第六話 Guerre des Farines(小麦戦争)
1775年。
ルイ十六世が即位してから一年。
若き国王は、テュルゴーとともに財政改革へ踏み出したばかりだった。
ギルド制度の見直し。
穀物取引の自由化。
不要な支出の削減。
一つひとつは地味な改革だったが、その全ては疲弊したフランス王国を立て直すための礎だった。
しかし、ルイには誰にも話せない「もう一つの理由」があった。
彼だけが知る未来。
数年後、アイスランドのラキ火山が大噴火し、ヨーロッパ全土を未曾有の寒冷化と凶作が襲う。
史実では、それは多くの人々を飢えさせ、革命へ向かう民衆の怒りをさらに燃え上がらせた。
(あれだけは、絶対に繰り返させない。)
ルイはそう固く決意していた。
ある日のヴェルサイユ宮殿。
執務室の机には、フランス全土の地図が広げられていた。
穀倉地帯。
主要街道。
河川。
各地方の収穫量。
全てが細かく書き込まれている。
テュルゴーが地図を見つめながら尋ねた。
「陛下、この地図は……。」
ルイは静かに答える。
「飢饉への備えだ。」
「今年は平年並みの収穫でも、来年もそうとは限らない。」
「国家は戦争だけではなく、自然災害にも備えなければならない。」
テュルゴーは目を見開いた。
十八世紀の君主で、数年先の飢饉を真剣に考える者などほとんどいない。
飢饉が起きてから動く。
それが当たり前だった。
だが、目の前の若き国王は違う。
「では……。」
「小麦を備蓄する。」
ルイは迷いなく言い切った。
「各地方に備蓄倉庫を建設する。」
「凶作になれば、その備蓄を市場へ放出する。」
「価格の急騰も防げる。」
「餓死者も減らせる。」
「国家そのものの保険になる。」
テュルゴーはしばらく沈黙した。
やがて慎重に口を開く。
「陛下のお考えは理解できます。」
「ですが、一つ問題があります。」
ルイは頷く。
「市場か。」
「はい。」
テュルゴーは机の上に小麦の流通図を書き始めた。
「政府が大規模に買い入れれば、市場から商品が消えます。」
「供給が減れば価格は上昇します。」
「そして商人は、さらに値上がりすると考えて買い集めます。」
「そうなれば、本当に価格が高騰します。」
「市場は期待だけでも動くのです。」
ルイは腕を組んだ。
「だから大量購入はしない。」
「数年かけて少しずつ。」
「王室、軍、地方行政、それぞれ別々に購入する。」
「さらに倉庫は軍用施設として建設する。」
「誰にも備蓄とは気付かれないように。」
テュルゴーは思わず感心した。
「……慎重ですね。」
ルイは苦笑する。
「慎重でなければならない。」
(未来を知る者なのだから。)
胸の内でだけ呟く。
(ラキ火山が噴火するまで、あと八年。)
(その時には十分な備蓄を整えておかなければならない。)
こうして計画は秘密裏に動き始めた。
王室会計局。
陸軍。
地方行政官。
それぞれが別々の名目で少量ずつ小麦を購入する。
市場価格を乱さぬよう細心の注意を払った。
しかし――。
人の口に戸は立てられない。
ある港町。
一人の穀物商が首を傾げた。
「最近、妙だな。」
「王室の役人が何度も買い付けに来る。」
別の商人も頷く。
「軍も買っている。」
「地方役人も同じだ。」
「偶然とは思えん。」
三人目が声を潜める。
「国が戦争準備を始めたんじゃないか?」
その一言は、商人たちの間を風のように駆け巡った。
噂はパリへ届く頃には、全く別の姿へ変わっていた。
「国王が秘密裏に小麦を集めている。」
「今年は大凶作になるらしい。」
「いや、オーストリアとの戦争準備だ。」
「来年にはパンが消える。」
話は話を呼び、尾ひれがつく。
根拠はない。
だが、人は不安を埋めるためなら、どんな噂でも信じる。
そして最後には、誰もが同じ結論へ辿り着いた。
「今、買わなければ手に入らなくなる。」
市場は一気に動いた。
商人は競うように小麦を買い占める。
農民には通常より高い価格を提示し、収穫をその場で契約する。
倉庫には袋詰めされた小麦が積み上がっていく。
供給が減る。
価格が上がる。
価格が上がると、今度は市民が焦り始めた。
「明日はもっと高くなる。」
「今日買わなければ。」
パン屋も同じだった。
粉を確保するため、さらに高値で仕入れる。
その結果、パンの値段も跳ね上がる。
市場から小麦が消えていく。
誰も飢饉など起きていない。
それなのに、人々の恐怖だけが、本物の飢饉を作り始めていた。
数週間後。
ヴェルサイユ宮殿。
執務室の扉が勢いよく開いた。
「陛下!」
テュルゴーだった。
いつもの冷静な表情は消え失せ、額には汗が滲んでいる。
ルイは嫌な予感を覚えた。
「何があった。」
「市場が暴走しています!」
テュルゴーは報告書を机へ広げた。
「備蓄計画が噂になりました。」
「商人が投機目的で小麦を買い占めています。」
「価格は急騰。」
「パリではパン屋が次々と閉店。」
「地方では荷車が襲われ、小麦倉庫への放火まで始まっています。」
ルイは思わず立ち上がった。
「……そんな馬鹿な。」
テュルゴーは苦しそうに首を振る。
「市場は事実ではなく、人々の期待で動きます。」
「誰もが不足すると信じれば、本当に不足するのです。」
ルイは報告書を見つめたまま動けなかった。
(違う……。
こんな未来にするために始めたことじゃなかった。
俺は国民を飢えさせたかったわけじゃない。
守りたかっただけなのに……。)
その頃、パリでは暴動が広がっていた。
「商人が小麦を隠している!」
「倉庫を開けろ!」
「パンをよこせ!」
怒りに駆られた群衆が荷車を止め、小麦袋を奪い合う。
倉庫の扉は打ち破られ、兵士たちは投石の雨を浴びる。
誰かが叫んだ。
「国王が買い占めを命じた!」
「王が我々を飢えさせようとしている!」
その言葉に証拠はない」
だが、一度燃え上がった恐怖は、もはや理屈では止められなかった。
恐怖は噂を真実へ変え、噂は怒りを暴力へ変えていく。
こうして、史実とは異なる理由による「もう一つの小麦戦争」が始まったのである。
その夜。
ヴェルサイユ宮殿。
窓の外には静かな庭園が広がっていた。
ルイは夜空を見上げながら、小さく呟いた。
「未来を知っていても……。」
「人の心までは支配できない。」
「市場は数字だけでは動かない。」
「人々の期待と恐怖が、市場そのものを作り上げるのか……。」
善意から始まった備蓄政策は、皮肉にも新たな混乱を生み出してしまった。
この失敗は、若き国王ルイ十六世にとって、生涯忘れることのできない教訓となる。
史実ではフツーに小麦が不足して暴動が起きています
これはフィクションです
ここだけの話
投機目的の買い占めとかは当時の法で罰せるハズ。知らんけど




