第二十二話 神も見放した年ーー大雹災
1788年7月13日。
日曜日。
朝。
ランブイエ城。
前日から続いていた息苦しいほどの暑さが、まだ大地にまとわりついていた。
風はほとんどなく、木々の葉は一枚も動かない。
庭園では庭師たちが額の汗を拭いながら、花壇の手入れをしていた。
空は青かった。
少なくとも、東の空だけを見ていれば、雲一つない穏やかな夏の朝に見えた。
だが、西の空には、いつの間にか黒い雲が浮かんでいた。
それは夏空に漂う普通の雨雲ではなかった。
地平線から湧き上がった巨大な壁のように、空を覆い隠しながら近づいていた。
「……雨になるのか?」
庭師の一人が腰を伸ばし、手をかざして西の空を見た。
「この暑さだ。少しくらい降ってくれた方が助かる。」
別の庭師がそう答えた。
今年は雨が少なかった。
畑は乾き、川の水位は下がり、収穫前の小麦は十分に穂を膨らませていない。
農民たちは雨を待ち望んでいた。
だから、その黒雲を見ても、最初は恵みの雨が来るのだと思った。
ところが、雲は異様な速さで近づいてきた。
青かった空が、みるみるうちに黒く塗り潰されていく。
太陽が隠れた。
朝だというのに、庭園は夕暮れのように暗くなった。
「速すぎる……。」
誰かが呟いた。
その直後、風が吹いた。
最初は、地面の砂埃をわずかに巻き上げる程度だった。
しかし、次の瞬間には、庭園の木々が一斉に大きくしなった。
生暖かかった空気が消え、代わりに冬の井戸から吹き上がってくるような冷気が押し寄せる。
木の葉が裏返り、花びらが宙を舞った。
鳥たちは何かに追われるように群れをなして飛び立ち、厩舎の馬たちは怯えて激しく嘶いた。
犬が鎖を引きちぎらんばかりに暴れ始める。
「城へ戻れ!」
年長の庭師が叫んだ。
「道具は捨てろ! 早く中へ入れ!」
庭師たちが鍬や鋏をその場に放り出し、城へ向かって走り始めた。
そのときだった。
空が白く裂けた。
稲妻。
一瞬遅れて、凄まじい轟音が大地を揺さぶった。
雷鳴というより、大砲の一斉射撃だった。
窓硝子が震え、馬が前脚を高く上げ、何人かの庭師が思わず地面へ身を伏せた。
そして。
ドンッ!
白い塊が地面へ叩きつけられた。
土が跳ねた。
近くにいた庭師が、恐る恐るそれを拾い上げる。
「氷……?」
手のひらに収まりきらないほど大きな氷の塊だった。
夏の朝。
焼けつくような暑さの中で、空から氷が落ちてきた。
誰も、その意味を理解できなかった。
ドンッ!
