二つの忠誠
第55話 「二つの忠誠」
1790年7月。
アッシニャを巡る議論が一段落した頃、国民議会には新たな法案が提出されていた。
――聖職者民事基本法。
教会財産が国家の管理下へ移り、聖職者の俸給を国家が支払う以上、教会組織も新しい行政制度に合わせて再編する。
それが法案の目的だった。
しかし、財産は帳簿によって分けられても、信仰と忠誠は数字では分けられない。
この法案は、アッシニャ以上に激しい対立を引き起こそうとしていた。
⸻
議長が木槌を打った。
「本日の議題は、フランス国内における聖職者制度の再編についてです。」
議場中央で、法案の条文が読み上げられる。
「司教区の区域を、新たに設けられた県の境界に合わせる。」
「司教および教区司祭は、地域の選挙によって選出する。」
「聖職者の俸給は、国家が支給する。」
「教会の役職を、金銭によって売買することを禁じる。」
「不必要に重複した教会組織を整理し、聖職者の待遇を統一する。」
改革派から拍手が上がった。
「ようやく司教職が一部の名門貴族によって独占されなくなる。」
「農村で働く司祭にも、十分な俸給を支払える。」
「教区と行政区画が一致すれば、救貧や教育の連携も容易になる。」
法案だけを見れば、合理的な改革だった。
これまでの司教区は、古い歴史や慣習によって複雑に入り組んでいた。
一つの行政区の中に複数の司教区があり、逆に一つの司教区が複数の地方へまたがることもある。
高位聖職者の地位は、信仰心や能力ではなく家柄によって決まることも少なくなかった。
農村の司祭が貧しい暮らしを送る一方、宮廷に近い司教は広大な屋敷と莫大な収入を持っていた。
ルイにも、改革の必要性は理解できた。
だが、問題はその方法だった。
「待っていただきたい!」
聖職者席から、鋭い声が上がる。
前回、教会財産の売却に強く反対した高位聖職者だった。
「司教や司祭を、地域住民の選挙で選ぶと申されましたか。」
「そのとおりです。」
法案を提出した議員が答える。
「聖職者も国民に奉仕する公的な役割を担います。」
「ゆえに、地域の住民が自らの司祭や司教を選ぶべきです。」
「選挙に参加する者は、全員がカトリック信徒なのですか。」
議員は一瞬、言葉を止めた。
「選挙権を持つ市民であれば、信仰にかかわらず参加できます。」
議場が大きくざわめいた。
高位聖職者は机を叩いた。
「では、カトリックの司教を、プロテスタントやユダヤ教徒、あるいは神を信じない者までが選ぶのですか。」
「これは行政上の選挙です。」
改革派の議員が反論する。
「聖職者としての資格は、別に審査されます。」
「司教は行政官ではない!」
高位聖職者の声が議場に響く。
「司教は、使徒から受け継がれてきた教会の権威によって任じられるのです。」
「投票箱から、神の権威が生まれるとお考えですか。」
改革派から反発の声が上がる。
「ならば、家柄や金銭で司教が決まる現在の仕組みは神聖なのか!」
「貴族の次男に生まれたというだけで、地方の司教座を与えられる方が正しいのか!」
「問題をすり替えるな!」
「教会の腐敗を放置するつもりか!」
議場は再び怒号に包まれた。
⸻
地方教区の司祭が、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、聖職者制度の改革には賛成です。」
その司祭は、前回の議論でも教会会計の公開に賛成していた。
「農村司祭の待遇を改善し、司教職の売買や名門による独占をなくす。」
「それは必要なことでしょう。」
「ですが、国家から俸給を受け取るからといって、我々が国家の所有物になるわけではありません。」
司祭は、議員たちを見渡した。
「国家は、我々の生活を支えることができます。」
「しかし、我々の信仰を買うことはできません。」
改革派の議員が答える。
「誰も信仰を買うとは言っていない。」
「国家が求めているのは、法律への服従です。」
「聖職者だけが、国の法律に従わなくてもよいのですか。」
「世俗の法律には従います。」
司祭は答えた。
「しかし、教会の組織や司教の任命は信仰に関わる問題です。」
「どこまでが行政で、どこからが信仰なのか。」
「それを国家だけで決めることはできません。」
ルイは、その言葉を聞きながら法案へ目を落とした。
確かに、境界は曖昧だった。
司祭の給金を決めることは行政だろう。
教会財産の会計を監査することも行政だ。
だが、司教を誰が任命するかは、行政だけの問題なのか。
教区の区域を変えることは、地図の整理にすぎないのか。
それとも、教皇の権威へ踏み込むことになるのか。
(ここで急げば、教会を二つに割る。)
ルイは知っていた。
国家の改革を受け入れる聖職者。
教皇への服従を優先し、改革を拒む聖職者。
やがて両者は同じ町、同じ村、時には同じ家族の中で争うことになる。
