謝します。』
『しかし君主として、妹の国へ兵を向けないでいただきたい。』
ルイは署名した。
そして紙をマリーへ渡した。
マリーは最初から最後まで、時間をかけて読んだ。
最後の二行に差しかかると、その目が潤んだ。
「兄は、怒るでしょうか。」
「分からない。」
「私たちを見捨てるかもしれません。」
「それも分からない。」
マリーは羽根ペンを取った。
「それでも、今はこれが必要なのですね。」
「ああ。」
彼女はルイの署名の隣へ、自分の名を書いた。
マリー・アントワネット。
フランス王妃。
その署名は、兄へ救援を求めるものではなかった。
兄の軍隊を拒絶するための署名だった。
⸻
翌日。
国民議会。
議長の机の上に、ルイが皇帝レオポルト二世へ送る書簡の写しが置かれていた。
書簡はまだ国外へ発送されていない。
ルイは、最初に議会へ内容を示すことを選んだ。
議長が全文を読み上げる。
議場は、異様な静けさに包まれていた。
国王が外国軍の介入を拒絶する。
亡命貴族へ、国王の名を使う権利はないと宣言する。
それは急進派にとっても、穏健派にとっても予想外の内容だった。
朗読が終わると、改革派の席から拍手が起こった。
穏健な立憲王政派も机を叩いた。
だが、すべての議員が納得したわけではない。
急進派の一人が立ち上がる。
「確認したい。」
「この書簡以外に、皇帝へ送られる文書は存在しないのですか。」
外務大臣が答える。
「存在しません。」
「暗号による指示は。」
「ありません。」
「王妃陛下が、個人的な手紙を送っている可能性は。」
議場がざわめいた。
外務大臣は、すぐには答えられなかった。
王妃の私信まで、外務省が完全に管理しているわけではない。
その沈黙を見て、急進派議員は声を強めた。
「表向きは介入を拒みながら、裏では救援を求めることもできる。」
「国王の言葉だけで、我々に何を信じろというのです。」
そのとき、議場後方の扉が開いた。
ルイが入ってきた。
議員たちが一斉に振り返る。
事前に知らされていなかった国王の登場に、議場は騒然となった。
ルイは護衛を入口へ残し、一人で中央へ進んだ。
手には外務省の記録簿を持っている。
「疑うのは当然だ。」
議員たちの声が静まっていく。
「これまで王室は、多くのことを秘密にしてきた。」
「外国との交渉。」
「財政の実態。」
「宮廷の支出。」
「議会へ示した言葉と、宮廷で語られた言葉が異なることもあった。」
「その積み重ねが、現在の不信を生んだ。」
ルイは記録簿を議長の机へ置いた。
「皇帝へ送る書簡は一通だけだ。」
「発送する使者の名。」
「出発日時。」
「通過予定地。」
「書簡の写し。」
「すべて、この記録簿へ記載する。」
「議会から監査人を出してもよい。」
急進派議員が尋ねる。
「王妃陛下の私信については。」
「王妃も、この書簡へ署名した。」
「別の手紙は送らない。」
「それを、どう証明されるのです。」
ルイは議員を見つめた。
「完全に証明することはできない。」
ざわめきが広がる。
「私が夜中に誰かへ紙を渡す可能性まで、法律で消すことはできない。」
「ならば。」
「だから、行動で示す。」
ルイは言葉を遮った。
「今日、手紙を一通だけ公開しても、信頼されないことは分かっている。」
「明日も。」
「一月後も。」
「一年後も。」
「秘密の救援要請を送らなかったという事実を積み重ねるしかない。」
議場は静かになった。
六月二十日を何事もなく過ごしたときと同じだった。
信頼は、一度の宣言では戻らない。
何度も同じ約束を守るしかない。
「だが、一つだけ今ここで明確にしておく。」
ルイの声が低くなる。
「私の許可なく、私の名において外国へ軍事援助を求める者は、私の忠臣ではない。」
議員たちが息を呑んだ。
「私を救うという者が、私の意思を無視してはならない。」
「王権を守るという者が、フランス国王の名を偽ってはならない。」
「彼らが守ろうとしているものは、私ではない。」
「彼ら自身の特権だ。」
今度の拍手は、先ほどよりも大きかった。
改革派だけではない。
一部の急進派議員まで、机を叩いていた。
ただし、それは国王を完全に信頼したという意味ではなかった。
国王が外国軍を拒絶する言葉を、公の議場で口にした。
その事実を支持しているにすぎない。
それでもルイにとっては十分だった。
この場で必要なのは、全面的な信頼ではない。
国王と議会が、外国軍の介入を拒むという一点で同じ側に立つことだった。
⸻
その日の午後。
テュイルリー宮殿前の掲示板へ、皇帝レオポルト二世に宛てた書簡の全文が貼り出された。
市民たちが集まり、声を出して読み上げる。
「国王は、外国軍を求めていないそうだ。」
「本当にそう思っているのか。」
「王妃も署名している。」
「オーストリア女が、自分の兄へ兵を出すなと頼んだのか。」
