第四話 未来見据える瞳
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マリー・アントワネットがフランスへ来てから、まだ数日しか経っていなかった。
けれど彼女には、もう何か月もこの国で暮らしているように感じられた。
目覚めた瞬間から、眠りにつく直前まで、誰かの視線がある。
朝の支度をする侍女たち。
食事の作法を見守る女官たち。
廊下ですれ違う貴族たち。
誰もが丁寧に頭を下げ、口元には穏やかな微笑みを浮かべている。
しかし、その目は笑っていなかった。
歩き方。
話し方。
衣装の選び方。
フランス語の発音。
どの貴族に声をかけ、誰に声をかけなかったか。
小さな仕草の一つひとつまで、彼らは見逃さなかった。
そして、マリーがその場を離れた直後には、必ず囁き声が聞こえた。
「あれがオーストリアの皇女か。」
「少々、落ち着きが足りないのではなくて?」
「フランス王太子妃としてふさわしいかどうか、まだ分かりませんわ。」
声を潜めているつもりなのだろう。
けれど、聞こえないほど小さくはなかった。
彼女に聞かせるために、あえてそうしているのではないかと思うことさえあった。
オーストリアにいた頃、母マリア・テレジアから何度も言い聞かされていた。
フランスへ行けば、あなたは一人の少女ではなくなる。
あなたの笑顔はオーストリアの好意となり、あなたの失敗はオーストリアの侮辱となる。
夫に愛されなさい。
王家に尽くしなさい。
フランス国民に受け入れられなさい。
そして何より、両国の同盟を守りなさい。
その言葉の意味を、マリーは理解しているつもりだった。
だが、理解していることと、耐えられることは別だった。
故郷では、母は厳しかった。
兄や姉たちに囲まれ、教師から叱られる日々でもあった。
それでも、そこには自分の居場所があった。
失敗しても、最後には家族のいる部屋へ戻ることができた。
フランスには、その場所がない。
自分は歓迎されている。
宮廷では祝宴が開かれ、街では鐘が鳴り、人々は新たな王太子妃の到着を祝っている。
それなのに、心から自分を迎えてくれる者がいるのか、マリーには分からなかった。
ただ一人を除いて。
王太子ルイ。
初めて会ったとき、彼はマリーに言った。
あなたは政治の道具ではない。
無理をして別人になる必要はない。
分からないことがあれば、分からないと言ってよい。
その言葉が、何度も胸の中で繰り返されていた。
マリーは寝台の上で目を開いたまま、天蓋を見上げていた。
豪華な金糸の刺繍。
精巧な花の模様。
オーストリアの宮殿にも劣らぬ美しさ。
だが、その夜はなかなか眠れなかった。
ルイの顔が浮かぶ。
華やかな貴族たちの中に立ちながら、彼だけは不思議なほど静かだった。
十五歳の少年。
自分より一つ年上にすぎない。
それなのに、彼の瞳はまるで遥か遠くを見ているようだった。
目の前にいるマリーを見つめながら、その向こう側にある何かを恐れている。
そんな目だった。
「殿下は、変わったお方です。」
昼間、侍女の一人がそう言っていた。
マリーが理由を尋ねると、侍女は少し困ったように微笑んだ。
「ご幼少の頃から、非常に思慮深い方でいらっしゃいます。」
「普通の子どもが遊びに興じる年頃から、国の財政や民の暮らしについてお考えになっていたとか。」
「財政を?」
マリーは驚いた。
「幼い頃からですか?」
「はい。王太子殿下は、帳簿をお読みになることを好まれるそうです。」
侍女の声には、わずかに戸惑いが混じっていた。
それは当然だった。
宮廷の若者たちは狩猟や舞踏会を好む。
華やかな衣装や恋愛の噂に夢中になる者も多い。
その中で、国家の借金を記した帳簿を好んで読む少年は、確かに変わっていた。
マリーは昼間の会話を思い出す。
ルイは優しかった。
しかし、楽しそうではなかった。
自分との婚姻を嫌がっているようには見えなかったが、喜びに胸を躍らせているようにも見えなかった。
むしろ、何か大きな責任を背負うように、自分を迎えていた。
まるで、彼女と出会うことをずっと前から知っていたかのように。
そして、その日が来ることを恐れていたかのように。
翌朝。
マリーは礼儀作法の確認を終えると、侍女に尋ねた。