再び氷が落ちた。
今度は石畳にぶつかり、二つに砕けた。
続いて三つ。
五つ。
十。
数えられなくなるまで、ほんの数秒しかかからなかった。
「逃げろ!」
叫び声と同時に、空が崩れ落ちた。
無数の雹が降り始めた。
雨のように降ったのではない。
空から投石を浴びせられているようだった。
雹は石畳を跳ね、花壇を抉り、屋根の瓦と石板を砕いた。
庭木の枝がへし折られ、葉が引き裂かれ、咲き誇っていた花々が一瞬で地面へ叩き伏せられた。
窓硝子が次々と割れた。
城内へ鋭い破片が飛び込み、廊下を走っていた使用人たちが悲鳴を上げる。
厩舎では馬たちが狂ったように暴れ、御者や馬丁が必死に手綱を押さえていた。
逃げ遅れた庭師の一人が頭を両腕で庇いながら、城の軒下へ転がり込む。
雹が彼の背中を何度も殴りつけた。
「扉を開けろ!」
衛兵が叫んだ。
二人の使用人が扉から飛び出し、庭師の腕を掴んで城内へ引きずり込んだ。
扉が閉められた直後、拳ほどの雹が木板へ激突した。
ドンッ、ドンッ、と重い音が続く。
まるで、扉の向こうから何者かが槌を振るっているようだった。
ランブイエ城。
国王執務室。
ルイ十六世は机の前に座り、ブリエンヌから届けられた財政報告書を読んでいた。
歳入の不足。
迫る国債の償還期限。
下落する国債価格。
利払いの増加。
どの頁を開いても、書かれているのは絶望的な数字ばかりだった。
そこへ、地面を揺るがすような雷鳴が響いた。
ルイの肩が大きく跳ねた。
手にしていた報告書が床へ落ちる。
「な、何だ……?」
反射的に立ち上がろうとしたが、膝が机にぶつかった。
痛みを感じるより先に、別の音が耳へ飛び込んでくる。
石が屋根を打つ音。
硝子が割れる音。
遠くから聞こえる人々の悲鳴。
ルイの呼吸が浅くなった。
胸の奥が締めつけられる。
彼の脳裏に、一瞬だけ別の光景が蘇った。
広場を埋め尽くす群衆。
鳴りやまない怒号。
処刑台の下から浴びせられる罵声。
そして、頭上で動き始める巨大な刃。
「陛下!」
侍従の声に、ルイは我に返った。
「窓から離れてください!」
その直後、執務室の窓に巨大な雹が叩きつけられた。
硝子に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
二発目が当たり、窓が内側へ砕け散った。
侍従が咄嗟にルイの前へ立ち、腕で顔を庇った。
床の上に、硝子片と氷の塊が転がる。
「陛下、こちらへ!」
ルイは侍従に腕を引かれ、壁際へ下がった。
しかし、その目は窓の外へ釘づけになっていた。
庭園が白く染まっていく。
花壇は潰れ、並木は枝を折られ、噴水の水面は激しく泡立っていた。
彫像の一部が欠け、屋根から剥がれ落ちた石板が地面へ叩きつけられる。
「これは……。」
ルイは震える唇を動かした。
「嵐なのか……?」
誰も答えられなかった。
それは、彼らが知っている嵐とはあまりにも違っていた。
雹は雨ではなかった。
空から降り注ぐ石だった。
王の軍隊が放つ大砲でも、民衆が投げる石でもない。
誰にも止められない、天からの砲撃だった。
ルイは窓枠の向こうで砕かれていく庭園を見つめていた。
胸の鼓動が速い。
指先から血の気が引いていく。
自分が命じたわけではない。
自分の判断が誤っていたわけでもない。
それでも、被害を受けた国民が最後に恨むのは国王だ。
空が作物を奪っても、腹を空かせた人々は天を処刑できない。
神を宮殿から引きずり出すこともできない。
ならば、その怒りは地上にいる王へ向けられる。
そのことを、ルイは前の人生で嫌というほど知っていた。
「……また、始まる。」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「飢えが、始まる。」
嵐は長くは続かなかった。
だが、去った後に残された光景は、まるで戦場だった。