「表向きだけかもしれない。」
「だが、少なくとも公に拒絶した。」
新聞社も号外を出した。
王党派の新聞は、国王が外国の力に頼らず、フランス国内の和解を望んでいると称賛した。
改革派の新聞は、国王が立憲君主として責任ある判断を示したと評価した。
急進派の新聞は、王家の言葉を信用してはならないと警告しながらも、外国軍拒絶の宣言そのものは歓迎した。
一方、亡命貴族に近い新聞は、まったく違う解釈を載せた。
『国王陛下は、武装した議会の監視下で書簡を書かされた。』
『王妃陛下の署名も、自由な意思によるものではない。』
『この書簡こそ、国王一家が救援を必要としている証拠である。』
ルイが何を言っても、彼らの結論は変わらなかった。
外国軍を求めれば、救援の要請。
求めないと言えば、強制されている証拠。
沈黙すれば、声を上げる自由を奪われている証拠。
国王の意思を無視するための理屈は、いくらでも作ることができた。
⸻
数日後。
神聖ローマ帝国領内。
皇帝レオポルト二世の滞在する宮殿へ、二つの書簡が届いた。
一つは、フランスから亡命した貴族たちによるもの。
もう一つは、フランス国王ルイ十六世と王妃マリー・アントワネットによるものだった。
レオポルトは、まず亡命者の書簡を読んだ。
そこには、パリの状況が悲惨な言葉で記されている。
国王は幽閉されている。
王妃は群衆から脅迫されている。
王太子の命も危険にさらされている。
国民議会は王権を奪い、教会を破壊し、フランスの伝統を踏みにじっている。
今すぐヨーロッパ諸国が共同で圧力をかけなければ、王家は滅ぼされる。
レオポルトは表情を変えず、最後まで読み終えた。
次に、ルイとマリーの書簡を開いた。
そこには、助けを求める言葉はなかった。
国外へ逃げる意思もない。
軍を国境へ集めることも望まない。
亡命者へ、自分たちの意思を代弁する権利は与えていない。
文末には、妹の筆跡による署名があった。
レオポルトは、その署名を長く見つめた。
「陛下。」
側近が声を掛ける。
「亡命者の使者が、お返事を求めております。」
「会おう。」
やがて、正装したフランス人の貴族が部屋へ通された。
彼は深く頭を下げた。
「皇帝陛下。」
「フランス国王陛下と王妃陛下を救うため、どうかお力をお貸しください。」
レオポルトは机の上の二通を指した。
「フランス国王本人は、軍事介入を求めていない。」
貴族は顔を上げた。
「その書簡は、自由な意思によるものではございません。」
「なぜ分かる。」
「陛下はパリで監視されております。」
「国王はサン=クルーへ行き、戻ったと聞いている。」
「民衆に囲まれた外出にすぎません。」
「国外へ出る意思はないと、自ら議会で表明した。」
「言わされたのでございます。」
「外国軍を求めていないとも書いている。」
「それこそ、陛下が自由を奪われている証拠です。」
レオポルトは椅子へ深く腰掛けた。
「では、国王が何と言えば、自由な意思だと認めるのだ。」
貴族は一瞬、言葉を失った。
「国王が助けを求めれば、それを本心とする。」
「助けを求めなければ、強制された言葉とする。」
「沈黙すれば、救援を望んでいるとする。」
「違うか。」
「我々は、陛下の置かれた状況を理解しているのでございます。」
「本人よりもか。」
貴族は答えられなかった。
レオポルトはルイの手紙を持ち上げた。
「私は、フランス国王を救うために、フランス国王の言葉を無視せよと言われているのか。」
「国王陛下は、正常な判断を下せる状況にはおられません。」
「ならば、誰が正常な判断を下す。」
「我々、忠実な臣下が。」
その返答を聞いた瞬間、レオポルトの目が細くなった。
亡命者たちが求めているものを理解した。
彼らはルイを救おうとしている。
だが、自分たちの望むルイだけを救おうとしている。
改革へ協力するルイ。
特権の廃止を認めるルイ。
国民議会とともに憲法を作るルイ。
そのような国王は、彼らにとって本物ではない。
彼らが求めているのは、革命以前の秩序へ戻る国王だった。
「軍を動かすつもりはない。」
レオポルトは告げた。
貴族の顔色が変わった。
「皇帝陛下。」
「少なくとも、フランス国王本人が拒絶している間は動かさない。」
「しかし、このままでは王家が。」
「妹とその家族の安全については、外交を通じて確認する。」
「必要ならば、フランス政府へ正式な照会を行う。」
「だが、国境へ兵を集めることはしない。」
貴族は食い下がった。
「プロイセン国王陛下も、フランスの混乱を憂慮しておられます。」
「プロイセンとは、私が直接話す。」
「では、列強による共同声明を。」
レオポルトはしばらく考えた。
完全に何もしないわけにはいかなかった。
革命思想が国境を越えて広がることは、ヨーロッパの君主たちにとって無視できない問題だった。
