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凡人がなるルイ16世  作者: 山口祐輝


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19/79

第十九話 高等法院

1787年夏。

ヴェルサイユ宮殿。

名士会の反対によって、カロンヌの改革は挫折した。

だが、国家の財政危機が消えたわけではない。

むしろ時間が過ぎるほど、状況は悪化していた。

国庫に残された現金は減り続けている。

借金の利払いは待ってくれない。

軍人への給与。

官吏への俸給。

地方行政の維持費。

王室が発行した公債の償還。

その全てが、決められた期日に支払われなければならなかった。

国家の信用とは、目に見えない。

だが、一度それが崩れれば、どれほど強大な王国であろうと立ってはいられない。

新たに財政を任されたエティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌは、カロンヌの構想を一部引き継ぎながら、改革案を組み直していた。

土地から収益を得る者に、身分を問わず負担を求める土地税。

契約書や公文書などに課す印紙税。

地方行政の改革。

穀物取引の自由化。

国家支出の整理と削減。

どれも、財政再建には必要な政策だった。

少なくとも、机上の計算ではそうだった。

しかし、フランス王国では、国王が法律を宣言しただけで全てが終わるわけではない。

王令が司法上の効力を持つためには、高等法院による登録が必要だった。

そして最大の関門が、パリ高等法院だった。




国王執務室。

机の上には、綴じられた改革法案と膨大な財政資料が積み上げられていた。

窓の外から差し込む夏の日差しは明るい。

だが、室内の空気は冬のように重かった。

陛下。」

ブリエンヌは改革法案の表紙に手を置いた。

「法案は、ひとまず形になりました。」

ルイは書類から顔を上げた。

この数日、ほとんど眠れていない。

眠りに落ちても、債権者たちが宮殿へ押し寄せる夢を見る。

支払いを求める声が、いつの間にか革命の群衆の怒号へ変わる。

目を覚ませば、まだヴェルサイユの寝台の上にいる。

首もつながっている。

だが、胸の奥に残る冷たさだけは、夜が明けても消えなかった。

「形になった、か。」

ルイは法案を見下ろした。

「これで国を救えると思うか。」

ブリエンヌは、すぐには答えなかった。

「少なくとも、何もしないよりは長く持ちます。」

「ずいぶん慎重な言い方だな。」

「確実に救えると申し上げられる段階は、すでに過ぎております。」

率直な答えだった。

ルイは椅子の肘掛けを強く握った。

指先に力を込めていなければ、手が震えそうだった。

「この法案が成立しても、足りないのか。」

「効果が出るまでには時間がかかります。新たな税が実際に徴収されるまで、国庫をつながねばなりません」

「また借金か。」

「はい。」

ルイの喉が、ひどく乾いた。

借金を返すために、新たな借金をする。

その新しい借金を得るため、将来の税収を担保にする。

そして、その税収を生み出すための法案が、まだ成立すらしていない。

まるで足場のない空中に、石の城を築こうとしているようだった。

一つでも崩れれば、全てが落ちる。

「残る問題は、パリ高等法院です。」

ブリエンヌが続けた。

ルイはゆっくりと頷いた。

「登録される見込みは?」

「……五分五分でしょう。」

その答えに、ルイは乾いた笑いを漏らした。

「ずいぶん楽観的だな。」

ブリエンヌも、疲れたように口元を緩める。

「本当は、もっと低いと思っております。」

「やはりそうか。」

「彼らは税の内容だけを見ているのではありません。国王がどこまで命令できるのか。それを問題にするでしょう」

ルイは背もたれに身を預けた。

天井を見上げ、細く息を吐く。

「国家に金がない。」

「だから、これまで税を免れてきた者にも負担を求める。」

「それだけの話なのだがな。」

「陛下にとっては、そうでしょう。」

ブリエンヌは静かに言った。

「しかし、特権を持つ者にとっては、国家財政よりも、その特権が失われることの方が切実なのです。」

ルイは答えなかった。