「王太子殿下は、今どちらにいらっしゃるのですか?」
侍女は少し驚いた様子を見せた。
「おそらく、書庫においでかと存じます。」
「書庫?」
「はい。殿下は午前の講義を終えられた後、たびたびそちらへ向かわれます。」
マリーは少し迷った。
本来なら、王太子妃が予定もなく王太子のもとを訪ねるのは、あまり礼儀にかなったことではないのかもしれない。
何をするにも、ヴェルサイユには決まりがある。
誰が先に部屋へ入るか。
誰が椅子に座ることを許されるか。
誰が王族の衣服へ触れることができるか。
マリーには、その全てが複雑すぎた。
だが、ルイは言った。
分からないことがあれば、分からないと言ってよい。
ならば、会いに行ってもよいのではないか。
「案内してください。」
「今からでございますか?」
「ええ。」
侍女はわずかにためらったが、やがて頭を下げた。
長い廊下を歩く。
磨き上げられた床に、靴音が小さく響く。
壁には歴代の王や将軍たちの肖像画が並んでいた。
誰もが威厳に満ちた顔で、異国から来た少女を見下ろしている。
やがて侍女が、一つの扉の前で足を止めた。
扉の外には二人の侍従が立っている。
マリーの姿を見ると、彼らは驚いたように背筋を伸ばした。
「王太子妃殿下。」
「ルイ殿下は中に?」
「はい。しかし、ただいま書類をご覧になっております。」
「少しお話ししたいのです。」
侍従たちは顔を見合わせた。
王太子妃の申し出を断ることはできない。
一人が扉を叩き、室内へ声をかける。
「殿下。王太子妃殿下がお見えでございます。」
中から物音がした。
何かを慌てて閉じるような音だった。
「……入ってもらってくれ。」
扉が開く。
マリーが中へ入ると、そこは彼女が想像していたよりも質素な部屋だった。
華やかな装飾は少ない。
壁には本棚が並び、机の上には何冊もの分厚い帳簿と書類が積み上げられている。
窓際には、組み立て途中の錠前らしき金属部品が置かれていた。
そして机の向こうに、ルイが座っていた。
「マリー。」
彼は立ち上がる。
驚いた顔をしていた。
「どうしたのですか?」
「お邪魔でしたか?」
「いいえ。」
答えは早かった。
だが、ルイは机の上の書類を隠すように重ねた。
その動きを、マリーは見逃さなかった。
「何をご覧になっていたのですか?」
「国の帳簿です。」
「財政の?」
ルイは少し目を見開く。
「聞いたのですか。」
「殿下は幼い頃から、国のお金についてお考えになっていると。」
マリーは机へ近づいた。
書類には細かな数字が並んでいる。
彼女には、その意味のほとんどが分からなかった。
「面白いのですか?」
率直に尋ねると、ルイは一瞬だけ言葉に詰まった。
「面白くはありません。」
「では、なぜ?」
「知らなければならないからです。」
短い答えだった。
ルイは帳簿へ目を落とす。
その横顔に、初対面のときと同じ影が差した。
「この国には、多くの問題があります。」
「今は豊かに見えるかもしれません。」
「宮殿では毎日のように宴が開かれ、貴族たちは美しい衣装を身につけている。」
「ですが、その外では税に苦しむ人々がいる。」
「国には多くの借金がある。」
「それを何とかしなければ、いつか大きな災いが起きます。」
マリーは黙って彼を見つめた。
十五歳の少年が語るには、あまりにも重い言葉だった。
「大きな災いとは?」
ルイの肩がわずかに震えた。
彼は答えなかった。
代わりに、窓の外へ視線を向けた。
庭園の向こうには、青い空が広がっている。
平和そのものの景色だった。
それなのにルイの目には、別のものが見えているようだった。
「殿下?」
呼びかけると、ルイは我に返ったように振り向いた。
「すみません。」
「時々、遠くをご覧になりますね。」
「そうでしょうか。」
「はい。」
マリーは迷ったが、そのまま言葉を続けた。
「私を見ていらっしゃるときも。」
ルイの表情が固まる。
「私ではなく、もっと遠くにいる誰かを見ているように感じます。」
「それは……。」
「私に似た方をご存じなのですか?」
「いいえ。」
ルイはすぐに否定した。
「あなたに似た人を知っているわけではありません。」
それは嘘ではなかった。
だが、真実でもなかった。