さらに、フランス国内の情勢が今後も穏やかに進む保証はない。
今日、ルイが自由な意思で改革へ協力していても、明日には王権が廃止されるかもしれない。
マリーと子どもたちが、本当に危険へさらされる可能性もある。
「フランス国王の地位が、ヨーロッパ諸国にとって無関係であるとは言わない。」
レオポルトは答えた。
「プロイセンをはじめ、各国との協議は続ける。」
亡命貴族の表情に希望が戻る。
「では。」
「だが、フランス国王の明確な意思に反して、救援を名目とする軍事行動を認めることはできない。」
レオポルトは二通の手紙を重ねた。
「今後、国王の名において何かを求めるのであれば、本人の署名だけでは足りない。」
「フランス政府の正式な外交経路を通せ。」
「それができない要請は、国王の要請とは認めない。」
謁見は終わった。
亡命貴族は深く頭を下げ、部屋を出た。
だが、その顔には納得した様子がなかった。
⸻
宮殿を出た亡命貴族は、待っていた仲間の馬車へ乗り込んだ。
「皇帝は。」
仲間が尋ねる。
「動かない。」
「国王の手紙を信じたのか。」
「今のところは。」
馬車が走り始める。
石畳の振動が車内へ伝わる。
「どうする。」
亡命貴族は窓の外を見た。
ウィーンが駄目なら、ベルリンへ行く。
プロイセンが駄目なら、ロシアへ。
それでも動かないなら、国境の諸侯へ直接働きかける。
王弟アルトワ伯の名を使うこともできる。
軍資金を集め、亡命者だけで部隊を作ることもできる。
「国王陛下は自由ではない。」
彼は言った。
「だから、あの手紙も陛下の本心ではない。」
「だが、皇帝はそう考えなかった。」
「ならば、本心でないことを証明する必要がある。」
「どうやって。」
亡命貴族は答えなかった。
国王が救援を求めているという証拠がない。
ならば、証拠を作ればよい。
国王の筆跡。
王室の封蝋。
国外の同志だけが知る符号。
それらを揃えた手紙が一通あれば、外国の宮廷を動かせるかもしれない。
たとえ軍隊を動かせなくても、フランス国内へ疑念を植えつけることはできる。
国王は表では革命へ協力し、裏では外国軍を求めている。
その噂が広がれば、国王と議会の関係は再び崩れる。
そして追い詰められたルイは、最後には自分たちのもとへ来るしかなくなる。
「国王陛下は、まだ御自身の置かれた状況を理解しておられない。」
亡命貴族は言った。
「我々が、陛下に代わって決断しなければならない。」
馬車は速度を上げた。
それはヴァレンヌへ向かう馬車ではなかった。
国王一家も乗っていなかった。
だが、その車内では、国王の意思とは無関係に、国王を救うための計画が進められていた。
⸻
同じ頃。
パリ。
ルイは、皇帝への書簡が正式に発送されたという報告を受けていた。
使者の名。
出発時刻。
予定経路。
携行する文書。
そのすべてが記録され、国民議会の監査人にも写しが渡された。
「これで、少なくとも私の意思は伝わる。」
ルイは言った。
マリーは窓の側に立っていた。
「兄は理解してくれるでしょうか。」
「分からない。」
「亡命者たちは諦めるでしょうか。」
ルイはしばらく黙った。
「諦めないだろう。」
「なぜ、そう思うのですか。」
「彼らが忠誠を誓っている相手は、私ではないからだ。」
ルイは机の上に残された、亡命者の書簡の写しを見た。
「彼らは王を守ろうとしている。」
「だが、その王は私ではない。」
「彼らの記憶の中にいる、改革以前の国王だ。」
マリーは不安そうに腕を抱いた。
「ならば、どうするのですか。」
「言い続ける。」
「私の名を使うなと。」
「それでも使われたら。」
「偽物だと証明する。」
「証明できなければ。」
ルイの手がわずかに震えた。
一通の偽書簡。
偽造された署名。
秘密の救援要請。
それが議会へ届けば、どれほど否定しても疑いは残る。
国王が本物だと言えば本物になる時代は終わった。
今は、国王の言葉さえ証拠を求められる。
「そのときは。」
ルイは自分の震える手を見つめた。
「私が何を言ったかではなく、何をしてきたかで判断してもらうしかない。」
マリーが近づき、その手を包んだ。
六月二十日。
ルイは馬車へ乗らなかった。
六月二十一日。
宮殿で朝を迎えた。
そして六月の終わり。
ルイは、外国軍による救援を自ら拒絶した。
一日ずつ。
一つずつ。
前世とは違う選択を積み重ねている。
だが、歴史を変えようとしているのは、ルイだけではなかった。
国境の外では、別の未来を望む者たちが動いている。
彼らは国王の命令を待たない。
国王の同意も必要としない。
国王の言葉が自分たちの望みと違えば、その言葉を偽物と決めつける。
そして、ついには自分たちの望む言葉を、国王の名で作ろうとしていた。
ヴァレンヌへ向かう馬車は走らなかった。
その代わり。
存在しない救援要請を載せた手紙が、国境を越えようとしていた。