その言葉は、名士会ですでに嫌というほど思い知らされていた。




数日後。

パリ。

シテ島に建つ司法宮。

パリ高等法院。

そこは単なる裁判所ではなかった。

王国最大の司法機関であり、王令の登録を担い、時に国王へ建言を提出する政治的な機関でもある。

法服貴族と呼ばれる判事たちは、その官職を購入し、多くの場合は家門の財産として受け継いでいた。

彼らは民衆から選ばれた代表ではない。

貴族の特権とも無縁ではない。

それでも彼らは、自分たちこそ王国の法を守る防壁であると信じていた。

国王が誤った方向へ進もうとしたとき、それを諫めることが高等法院の使命なのだと。

広い議場に、赤と黒の法服をまとった判事たちが次々と入ってくる。

衣擦れの音。

低く交わされる囁き。

重い椅子が床を擦る音。

その一つ一つが、ルイの神経を逆撫でした。

彼は議場を見渡した。

並んでいるのは、武器を持たない老人や法律家たちだ。

兵士でもなければ、革命家でもない。

それなのにルイの目には、その法服の赤が、処刑台の周囲に流れた血の色と重なって見えた。

思わず首筋へ手をやりそうになり、寸前で止める。

ここにギロチンはない。

群衆もいない。

まだ革命は始まっていない。

そう自分へ言い聞かせても、心臓は早鐘を打ったままだった。

議長が立ち上がり、提出された法案を読み始めた。

土地税。

印紙税。

地方行政改革。

財政再建のための諸措置。

読み上げられる条文は、どれも冷静で事務的だった。

だが、その一行一行が、貴族や聖職者、法服貴族の財産に触れる。

議長が読み終えると、議場の各所から低い声が湧き起こった。

「身分を問わず課税するというのか。」

「土地所有権への侵害ではないか。」

「税額の決定を王政府だけに任せるつもりか。」

「一時的な措置が、恒久的な租税に変わるのではないか。」

囁きは次第に大きくなった。

やがて一人の判事が立ち上がる。

「この法案は、登録できません。」

はっきりとした声だった。

ブリエンヌが相手を見据える。

「その理由を伺いましょう。」

「新たな租税は、王国の臣民全体に関わる重大な問題です。」

「承知しております。だからこそ、身分にかかわらず公平な負担を求めているのです」

「問題は、公平であるか否かではありません。」

判事は一歩も引かなかった。

「誰が、その租税への同意を与えるのかということです。」

ブリエンヌの眉がわずかに動く。

「租税を定めるのは国王です。」

「国王は王国の統治者であり、その命令は法となります。」

すると別の判事が立ち上がった。

「国王の権力は、無制限ではありません。」

議場が静まり返った。

あまりにも明確な言葉だった。

絶対王政の頂点にいる国王を前にして、その権力には限界があると公然と宣言したのだ。

ルイは呼吸を忘れた。

胸の内側を、冷たい指で直接つかまれたような感覚に襲われる。

国王にも限界がある。

その言葉自体は、現代人である彼には理解できた。

どれほど強大な権力も、無制限であってはならない。

法による制約。

国民の同意。

代表機関による審議。

前世の日本では、むしろ当然とされていた考え方だ。

だが、ここは1787年のフランスだった。

憲法はない。

国民を代表する常設議会もない。

国王の権限を制限する明確な制度もない。

国王に限界があると言いながら、ではその限界を誰が定めるのか。

それすら決まっていない。

ルイは努めて声を落ち着かせた。

「では、誰に新税を決める権限があるというのだ。」

最初の判事が、まっすぐ国王を見た。

「全国三部会です。」




その言葉が発せられた瞬間。

議場から、あらゆる音が消えた。

全国三部会。

聖職者からなる第一身分。

貴族からなる第二身分。

そして、平民からなる第三身分。

王国の三つの身分の代表が集まり、国政を議論する全国会議。

だが、最後に招集されたのは1614年。

ルイ十三世の治世の初め。

それ以来、一度も開かれていない。

百七十年以上もの間、眠り続けてきた制度だった。

あまりに長く開かれていないため、招集方法も、代表の選び方も、採決の手続きも、ほとんど忘れ去られている。

それが突然、国家の未来を決める存在として持ち出された。

ルイの背中を冷たい汗が流れた。

(三部会……。)

(ついに出てきた。)