庭園には折れた枝と引き裂かれた葉が積み重なっていた。
花壇の花は一本残らず地面へ倒れ、雹に打ち砕かれて原形を失っている。
鳥の死骸が白い氷の中に横たわり、負傷した馬の呻き声が厩舎から聞こえてきた。
城の屋根は無数の箇所で傷つき、廊下には雨水が流れ込んでいた。
多くの窓硝子が割れ、床にはまだ溶けていない雹が転がっている。
後の集計では、ランブイエ城だけでも一万一千を超える窓硝子や屋根材が損傷したと報告されることになる。
しかし、城の被害など、ルイにとっては重要ではなかった。
城は直せる。
窓も屋根も、金さえあれば取り替えられる。
問題は、その雹がここへ来るまでに何を通過してきたのかだった。
ルイは濡れた廊下を歩き、外へ出た。
護衛が慌てて後を追う。
地面を覆っている雹は、まだ夏の熱気の中で白い蒸気を上げていた。
ルイは足元に転がっていた氷の塊を拾い上げた。
鶏卵より大きい。
指が痛くなるほど冷たい。
「これが小麦畑に落ちたら、どうなる?」
誰に尋ねたわけでもなかった。
それでも、近くにいた庭師長が答えた。
「……穂は、残らないかと存じます。」
ルイの手から、雹が落ちた。
「すぐに使者を出せ。」
「街道の安全を確認しながら、周辺の村を調べさせろ。」
「人的被害、家屋、家畜、畑、果樹園、すべてだ。」
「はい、陛下。」
「被害を少なく見積もるな。」
「役人は税を守るために、農民がまだ払えるような報告を書く。」
「今回は許さない。」
「収穫できない畑を、収穫できると書かせるな。」
「承知いたしました。」
「それから、パリにも知らせろ。」
「これはランブイエだけの嵐ではない。」
ルイは黒雲が去っていった北東の空を見つめた。
胸の奥に、嫌な予感が沈んでいた。
嵐は終わっていない。
ただ、別の土地へ移動しただけだった。
その予感は当たった。
翌日から、各地の報告が届き始めた。
最初はランブイエ周辺の村々だった。
屋根を失った家。
倒壊した納屋。
雹に打たれて死んだ鶏や羊。
収穫直前だった麦畑は、巨大な鎌で薙ぎ払われたように倒れていた。
穂は砕かれ、粒は泥の中へ散り、茎だけが地面に張りついている。
果樹園では枝が折れ、まだ熟していない実がすべて落ちていた。
葡萄畑では若い実と葉が打ち落とされ、農民たちは一年分の収入を失っていた。
さらに数日が過ぎると、より遠い地方からの報告が届いた。
嵐は二本の巨大な帯となって、フランスを南西から北東へ横切っていた。
「ポワトゥーで甚大な被害。」
「トゥーレーヌの小麦畑が壊滅。」
「ボース地方では、収穫直前の穀物が広範囲にわたり損失。」
「シャルトル周辺、農家と教区から救済を求める請願。」
「イル=ド=フランス北部にも被害。」
「ピカルディ、フランドル方面へ嵐が進んだとの報告。」
被害の幅は場所によって十数キロから二十キロを超えた。
その帯は途切れながらも数百キロにわたって伸び、最終的には千を超える町や村が被害を受けたと見積もられた。
王国全体のすべての農地が破壊されたわけではない。
だが、運悪く雹の通り道となった土地では、わずかな時間で一年分の労働が消滅した。
しかも、今年の収穫は雹が降る前から良くなかった。
春から続く乾燥。
地域によっては平年より大幅に少ない雨。
成長しきれなかった小麦。
薄い穂。
不足する牧草。
そこへ大雹災が襲ったのである。
もともと弱っていた王国の農業に、天が最後の一撃を加えたようなものだった。
ランブイエ城。
臨時の会議室。
机の上には、フランス全土の地図が広げられていた。
被害が確認された土地には、赤い印が付けられている。
その印は南西から北東へ向かい、二本の傷跡のように王国を横切っていた。
ブリエンヌは報告書を握りしめたまま、青ざめた顔で立っていた。
「陛下。」
「現在までに確認された直接被害だけでも、数千万リーブルに達する可能性があります。」