信仰の対立は、税や制度への反発よりも深く人々の心へ入り込む。
ルイは立ち上がった。
「一つ確認したい。」
議場が静まる。
「この法案は、教義を変更するものなのか。」
法案提出者が答える。
「いいえ、陛下。」
「信仰の内容や礼拝の方法を変えるものではありません。」
「では、司祭が何を信じるかについて、国家が命令するものではないのだな。」
「そのとおりです。」
ルイは聖職者席へ向き直った。
「ならば、そのことを法文に明記するべきだ。」
改革派の議員たちがざわめく。
「国家は、教義、秘跡、礼拝、良心の内容を命じない。」
「聖職者の選出や俸給に関する規定は、あくまで王国内の行政に関するものである。」
「その境界を曖昧にしたまま進めれば、いずれ行政の名の下に信仰へ介入する者が現れる。」
高位聖職者が尋ねる。
「それでも、教皇の承認を得ずに司教制度を変えるのですか。」
「教皇へ説明し、協議する時間を設ける。」
ルイは答えた。
「国家が教会にすべてを命令することも。」
「教会が国家の法律をすべて拒むことも。」
「どちらも認めるわけにはいかない。」
改革派の一人が不満を露わにする。
「陛下。」
「ローマの回答を待っていれば、改革はいつまでも進みません。」
「待つことと、諦めることは違う。」
ルイは静かに言った。
「急いで国を二つに割るくらいなら、説明のために数か月を使うべきだ。」
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激しい議論の末、聖職者民事基本法は修正を加えて可決された。
司教区は新たな行政区画に合わせて再編される。
司教や司祭の選出に、地域住民が関与する。
聖職者の俸給は国家が支給する。
高位聖職者と農村司祭の極端な待遇差も縮められる。
同時に、国家は信仰の内容や秘跡へ介入しないことが明記された。
ルイはなお不安を抱きながらも、法案を受け入れた。
しかし、それで対立が終わることはなかった。
むしろ本当の問題は、その後に始まった。
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1790年11月。
国民議会に、聖職者の宣誓を義務づける新たな法案が提出された。
宣誓文には、こう記されていた。
「私は、委ねられた教区の信徒を誠実に守ることを誓う。」
「国民、法律、国王に忠実であることを誓う。」
「国民議会が定め、国王が受け入れた憲法を、全力で守ることを誓う。」
宣誓を行わない司教や司祭は、公的な職務を辞したものと見なされる。
その条文が読み上げられた瞬間、聖職者席から激しい抗議が上がった。
「これは忠誠の確認ではない!」
「良心を試す踏み絵だ!」
「宣誓しなければ司祭を辞めろというのか!」
改革派も譲らない。
「国家から俸給を受ける公職者が、国家の憲法を拒むことはできない!」
「軍人も役人も宣誓する!」
「なぜ聖職者だけが特別なのだ!」
高位聖職者が叫ぶ。
「我々はすでに国王への忠誠を誓っている!」
「だが、憲法の中には教会制度を変更する条文が含まれている!」
「それに無条件で宣誓すれば、教皇の判断より議会の決定を上に置くことになる!」
別の聖職者が続ける。
「国民へ忠実であることに異論はない。」
「法律に従うことにも異論はない。」
「だが、信仰に反する法律まで守ると誓うことはできない!」
改革派から声が飛ぶ。
「信仰に反するかどうかを決めるのは誰だ!」
「司祭が一人ひとり勝手に法律を選ぶのか!」
「それでは国家が成り立たない!」
議長の木槌も、怒声にかき消された。
ルイの耳に、群衆の叫びが重なる。
違う言葉を叫びながら、互いを裏切り者と決めつける人々。
その先にあるものを、ルイは知っていた。
一度「神の敵」と呼ばれた者は、議論の相手ではなくなる。
一度「国家の敵」と呼ばれた者も、同じだった。
そこから先に待っているのは、説得ではない。
追放と投獄と流血である。
「静かにしてくれ!」
ルイは、これまでより強い声で言った。
議場が徐々に静まる。
「宣誓を、信仰を測る道具にしてはならない。」
「国家が求めるべきなのは、公的な職務において法律へ従うことだ。」
「神をどのように信じるかではない。」
ルイは宣誓文を手に取った。
「そこで、宣誓の意味を明確にする。」
「この宣誓は、世俗の行政と公的職務に限って効力を持つ。」
「教義、秘跡、礼拝、良心について、国家への服従を求めるものではない。」
「宣誓を拒んだ者を、犯罪者として処罰してはならない。」
議場がざわつく。
「ただし。」
ルイは続けた。
「国家から俸給を受け、公的な職務を担う以上、宣誓を拒んだ者がその職に留まり続けることもできない。」
「拒否した者は、国家が設けた公職と俸給を失う。」