前世の教科書で見た言葉。

1789年。

財政危機。

三部会の招集。

第三身分。

国民議会。

球戯場の誓い。

バスティーユ襲撃。

革命。

断片的な単語が、脳裏を次々と駆け抜けていく。

その先に待つものを、ルイは知っていた。

王権の停止。

幽閉。

裁判。

そして処刑台。

耳の奥で、存在しない群衆の声が聞こえた。

――暴君を倒せ。

――ルイ・カペーに死を。

ルイは机の下で自分の太腿をつねった。

痛みで意識を現在へ引き戻す。

ここは革命裁判所ではない。

目の前にいるのは判事たちだ。

今日は1787年。

まだ二年ある。

いや。

本当に、二年もあるのか。

自分が何かを変えれば、革命は早まるかもしれない。

恐れて何もしなければ、国家は先に破産する。

どちらへ進んでも、見えない処刑台へ近づいているように思えた。




「全国三部会を招集せよと?」

ブリエンヌが尋ねた。

「そのとおりです。」

「本気でおっしゃっているのですか。」

「我々は、冗談で王国の基本法を論じているのではありません。」

判事の声には確信があった。

ブリエンヌは法案を持ち上げた。

「ここには、国家の財政を立て直すために必要な措置が記されています。」

「支払いは日々迫っている。」

「徴税制度の変更にも時間がかかる。」

「三部会を招集するとなれば、各地から代表を選び、ヴェルサイユへ集め、審議を行わねばならない。」

「数か月で済むとは限りません。一年以上を要する可能性もあります」

「それでも、招集すべきです。」

「その間に国庫が空になれば、どうするのです。」

「それは王政府の責任でしょう。」

議場の空気が張り詰めた。

ブリエンヌの顔から表情が消える。

「では、高等法院には責任がないと?」

「我々の責務は、王国の法を守ることです。」

「国家を存続させることよりも?」

「国家が危機にあるからこそ、法を曲げてはなりません。」

「国家が破産し、法を執行する官吏への給与さえ支払えなくなっても、同じことが言えるのですか。」

判事は一瞬だけ沈黙した。

しかし、すぐに答えた。

「破産の危機を理由に、王政府へ無制限の課税権を認めることはできません。」

「一度認めれば、次も同じ理屈が使われる。」

「国家の危機を宣言するだけで、いかなる税も課せるようになってしまうからです。」

ルイは唇を引き結んだ。

判事たちの言い分は、決して無茶苦茶ではなかった。

むしろ、理屈としては理解できる。

政府が自ら危機を宣言し、それを理由に議論も同意もなく増税する。

現代であれば、強く警戒されるべき行為だ。

手続きには意味がある。

権力を縛る仕組みは必要だ。

しかし、ルイには彼らの主張が完全な正義とも思えなかった。

高等法院は国民から選ばれた議会ではない。

判事たちの多くもまた、課税によって損失を受ける特権身分だった。

法を守るという主張の裏側に、自分たちの財産と地位を守ろうとする意図がないとは言えない。

「一つ尋ねたい。」

ルイが口を開いた。

議場の視線が、一斉に国王へ集まる。

「諸君は、全国三部会だけが新税に同意できると言った。」

「はい、陛下。」

「では、三部会が税を拒否した場合はどうする。」

誰も答えなかった。

「土地を持つ貴族が土地税を拒み、聖職者が教会財産への負担を拒み、平民がこれ以上の増税には耐えられないと訴えたなら、誰が国庫を救うのだ。」

沈黙が広がる。

ルイは続けた。

「諸君は、王の権力には限界があると言う。」

「それは分かる。」

「だが、権力に限界を設けるなら、その後に誰が責任を負うのかも決めなければならない。」

「王には決めさせない。」

「高等法院は責任を負わない。」

「三部会を開けば解決するという保証もない。」

「それでは、最後に責任を負うのは誰だ。」

判事たちは互いに顔を見合わせた

やがて一人が答える。

「王国全体です。」

ルイは小さく息を吐いた。

「王国全体という言葉は美しい。」

「だが、王国全体は一枚の請求書に署名してはくれない。」

低い声だった。

怒鳴ったわけでもない。

それでも、議場の誰もすぐには反論できなかった。




会議は一日では終わらなかった。

翌日も。

その翌日も。

ブリエンヌと高等法院の対立は続いた。

「課税の公平化は必要です。」

「国民の同意なき課税は認められません。」

「貴族と聖職者の免税を維持したまま、どうやって平民の負担を軽くするのです。」

「特権の問題と、王政府の権限の問題を混同してはなりません。」

「国庫には時間がないのです。」

「時間がないことは、違法を正当化しません。」

「では、国家が破綻しても構わないのですか。」

その問いが出るたび、判事たちは沈黙した。

だが、沈黙は同意ではなかった。

彼らは答えないまま、登録を拒み続けた。

議論が重なるほど、争点は税制から離れていく。

土地税が公平かどうかではない。

印紙税が妥当かどうかでもない。

国王は、国民の同意なく新税を定められるのか。

高等法院には、それを阻止する権利があるのか。