「数千万……。」
「はい。」
「家屋の修繕費だけではありません。」
「失われた穀物、果実、葡萄、家畜、農具、来年の種籾まで含めれば、被害はさらに膨らみます。」
ルイは地図から目を離さなかった。
「今年の収穫は、どの程度減る?」
「正確な数字はまだ出せません。」
「被災していない地域もあります。」
「しかし、雹が襲った中には、パリへ穀物を送る重要な地域も含まれております。」
「それに、先ほど申し上げたとおり、収穫はもともと平年を下回ると予想されていました。」
ブリエンヌは一度言葉を切った。
「来年を待つまでもありません。」
「今年の秋から、穀物価格は上がります。」
「冬を越えれば、パンの価格にも確実に響きます。」
ルイの喉が小さく鳴った。
パン。
その言葉だけで、処刑台へ至る道筋が目の前に浮かんだ。
パンが高くなる。
人々が並ぶ。
買い占めの噂が流れる。
商人が襲われる。
役人が責められる。
やがて、すべての怒りが王へ集まる。
前世の教科書には、革命の原因として財政危機と身分制度の矛盾が書かれていた。
特権階級。
不公平な税制。
アメリカ独立戦争。
国家債務。
それらは、たしかに革命の原因だった。
だが、紙の上に書かれた言葉だけでは分からないものがある。
空腹だった。
人々は思想だけで立ち上がったのではない。
今日のパンが買えない。
明日、子供に食べさせるものがない。
その恐怖が、何十年も積み重なった不満に火をつけた。
ルイはそれを、いま初めて王の目で理解していた。
「最悪だ……。」
思わず声が漏れた。
「陛下。」
「ラキ火山の噴火があった。」
「異常な霧が広がり、寒さが来た。」
「その後も、凶作と不安定な天候が繰り返された。」
「そして、今度はこれだ。」
ルイは赤い印が連なる地図を指でなぞった。
「人間が作った制度だけでも国を壊せるというのに、天まで我々を潰しに来るのか。」
ブリエンヌは答えなかった。
聖職者である彼にも、神の意図を説明する言葉はなかった。
「パルマンティエを呼べ。」
しばらくして、ルイが命じた。
「ジャガイモの被害を確認させる。」
「すでに一部の栽培地から報告を集めております。」
側近が答えた。
「雹によって葉や茎を傷つけられた畑はあります。」
「しかし、地中に育つ塊茎は、小麦の穂や果実ほど直接的な被害を受けておりません。」
「収穫時期と被害の程度によっては、ある程度は掘り出せる見込みです。」
ルイの胸から、わずかに息が漏れた。
「あのとき、普及を進めておいてよかった……。」
もちろん、ジャガイモだけでフランス全土を救えるわけではない。
まだ栽培を拒む農民も多い。
家畜の餌だと侮る者もいる。
地方によっては、栽培方法すら知られていない。
全国で十分な量が作られているわけでもなかった。
それでも、小麦しかなかった場合と比べれば、救える命は増える。
わずかでも収穫できる土地があるなら、それを飢えた地域へ運べばよい。
「被災地にあるジャガイモ畑を調べろ。」
「収穫可能なものは、傷む前に掘り出させる。」
「種芋まで食べ尽くさせてはならない。」
「来年の作付け分を分けたうえで、残りを救済用に回す。」
「はい、陛下。」
「パルマンティエには、保存方法と調理方法を簡単に書かせろ。」
「文字を読めない者にも分かるように、役人や司祭から直接教えさせる。」
「教会の説教台も使え。」
「毒だという噂を、そのままにするな。」
側近が急いで書き留める。
ルイは続けた。
「小麦だけに頼るから、一度の雹で村が飢える。」
「ライ麦も、大麦も、豆も、蕪も使う。」
「食べられるものは、すべて食料として数えろ。」
それは根本的な解決ではなかった。
だが、目の前の冬を越えられなければ、改革も政治も意味を失う。
その頃。
パリ。
まだ町のパン屋からパンが消えたわけではなかった。