マリーにはそう感じられた。
「では、なぜ初めてお会いした私に、あのようなことをおっしゃったのですか?」
「政治の道具ではないと。」
「一人の人間だと。」
「まるで、私がこれから苦しむことを知っているようでした。」
ルイは何も答えなかった。
沈黙が部屋を満たす。
廊下の向こうから、遠く人々の話し声が聞こえる。
マリーは自分が踏み込みすぎたのではないかと思った。
まだ出会ったばかりの夫に向ける質問ではなかったかもしれない。
「申し訳ありません。」
マリーは視線を落とした。
「忘れてください。」
「忘れなくていい。」
ルイの声がした。
先ほどよりも静かで、弱い声だった。
「あなたの言う通りです。」
「私は、あなたが苦しむかもしれないと思っています。」
マリーは顔を上げる。
「なぜですか?」
「ここがヴェルサイユだからです。」
ルイは苦しそうに微笑んだ。
「この宮殿は美しい。」
「ですが、美しいだけの場所ではありません。」
「誰もが誰かを見ています。」
「誰もが誰かの失敗を待っています。」
「あなたはオーストリアから来た。」
「そのことだけで、疑う者もいるでしょう。」
「あなたがどれほど努力しても、悪意を持つ者は別の意味に変えて広めるかもしれない。」
それは、すでにマリーが感じていたことだった。
貴族たちの囁き。
笑顔の裏側にある冷たさ。
マリーは両手を重ね、強く握った。
「では、私はどうすればよいのですか?」
その問いに、ルイはすぐ答えられなかった。
正しい答えを探しているようだった。
「私にも分かりません。」
やがて、彼はそう言った。
マリーは意外に思った。
王太子ならば、何か立派な答えを言うと思っていた。
フランスのために尽くせ。
王家の名誉を守れ。
宮廷の慣習に従え。
そう言われるものだと思っていた。
しかし、ルイは分からないと認めた。
「私は、あなたに完璧な王太子妃になってほしいとは思っていません。」
「では、何をお望みですか?」
ルイは彼女を見た。
その瞳には、やはり深い悲しみがあった。
「生きていてほしい。」
マリーは息を止めた。
あまりにも奇妙な答えだった。
「生きる……?」
「はい。」
ルイは自分でも何を言っているのか分からなくなったように、目を伏せた。
「幸せに生きてほしい。」
「宮廷の期待に押し潰されずに。」
「誰かの悪意に傷つけられずに。」
「最後まで……。」
言葉が途切れる。
ルイの指が震えていた。
初対面のとき、震えていたのはマリーの指だった。
今度は彼の手が震えている。
まるで、何か恐ろしい光景を思い出しているように。
「殿下。」
マリーはそっと彼の手へ触れた。
ルイの体が小さく跳ねる。
「冷たい。」
彼の指先は、驚くほど冷えていた。
「ご気分が悪いのではありませんか?」
「大丈夫です。」
「大丈夫な方のお顔には見えません。」
マリーがそう言うと、ルイは困ったように笑った。
その笑い方は、王太子としてのものではなかった。
ただの不器用な少年の笑顔だった。
「あなたは、思っていたよりもはっきり言うのですね。」
「いけませんか?」
「いいえ。」
ルイの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「そのままでいてください。」
その言葉を聞き、マリーの胸に小さな温かさが灯った。
この国に来てから、誰もが彼女を変えようとしていた。
フランス風に歩け。
フランス風に話せ。
フランスの衣装を選べ。
オーストリアの習慣を捨てろ。
立派な王太子妃になれ。
だがルイだけが、そのままでよいと言った。
「殿下も。」
マリーは言った。
「私も?」
「はい。」
「殿下も、私の前では王太子でなくてもよいのではありませんか?」
今度はルイが目を見開いた。
「私に政治の道具でなくてよいとおっしゃったのですから、殿下も私の前では王太子ではなく、一人の人間でいてください。」
「それは……。」
「できませんか?」
ルイは困ったように目を伏せた。
おそらく彼は、王太子以外の自分が何者なのか分からないのだ。
父を失い、王位継承者となり、国の未来を背負おうとしてきた。
周囲から見れば、寡黙で思慮深い王太子。
だが、その内側には、誰にも言えない恐怖を抱えた一人の少年がいる。
