第二話 四十億リーブルという絶望
六歳。
普通の子供なら、庭園を駆け回り、木剣を振り回して遊び、侍従たちに叱られながら笑っている年頃だった。
しかし、ルイは違った。
彼が毎日のように足を運ぶ場所は遊戯室ではない。
ヴェルサイユ宮殿の一角にある、小さな書庫だった。
壁一面に並ぶ革張りの書物。
古い羊皮紙の匂い。
窓から差し込む柔らかな陽光が、静かな室内を照らしている。
その部屋の中央には、大人が抱えるほど分厚い帳簿が何冊も積み上げられていた。
フランス王国の歳入歳出を記録した財務帳簿。
まだ六歳の王太子が手にするような代物ではない。
「殿下、本当にこちらをご覧になるおつもりですか?」
家庭教師であり教育係でもあるヴォギュヨン公爵が、困惑したように問いかけた。
彼の視線は、目の前の幼い王太子と、机いっぱいに積まれた帳簿を何度も行き来している。
「王太子がお学びになるべきものは、ラテン語、歴史、神学、軍学、礼儀作法でございます。」
「国家財政は、まだ殿下には難しすぎます。」
穏やかな口調だった。
だが、その言葉には「子供が読むものではない」という思いが滲んでいた。
ルイは静かに首を横へ振る。
「国を治める者が、国の金の流れを知らずにどうやって国を治めるのですか。」
公爵は返す言葉を失った。
六歳の子供とは思えない返答だった。
以前の王太子なら、こんなことは言わなかった。
穏やかで、人を疑うことを知らず、読書よりも鍵作りに興味を示すような少年だった。
しかし、この数年で何かが変わった。
その瞳は、ときおり老人のような深い憂いを帯びる。
まるで未来を知っているかのように。
「……承知いたしました。」
公爵は静かに頭を下げ、帳簿を開いた。
紙をめくる音だけが部屋に響く。
ルイは一ページずつ、数字を追っていく。
歳入。
歳出。
租税。
関税。
宮廷費。
軍事費。
国債。
難しい文字が並ぶ。
普通の六歳児なら、数分もすれば飽きてしまうだろう。
だがルイは違った。
一つひとつの数字が、自分の未来を決める運命の宣告のように思えた。
「殿下。」
公爵が指を置く。
「現在の国庫収入は、およそ四億リーブルでございます。」
ルイは静かに頷く。
そして次のページが開かれた。
「国債残高は、およそ四十億リーブル。」
その言葉を聞いた瞬間。
ルイの喉が鳴った。
(やはり……。)
(間違いない。)
(この国は、もうここまで来ている。)
十倍。
国家の年間収入に対し、積み上がった負債は約十倍。
前世の知識が次々と蘇る。
(現代日本でも政府債務はGDP比二〇〇%を超える規模になり、大きな議論になっていた。)
(だが、借金の額だけで国家が破綻するわけじゃない。)
重要なのは、その中身だ。
誰から借りているのか。
どんな通貨で借りているのか。
市場は政府を信用しているのか。
中央銀行は存在するのか。
経済は成長しているのか。
それら全てが関係する。
数字だけ見て判断してはいけない。
しかし――。
ルイは帳簿を強く握りしめた。
(この時代のフランスは違う。)
窓の外では、庭師たちが丁寧に庭木を整えている。
噴水は今日も美しく水を噴き上げていた。
王宮は平和だった。
だが、その平和は莫大な借金の上に築かれている。
ルイは静かに目を閉じる。
この借金は、一日でできたものではない。
何十年という歳月をかけて積み上げられたものだ。
オーストリア継承戦争。
七年戦争。
そして将来、自らの治世で決断することになるアメリカ独立戦争への参戦。
どれも莫大な戦費を必要とした。
戦争に勝てば名誉が得られる。
外交上の影響力も手に入る。
しかし、その代償は決して小さくない。
戦場で流れる血だけではない。
国家の財布もまた、静かに血を流し続ける。
その傷跡が、この帳簿に刻まれていた。
「殿下?」
公爵が心配そうに覗き込む。
「ご気分でも悪いのでしょうか。」
「……いえ。」
ルイは小さく笑って見せる。
「少し考えていただけです。」
もちろん、本当は違う。
胸の奥が締め付けられるように苦しかった。
(もし現代なら……。)
ルイは思考を巡らせる。
大学時代に読んだ経済学の本を思い出す。
MMT――現代貨幣理論。
政府は自国通貨を発行できる限り、財政破綻は起こさない。
国債は返済するものではなく、借り換えながら経済を回していく。
重要なのはインフレ率であり、単純な借金の額ではない。
そんな考え方もあった。
(確かに理論には一理ある。)