店先に並んでいるパンは、前年に収穫された穀物から作られている。
今日食べる分はある。
だが、大雹災の噂は、公式の報告よりも早くパリへ届いていた。
「ボースの麦が全滅したらしい。」
「いや、フランス中の畑が潰されたそうだ。」
「国王の城まで壊れたというぞ。」
「来月にはパンがなくなる。」
「商人が、もう穀物を隠し始めた。」
「金持ちだけが買い占めているんだ。」
真実と誇張と嘘が入り混じり、街角から街角へ広がっていく。
パン屋の前には、いつもより早い時間から列ができ始めた。
「まだパンはあるか?」
「ある! 押すな!」
「家族が六人いるんだ。二つでは足りない!」
「後ろにも客がいる。一人二つまでだ!」
「昨日より小さくなっているじゃないか!」
「小麦の値段が上がっているんだ! 俺に言うな!」
怒号が飛び交った。
パンはまだ不足していない。
だが、人々の心の中では、すでに飢饉が始まっていた。
未来への恐怖が、現在の買いだめを生む。
買いだめが店頭のパンを減らす。
棚が空になれば、噂を信じていなかった者まで列へ加わる。
そして列が長くなるほど、人々は本当に食料がないのだと思い込む。
誰かが叫んだ。
「国王は何をしている!」
別の誰かが答えた。
「ヴェルサイユにはパンが山ほどあるさ!」
それが事実かどうかを確かめる者はいなかった。
空腹になりかけた群衆にとって、宮殿は豊かさの象徴だった。
王が何を食べているかではない。
自分たちが食べられないことが問題だった。
ランブイエ城。
夜。
会議は日が沈んだ後も続いていた。
蝋燭の炎に照らされた地図の上で、赤い印だけが異様に鮮やかに浮かんでいる。
ルイは椅子に座らず、机に両手をついていた。
疲労で肩が重い。
恐怖で胃が硬く縮んでいる。
それでも、考えることをやめるわけにはいかなかった。
「王室の備蓄は、どれだけ残っている?」
「地方倉庫を含めれば、一定量はございます。」
ブリエンヌが答えた。
「しかし、全国へ長期間供給できる量ではありません。」
「分かっている。」
「全部を一度に放出すれば、今度は本当に備蓄が尽きる。」
「まず被災地へ回せ。」
「自力で食料を調達できない村を優先する。」
「都市では急激な値上がりを抑えるため、少しずつ市場へ出す。」
「承知いたしました。」
「外国からも穀物を買う。」
「イタリア、地中海沿岸、ドイツ諸邦、バルト海方面。」
「確保できる場所を調べさせろ。」
ブリエンヌは苦しげに眉を寄せた。
「陛下。」
「問題は、購入資金です。」
部屋が静まり返った。
誰もが分かっていた。
王国の国庫には金がない。
「外国から穀物を買うには、現金か信用が必要です。」
「ですが、国債市場は不安定です。」
「新たな公債を発行しても、以前と同じ条件では引き受け手が集まりません。」
「高い利子を約束すれば売れるかもしれません。」
「しかし、それは来年以降の支払いを、さらに重くします。」
ルイは乾いた笑いを漏らした。
「金がない。」
「食料がない。」
「信用もない。」
「そして、税を取ろうとすれば、特権階級が反対する。」
「……見事なくらい、どこにも逃げ道がないな。」
ブリエンヌは俯いた。
冗談ではなかった。
それは、王国の現状をそのまま言葉にしただけだった。
「被災地の税はどうなさいますか?」
財務官の一人が尋ねた。
「収穫を失った農民から、例年どおり徴収することは困難です。」
「徴収を猶予すれば、国庫の収入が減ります。」
「徴収すれば、農民は土地を捨てるか、借金をするしかありません。」
「猶予しろ。」
ルイは即答した。
「少なくとも、被害調査が終わるまで取り立てるな。」
「しかし、陛下。」
「畑から何も取れなかった者に、何を売って税を払えと言う?」
「家か?」
「農具か?」
「来年蒔く種か?」
「それを奪えば、今年だけでなく来年も収穫できなくなる。」
財務官は口を閉ざした。