マリーは、そう思った。
「すぐには難しいかもしれません。」
ルイは正直に答えた。
「なら、少しずつで構いません。」
マリーは微笑んだ。
「私もフランスの王太子妃になるには、時間が必要です。」
「二人で練習しましょう。」
「練習?」
「私は王太子妃になる練習を。」
「殿下は、一人の人間になる練習を。」
ルイは呆気に取られたように彼女を見ていた。
やがて、ほんの少しだけ笑った。
それはマリーが初めて見る、心からの笑顔だった。
「分かりました。」
「約束ですよ。」
「約束します。」
二人はしばらく、机の前に並んで座った。
マリーは帳簿の数字を眺めたが、やはり何が書かれているのか分からない。
ルイが一つずつ説明してくれた。
どこから税が集められるのか。
どのような支出があるのか。
なぜ借金が増えているのか。
説明する彼の声は穏やかだったが、その内容は重かった。
「貴族の方々は、税を払わないのですか?」
マリーが尋ねる。
「全く払わないわけではありません。」
「ですが、多くの特権があります。」
「では、その特権をなくせばよいのでは?」
あまりにも率直な答えに、ルイは苦笑した。
「私もそう思います。」
「では、なぜなさらないのですか?」
「まだ私が王ではないからです。」
「王になればできますか?」
ルイは黙った。
その沈黙が答えだった。
王になったとしても、簡単には変えられない。
変えようとすれば、多くの敵を作る。
マリーは政治に詳しくない。
それでも、ルイが一人で抱えているものの重さは少しだけ理解できた。
彼は未来の王になることを楽しみにしているのではない。
王位を、逃れられない責務として恐れている。
それでも逃げようとはしていなかった。
「殿下。」
「何ですか?」
「私にできることはありますか?」
ルイは驚いたように彼女を見る。
「あなたが?」
「私はフランスのことを、まだほとんど知りません。」
「帳簿も分かりません。」
「政治についても、母から教えられたことしか知りません。」
「ですが、いつか殿下が王になられるなら、私はその隣に立つのでしょう?」
ルイの表情が曇った。
王の隣に立つ。
その言葉が、彼に何か別の光景を思い出させたようだった。
マリーには分からない。
けれど彼は、しばらくして静かに頷いた。
「そうです。」
「ならば、何も知らないままではいけないと思います。」
マリーは帳簿へ目を向ける。
「私にも教えてください。」
「フランスのことを。」
「国民のことを。」
「殿下が何を恐れているのかを。」
最後の一言に、ルイの肩がわずかに動いた。
「全てを話すことはできません。」
「なぜですか?」
「私自身にも、うまく説明できないからです。」
ルイは苦しそうに答えた。
「ただ、いつかこの国で大きな混乱が起こるかもしれない。」
「私は、それを止めたい。」
「止められなければ、多くの人が死にます。」
「あなたも?」
マリーは何気なく尋ねた。
ルイの顔から、表情が消えた。
その瞬間、マリーは理解した。
彼が恐れているのは、国の滅亡だけではない。
自分自身の死。
そして、おそらくマリーの死も恐れている。
なぜそんなことを考えているのかは分からない。
まだ革命など起きていない。
フランス王家は強大で、宮殿は平和に満ちている。
王太子と王太子妃が処刑される未来など、誰が想像するだろう。
それでもルイは、まるでその光景を見たことがあるように怯えている。
「殿下は、時々とても怖いお顔をなさいます。」
マリーは静かに言った。
「何かを思い出しているようなお顔です。」
ルイは答えなかった。
「今は話せなくても構いません。」
マリーは続ける。
「ですが、いつか話してください。」
「一人で抱えていては、苦しくなるだけです。」
「私は、殿下の妻なのでしょう?」
妻。
その言葉を口にすると、少し照れくさかった。
二人はまだ出会ったばかりだ。
互いの好きなものさえ知らない。
だが、政治のために結ばれた婚姻であっても、これから長い時間を共に過ごすことになる。
その相手がルイであったことを、マリーは少しだけ幸運に思い始めていた。
少なくとも、彼は自分を道具として見ていない。
そして彼自身もまた、誰かに一人の人間として見てもらうことを必要としていた。
