第一話 始まった人生
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——冷たい風が頬を撫でた。
肌を刺すような冬の風だった。
目を開けると、そこには空があった。
どこまでも青く澄み渡る空。
しかし、その美しさとは裏腹に、耳へ飛び込んできたのは歓声ではなかった。
怒号だ。
「王を殺せ!」
「暗君に死を!」
「共和国万歳!」
何万人もの叫び声が渦を巻き、まるで津波のように押し寄せてくる。
木材の軋む音。
汗と泥の臭い。
血の生臭さ。
すべてが現実だった。
目の前には巨大な木製の処刑台。
その中央には、人ひとりの首を容易く刎ね飛ばせる巨大な刃。
陽光を受けて鈍く輝くそれは、赤黒く乾いた血で染まっていた。
——ギロチン。
(夢……なのか?)
そう思った瞬間だった。
誰かに肩を押さえつけられる。
抵抗しようとしても体はまったく動かない。
首を粗い木の台へ押しつけられ、頬へ冷たい木目の感触が伝わる。
「市民ルイ・カペー。最後に言い残すことはあるか。」
その名前を聞いた瞬間、心臓が止まりそうになった。
(ルイ・カペー……。)
(ルイ十六世!?)
必死に顔を上げる。
目に映ったのは、果てしなく広がる群衆だった。
何万人という市民。
怒りに満ちた表情。
拳を振り上げる者。
石を投げる者。
涙を流しながら祈る者。
笑いながら罵声を浴びせる者。
そして無数の三色旗が風になびいていた。
革命。
フランス革命。
歴史の教科書で何度も見た光景が、目の前に広がっていた。
(違う……。)
(俺は日本人だ!)
(こんなところで死ぬはずが——)
叫ぼうとした、その瞬間。
処刑人が縄を引く。
巨大な刃が勢いよく落下した。
世界が真っ白に染まる。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ、首を断たれる感覚だけが鮮明に残っていた。
⸻
「おぎゃあああ!」
激しい産声が部屋へ響き渡る。
苦しかった。
肺へ空気が流れ込む感覚。
体中が震える。
目を開けると、先ほどとはまるで違う世界が広がっていた。
豪華な天井画。
無数の蝋燭が灯る巨大なシャンデリア。
金糸で刺繍された天蓋。
鼻をくすぐる花の香り。
どこからか漂う上質な香水の匂い。
(……生きてる?)
状況を理解しようとする。
しかし思うように体が動かない。
手を見ようとすると、小さく丸い手しか見えなかった。
指は短く、皮膚は赤ん坊特有の柔らかさをしている。
口を開いても出てくるのは泣き声だけだった。
「元気なお子様でございます。」
女性の声が聞こえる。
フランス語だった。
だが不思議なことに、その意味が自然と理解できた。
まるで最初から知っていた言葉のようだった。
「王太子殿下はとてもお健やかです。」
(……王太子?)
混乱する頭で考える。
王太子。
つまり王位継承者。
そんな存在が自分のはずがない。
すると部屋の扉が静かに開いた。
そこへ現れた一人の老人。
豪華な刺繍が施された青い礼服。
白く整えられた鬘。
堂々とした立ち振る舞い。
周囲の者たちは一斉に頭を下げる。
その顔を見た瞬間、前世の記憶が答えを導き出した。
——ルイ十五世。
歴史の教科書で見た肖像画、そのままの顔だった。
老人はゆっくりと近づき、小さな自分を抱き上げる。
その腕は思っていたよりも温かかった。
「私の孫か。」
優しく目を細める。
「健やかに育ち、立派な王となるのだぞ。」
その穏やかな声を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
(まさか……。)
(そんな……。)
(俺は……。)
(ルイ十六世になったのか。)
その事実を理解した瞬間、全身から血の気が引いた。
⸻
数日が過ぎた。
いや、正確には何日なのかすら分からない。
赤ん坊には時間の感覚などない。
できることは限られていた。
泣く。
眠る。
ミルクを飲む。
また眠る。
それだけだった。
体は完全に赤ん坊。
しかし心だけは二十年以上生きた日本人のままだった。