「税を免除するとは言っていない。」
「まず猶予だ。」
「被害の程度を調べ、その後で減免を決める。」
「虚偽の申告には対処する。」
「だが、国庫が苦しいからといって、飢えた者の種籾まで奪うな。」
「承知いたしました。」
「穀物の輸入関税も一時的に引き下げる。」
「港へ入った穀物が、地方の関所や規則で止まらないようにしろ。」
「街道と運河の輸送を優先する。」
「ただし、無理な価格統制や強制徴発は慎重に行え。」
ルイの脳裏に、かつての小麦戦争が蘇っていた。
善意で始めた備蓄。
政府による大量購入。
価格上昇。
買い占めの噂。
群衆の暴走。
飢えに怯える人々は、正しい説明だけでは動かない。
政府が穀物を集めれば、「国王が隠している」と言われる。
市場へ任せれば、「商人を守っている」と言われる。
安値を強制すれば、穀物は闇市場へ消える。
価格を自由にすれば、貧しい者は買えなくなる。
どの道を選んでも、誰かが苦しむ。
それでも、選ばなければならない。
「できることを全部やる。」
ルイは自分へ言い聞かせるように繰り返した。
「それで足りなくても、何もしないよりはいい。」
「備蓄を放出する。」
「輸入を増やす。」
「被災地の税を猶予する。」
「ジャガイモと代替作物を使う。」
「教会、地方長官、軍の輸送力も動員する。」
「飢えた民衆へ兵を向ける前に、その兵に食料を運ばせろ。」
ブリエンヌは深く頭を下げた。
「直ちに手配いたします。」
人々が退出した後も、ルイは一人で地図を眺めていた。
窓は板で塞がれていた。
その隙間から差し込む月明かりが、床に残った硝子片を照らしている。
庭園では、折れた木々が不自然な影を落としていた。
遠くから、屋根を修繕する槌の音が聞こえる。
規則正しい音だった。
しかし、ルイには処刑台を組み立てる音のように聞こえた。
彼は震える指を握りしめた。
「革命は……。」
静かな部屋に、掠れた声が落ちた。
「誰か一人のせいではない。」
国王だけが原因なのではない。
王妃だけが原因なのでもない。
貴族だけでも、聖職者だけでも、ブルジョワだけでも、民衆だけでもない。
不公平な税制。
特権を守ろうとする身分。
改革を拒む高等法院。
返済できないほど膨れ上がった国債。
戦争に費やされた金。
市場の不安。
広がる噂。
凶作。
乾燥。
洪水。
雹。
そして、これから訪れる飢え。
一つだけなら、耐えられたかもしれない。
二つだけなら、改革によって乗り越えられたかもしれない。
だが、すべてが同じ時代に重なっていた。
人間の失敗と自然の災厄が互いを増幅し、王国全体を逃げ場のない場所へ追い込んでいる。
ルイは地図の上に手を置いた。
「自然も。」
「制度も。」
「借金も。」
「戦争も。」
「恐怖も。」
「全部が積み重なって、あの日へ向かっている。」
その「あの日」がいつなのか、彼は知っていた。
1789年7月14日。
バスティーユ襲撃。
この大雹災が起きたのは、その一年前。
正確には、一年と一日前だった。
ルイはその事実に気づき、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
まるで歴史そのものが、残された時間を数えているようだった。
「あと一年……。」
ルイの声が震えた。
「あと一年と一日しかないのか。」
窓の外では、夏の夜とは思えないほど冷たい風が吹いていた。
砕かれた庭園の上で、溶け残った雹が月光を反射している。
それは白銀の雪のようにも見えた。
だが、そこにあるのは美しさではなかった。
飢えの予告。
暴動の種。
そして、革命へ続く最初の足音だった。
神が王国を見放したのか。
それとも、人々がとうに神と王を信じなくなっていたのか。
ルイには分からなかった。
ただ一つ確かなのは、運命の日が止まることなく近づいているということだけだった。