「だが、司祭であることそのものを国家が否定するわけではない。」
「信仰を理由に、投獄も追放もしてはならない。」
改革派の議員が立ち上がる。
「宣誓を拒んだ司祭が、教区で反政府活動を行った場合はどうするのですか。」
「行為が法を破ったなら、その行為を裁く。」
ルイは答えた。
「宣誓を拒んだという理由だけで、未来の罪まで犯したことにしてはならない。」
高位聖職者は険しい顔のまま尋ねた。
「陛下は、我々が職を失うことを認めるのですね。」
「国家の公職に就く条件としての宣誓は必要だ。」
「だが、私は宣誓しない者を神の敵とも、国家の敵とも呼ばない。」
「諸君にも、そう呼ばせない。」
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1790年12月27日。
国民議会に所属する聖職者たちが、宣誓を行う日を迎えた。
議場には、普段とは異なる緊張が漂っていた。
最初に立ち上がったのは、グレゴワール司祭だった。
彼は壇上へ進み、議員たちを見渡す。
「私は、信仰を捨てるために宣誓するのではありません。」
「良きキリスト者であることと、良き国民であることは両立できると信じるから宣誓するのです。」
グレゴワールは右手を上げた。
そして国民、法律、国王、憲法への忠誠を誓った。
改革派から大きな拍手が起こる。
それに続き、何人かの司祭が立ち上がった。
しかし、聖職者席の多くは座ったままだった。
議長が一人の司教の名を呼ぶ。
司教は、ゆっくりと立ち上がった。
「私は国王陛下へ忠実です。」
「フランスを愛しております。」
「国民を裏切るつもりもありません。」
「しかし、教皇の判断が示されていない以上、この憲法へ無条件に誓うことはできません。」
「よって、私は宣誓を拒みます。」
議場の一部から激しい野次が飛んだ。
「反逆者だ!」
「ローマの手先だ!」
別の場所からは、司教を支持する声が上がる。
「良心を守った!」
「国家が信仰を裁くな!」
再び議場が二つに割れた。
ルイは立ち上がり、厳しい口調で言った。
「宣誓した者を、信仰の裏切り者と呼んではならない。」
「宣誓しなかった者を、国家の反逆者と呼んでもならない。」
「今日ここで示されたのは、罪ではない。」
「それぞれの良心だ。」
それでも、対立の言葉は止まらなかった。
⸻
宣誓の知らせは、たちまち王国全土へ広がった。
ある地方では、多くの司祭が宣誓した。
別の地方では、ほとんどの司祭が拒んだ。
同じ村の中でも、人々の意見は分かれた。
「司祭様、どうか宣誓してください。」
「あなたがいなくなれば、誰が子どもに洗礼を授けるのですか。」
そう懇願する者がいた。
一方では、宣誓した司祭へ怒りをぶつける者もいた。
「議会を教皇より上に置いた。」
「お前の行うミサに神の祝福はない。」
新しく選ばれた司祭の教会へ通う者。
宣誓を拒んだ司祭が密かに行うミサへ通う者。
昨日まで同じ祭壇の前で祈っていた人々が、別々の場所で祈るようになった。
国王の修正によって、宣誓拒否だけを理由とした逮捕や追放は避けられた。
しかし、法律で処罰しなければ対立が消えるわけではない。
宣誓した聖職者は、「憲法派」と呼ばれた。
宣誓を拒んだ聖職者は、「宣誓拒否派」と呼ばれるようになった。
二つの呼び名は、やがて二つの教会を意味し始めた。
ルイは、各地から届けられた報告書を読みながら呟いた。
「言葉の上では、行政と信仰を分けた。」
「だが、人々の心の中では分けられなかったのか。」
答える者はいなかった。
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その夜。
パリの一角にある聖職者の宿舎で、一人の高位聖職者が机へ向かっていた。
机の上には、聖職者民事基本法。
教会財産の管理令。
アッシニャ発行に関する布告。
そして国王が承認した宣誓文が並べられている。
聖職者はペン先をインクへ浸した。
宛先は、ローマ。
教皇ピウス六世。
彼はしばらく迷った後、最初の一文を書き始めた。
「至聖なる父よ。」
「フランスの教会は今、かつてない危機に直面しております。」
ペンは止まらなかった。
国王は、教会を守ると言いながら財産を国家へ移した。
信仰へ介入しないと言いながら、司教や司祭の制度を作り替えた。
良心を罰しないと言いながら、宣誓を拒む神官から教区と俸給を取り上げた。
それらの不満が、一つずつ紙の上へ記されていく。
やがて手紙は封じられ、司教の指輪で赤い封蝋が押された。
翌朝、一人の使者がローマへ向けてパリを出発する。
国王が国内の争いにとどめようとした問題は、ついに国境を越えた。
次に答えを迫られるのは、フランスの議会でも、国王でもない。
カトリック教会の頂点に立つ、教皇その人だった。