「ありがとうございます。」
ルイが言った。
声がわずかに震えていた。
「何のお礼ですか?」
「ここへ来てくれたことです。」
その言葉に、マリーは微笑んだ。
「私は会いに来ただけです。」
「それでもです。」
ルイは窓の外へ目を向ける。
「あなたがフランスへ来ることを、私はずっと恐れていました。」
マリーの笑顔が止まる。
「私との結婚がお嫌だったのですか?」
「違います。」
ルイは強く否定した。
「あなたが嫌なのではありません。」
「あなたがここへ来れば、苦しむかもしれないと思っていた。」
「だから怖かった。」
「では、来ない方がよかったですか?」
その問いに、ルイは長い間答えなかった。
やがて彼は、静かに首を横へ振る。
「いいえ。」
「来てくれて、よかった。」
その声は小さかったが、偽りはなかった。
マリーはそれ以上、何も尋ねなかった。
机の上には、フランス王国の未来を記した膨大な帳簿がある。
窓の外には、美しく整えられたヴェルサイユの庭園が広がっている。
宮殿の中では、貴族たちが次の宴の話をしている。
国のどこかでは、農民たちが畑を耕し、町では職人たちが働いている。
そのすべてを、ルイは一人で背負おうとしていた。
十五歳の少年が。
マリーは、隣に座る夫の横顔を見つめた。
背は高い。
体格も立派だった。
だが、彼は人と目を合わせることが得意ではなく、話すときには何度も言葉を選ぶ。
宮廷で噂されるような、鈍く不器用な王太子なのかもしれない。
けれど、その不器用さの奥には、誰よりも他人を傷つけることを恐れる優しさがある。
そして、その優しさゆえに、彼は自分自身を傷つけ続けている。
マリーはこの日、初めて思った。
この人を理解したい、と。
国と国を結ぶために与えられた夫ではなく。
未来のフランス国王でもなく。
暗い書庫で一人、誰にも理解されない恐怖と向き合う少年として。
「明日も、ここへ来てよろしいですか?」
マリーが尋ねる。
ルイは驚いた。
「財政の話は退屈ではありませんでしたか?」
「とても退屈でした。」
マリーは正直に答えた。
ルイは目を瞬かせる。
「ですが、殿下がお一人で暗い顔をしているよりはよいと思います。」
「私はそんなに暗い顔をしていますか?」
「しています。」
即答すると、ルイは困ったように笑った。
「では、明日も来てください。」
「はい。」
「ただし、帳簿だけではなく、何かあなたが楽しめるものも用意します。」
「例えば?」
「……時計などは。」
「遠慮いたします。」
二人は顔を見合わせた。
次の瞬間、マリーが笑い、少し遅れてルイも笑った。
書庫の外にいた侍従たちは、閉じられた扉の向こうから聞こえた笑い声に顔を見合わせた。
王太子の部屋から、あれほど自然な笑い声が聞こえることは珍しかった。
その日から、マリーはたびたびルイの書庫を訪れるようになった。
彼女はまだ、四十億リーブルという数字の意味を知らない。
特権階級への課税が、どれほど困難であるかも知らない。
民衆の怒りが、やがて宮殿を呑み込むことも知らない。
自分が未来において、外国女、浪費家、赤字夫人と罵られることも知らなかった。
ただ一つだけ、彼女は気づき始めていた。
自分の夫となった少年は、誰にも見えない未来と戦っている。
そして、その戦いの中で、自分を守ろうとしている。
ならば、自分も彼を一人にはしない。
まだそれを愛と呼ぶには、二人は幼すぎた。
互いのことを、ほとんど知らなかった。
それでも確かに、その日、小さな絆が生まれた。
未来を知る王太子と、未来を知らない王太子妃。
一人は妻を救おうとし。
もう一人は、孤独な夫を理解しようとした。
だが、二人はまだ知らない。
互いを守ろうと手を取り合うほど、その姿が宮廷の噂となり、やがて政治的な意味を与えられていくことを。
王太子はオーストリア皇女に心を奪われた。
未来の国王は、外国の意向に従おうとしている。
そんな悪意ある言葉が生まれるまで、長い時間は必要なかった。
静かな書庫で交わされた二人の約束は、やがてフランス中を揺るがす愛情の始まりとなる。
そして同時に、それはルイが何より守ろうとした女性を、彼の最大の弱点へ変えていく始まりでもあった。