(だが……。)
ルイはゆっくり首を振った。
(十八世紀のフランスでは無理だ。)
中央銀行は存在しない。
市場の信用は弱い。
金融制度も未成熟。
農業が経済の中心。
さらに悪天候になれば、収穫量は簡単に落ち込む。
パンの価格はすぐに跳ね上がる。
そんな国で大量の貨幣を流通させればどうなるか。
答えは簡単だった。
「物価が上がる……。」
思わず口から漏れる。
「パン一斤の値段が二倍、三倍になる。」
「だが民衆の給料は変わらない。」
「飢えるのは、力のない者たちだ。」
部屋が静まり返った。
公爵が首を傾げる。
「殿下?」
ルイは慌てて咳払いをした。
「……独り言です。」
危ない。
危うく六歳児とは思えないことを口走るところだった。
前世の知識は、まだ誰にも話してはならない。
話したところで理解されるはずもない。
だが、数字以上に恐ろしいものがあった。
それは、人々の不満だった。
革命は突然起きるものではない。
火薬庫があっても、火がなければ爆発しない。
だが火だけあっても、火薬がなければ何も起きない。
フランスという国は、その両方を抱えていた。
国家財政の悪化。
貴族や聖職者への課税免除。
第三身分への重税。
地方ごとに異なる税制。
徴税請負人による搾取。
都市への人口流入。
度重なる凶作。
パン価格の高騰。
そのすべてが積み重なり、巨大な火薬庫を作り上げていた。
そして最後に導火線へ火をつける存在。
それが国王だった。
「王が悪い。」
そう叫べば、人々の怒りは一つにまとまる。
実際には何十年も積み重なった問題だったとしても、責任は最後の王へ向けられる。
(革命は俺の治世から始まるんじゃない。)
(もう始まっている。)
(祖父の代から……いや、それ以前から積み重なっていた。)
ルイ十五世は決して愚王ではない。
だが、彼一人でも止められなかった。
その積み重なった問題を、自分が引き継ぐことになる。
「殿下。」
公爵が静かに問いかける。
「もし、殿下が王になられたなら。」
「まず何をなさいますか。」
唐突な質問だった。
ルイは帳簿へ視線を落とす。
四十億リーブル。
その数字は山のように重く、彼の肩へ圧し掛かっているようだった。
「改革します。」
短く答える。
「まず税制を見直します。」
「特権階級にも応分の負担をお願いしたい。」
「徴税制度も改めます。」
「国家の信用を取り戻します。」
「無駄な支出を減らします。」
一つひとつ口にする。
それは前世で学んだ知識と、歴史から導き出した答えだった。
公爵は満足そうに微笑む。
「素晴らしいお考えです。」
しかし。
ルイの胸は晴れなかった。
(本当にできるのか。)
歴史は知っている。
改革を唱えた者は、ことごとく反発を受けた。
既得権益を持つ者は抵抗する。
宮廷貴族。
高位聖職者。
地方議会。
誰も自分の利益を手放そうとはしない。
改革を急げば貴族が敵になる。
改革が遅れれば民衆が敵になる。
どちらを選んでも、最後に責任を負うのは王だった。
そして、もう一人。
どうしても守りたい人がいた。
まだ会ったこともない少女。
オーストリア皇女。
マリー・アントワネット。
歴史では浪費家と非難され、王国を滅ぼした悪女として語られることもある女性。
だが、ルイは知っている。
彼女もまた、時代に翻弄された一人だったことを。
夫を支えようとしたこと。
母として子どもを守ろうとしたこと。
最後の最後まで気高く生きたことを。
(この人生では違う。)
(君を政治の駒にはしない。)
(君を孤独にはしない。)
(必ず守る。)
静かな決意だけが胸の中で燃えていた。
だが、未来は残酷だった。
誠実であろうとするほど、人は離れていく。
改革を進めようとすれば貴族は叫ぶ。
「伝統を壊す愚王。」
改革が遅れれば民衆は怒鳴る。
「何も変えられない無能な王。」
革命家たちは叫ぶ。
「自由を奪う最後の象徴。」
誰も、王が一人で苦しみ続けていることなど知ろうとはしない。
帳簿を閉じる。
重い音が部屋へ響いた。
その音は、まるで未来への秒読みが始まった合図のように聞こえた。
やがて時は流れる。
1765年。
父ルイ・フェルディナンが病に倒れ、王太子家は深い悲しみに包まれる。
そして1770年。
一人の少女が、遠くオーストリアからフランスへやって来る。
十四歳の皇女。
マリー・アントワネット。
未来を知らない少女と、未来を知る少年。
二人の運命が交わる日が、静かに近づいていた。