(最悪だ……。)
眠るたびに、あの処刑台が夢へ現れる。
首へ触れる冷たい木。
民衆の怒号。
ギロチンの刃。
「王を殺せ!」
その声だけが何度も何度も頭の中で反響する。
飛び起きようとしても体は赤ん坊。
泣くことしかできない。
侍女たちは「夜泣きでしょう」と笑う。
違う。
恐怖なのだ。
処刑された記憶が、夢となって蘇っているだけなのだ。
(俺は知っている。)
この国の未来を。
財政は破綻寸前。
改革は失敗する。
革命が起きる。
バスティーユが襲撃される。
王一家はヴァレンヌで捕らえられる。
そして最後は、あの処刑台。
逃げ場などどこにもない。
未来はすでに決まっている。
そう思うだけで息が苦しくなった。
一年。
二年。
三年。
時は静かに流れていった。
ヴェルサイユ宮殿での暮らしは、前世で想像していた王族の生活とはまるで違っていた。
豪華な絨毯。
天井を埋め尽くす美しい絵画。
銀食器に盛られる豪勢な料理。
煌びやかな衣装。
誰もが羨むような生活。
だが、それは同時に不自由でもあった。
朝、目覚めれば侍従が待っている。
着替えも一人ではできない。
食事も常に誰かが見ている。
歩けば護衛が付き従う。
勉強には教師。
遊ぶにも乳母。
王族には「一人」という時間が存在しなかった。
(これじゃ民衆の生活なんて分からない。)
窓から遠くの町を眺める。
煙突から立ち上る煙。
市場を歩く人々。
子どもたちが走り回る姿。
その生活へ触れることは決して許されない。
歴史書に書かれていた一文が頭をよぎる。
『王族は民衆を理解できなかった。』
その意味を、幼いながら痛いほど理解していた。
六歳。
教師との授業が始まっていた。
歴史。
語学。
宗教。
礼儀作法。
王となるための教育は、すでに始まっている。
ある日、教師が静かに問いかけた。
「殿下。王とは何でしょう。」
教科書通りなら答えは決まっている。
神から選ばれた存在。
国家の頂点。
絶対君主。
そう答えるべきなのだろう。
しかし口から出た言葉は違っていた。
「国を治め、国民を守る者です。」
教師の目が見開かれる。
「……ほう。そのようなお考えとは。」
「王だけが幸せでも、国は幸せにはなりません。」
「民が飢えれば国は滅びます。」
「だから王は、誰より先に国民のことを考えなければならないと思います。」
教室が静まり返る。
教師はしばらく何も言えなかった。
やがて深く頭を下げる。
「……大変立派なお考えでございます。」
褒められても嬉しくはなかった。
(違う。)
(俺は偉いわけじゃない。)
(未来を知っているだけだ。)
守れなければ。
改革できなければ。
自分も。
未来の王妃も。
すべてを失う。
その結末を知っているだけなのだから。
その夜。
一人、窓辺へ立つ。
月明かりに照らされたヴェルサイユ宮殿は幻想的だった。
噴水は静かに輝き。
整えられた庭園はどこまでも美しい。
まるで地上の楽園。
だが、彼の目には違って見えていた。
(ここはいずれ民衆に包囲される。)
(兵士が押し寄せる。)
(王族はここを追われる。)
静かな庭園へ、未来の怒号が重なって聞こえる気がした。
(俺は処刑される。)
(マリー・アントワネットも処刑される。)
まだ一度も会ったことのない少女。
後世では浪費家と批判され、悪女と語られることもある女性。
しかし彼は知っている。
最後まで夫と子どもを守ろうとした、一人の母であり妻であったことを。
幼い拳をぎゅっと握り締める。
まだ小さな手。
だが、その瞳には年齢に似合わぬ決意が宿っていた。
「変えてみせる。」
静かな部屋へ、小さな声が響く。
「財政を立て直す。」
「革命を止める。」
「そして——。」
ゆっくりと夜空を見上げる。
「君だけは、必ず守る。」
その誓いは誰にも届かない。
だが確かに、未来の王の胸へ刻まれた。
しかし彼は、まだ知らない。
運命という巨大な濁流は、一人の人間の知識や決意だけでは到底押し返せないほど強大であることを。
歴史を変える戦いは、こうして静かに幕を開けた。