全国三部会は、王権よりも上に立つのか。

誰も明確な答えを持っていなかった。

フランス王国は成文憲法を持たない。

何が「王国の基本法」であるかについてさえ、見解は一致していない。

互いが異なる伝統を持ち出し、自らの正当性を主張する。

国王は、自分こそ国家を代表すると言う。

高等法院は、自分たちこそ法を守っていると言う。

そして国庫だけが、議論とは無関係に空へ近づいていた。




その夜。

ヴェルサイユ宮殿。

ルイは自室の窓辺に立ち、庭園を見下ろしていた。

昼間の暑さは消え、夜風がカーテンを揺らしている。

机の上にはワインが置かれていた。

だが、ほとんど口をつけていない。

酔えば眠れるかもしれない。

同時に、眠りの中であの処刑台へ戻ってしまう気もした。

背後で扉が開く。

振り返ると、マリー・アントワネットが立っていた。

「まだ休まないの?」

「眠れそうにない。」

王妃は机の上の書類を見た。

「また財政の書類?」

「ああ。」

「あなたは朝から、そればかり見ているわ。」

「見ていなければ、数字が消えてくれるのなら、喜んでそうする。」

マリー・アントワネットは、夫の顔を見つめた。

目の下には濃い影がある。

指先は落ち着きなく、ワイングラスの脚を何度も撫でていた。

「高等法院との話し合いは、うまくいかなかったのね。」

ルイは自嘲するように笑った。

「うまくいっていたら、こんな顔はしていないだろう。」

「あなたは、いつも何かを怖がっているような顔をしているから、見分けがつきにくいわ。」

以前なら傷ついていたかもしれない。

だが、今夜のルイは小さく笑った。

「それもそうだ。」

王妃は向かいの椅子へ座った。

「何を言われたの?」

「国王にも限界がある、と。」

マリー・アントワネットの眉が上がった。

ハプスブルク家に生まれ、王権を当然のものとして育った彼女にとって、それは容易に聞き流せる言葉ではない。

「随分と大胆なことを言うのね。」

「だが、間違っているとも言い切れない。」

「あなたは国王でしょう。」

「国王だからこそだ。」

ルイは窓の外へ視線を戻した。

「私は命令できる。」

「軍を動かせる。」

「法律を公布し、人を罰することもできる。」

「だが、できることと、してよいことは同じではない。」

マリー・アントワネットは黙って聞いていた。

「高等法院は、法を守るために抵抗していると言う。」

「ブリエンヌは、国家を救うために改革が必要だと言う。」

「どちらの言葉にも理屈がある。」

「だからこそ、厄介なのね。」

「ああ。」

ルイはワイングラスを持ち上げたが、飲まずに戻した。

「悪人が一人いて、その者を追い出せば全てが解決するのなら簡単だ。」

「だが、誰もが自分は正しいと思っている。」

「ブリエンヌは国家を救おうとしている。」

「高等法院は王権の濫用を防ごうとしている。」

「貴族は財産と権利を守ろうとしている。」

「平民は、これ以上の負担には耐えられない。」

「皆にそれぞれの正しさがある。」

ルイは拳を握った。

「なのに、その正しさを積み重ねるほど、国だけが沈んでいく。」

しばらく、二人の間に言葉はなかった。

庭園の噴水の音が、かすかに聞こえる。

やがてマリー・アントワネットが尋ねた。

「三部会を開くの?」

ルイの肩が強張った。

王妃はその変化を見逃さなかった。

「その言葉を聞くと、あなたはいつも以上に怯えるのね。」

「……よい予感がしない。」

「なぜ?」

ルイは答えられなかった。

未来を知っているからだとは言えない。

三部会の先に革命がある。

革命の先に、王妃の処刑がある。

そして自分の処刑がある。

目の前にいる妻の白い首へ、一瞬だけ斜めの刃が重なった。

ルイは慌てて目を逸らした。

「長く使われなかった制度には、それなりの理由がある。」

ようやく、それだけを答えた。

マリー・アントワネットは完全には納得しなかったようだが、それ以上は尋ねなかった。

「それでは、どうするの?」

「まだ決めていない。」

「時間はあるの?」

「ない。」

即答だった。

それが何よりも恐ろしかった。




数日後。

パリ高等法院は、ついに正式な判断を下した。

土地税と印紙税を含む改革法案の登録を拒否する。

さらに高等法院は、王国へ向けて建言を発した。

――新たな租税を承認する権限を持つのは、全国三部会のみである。

その主張は、たちまちパリ中へ広がった。

印刷業者が建言の内容を刷り、街頭で売りさばく。

新聞やパンフレットは、高等法院を「自由の守護者」と称えた。

カフェでは法律家や文筆家が議論を交わし、広場では市民たちが高等法院の判事の名を叫んだ。

「高等法院は国民を守った!」

「新税を阻止したぞ!」

「法が専制に勝った!」

民衆は歓声を上げた。

彼らの多くは、土地税の本当の仕組みを知らない。

改革が特権身分にも負担を求めるものであることさえ、十分には理解していなかった。

ただ、新しい税が拒否された。

国王に抵抗する者が現れた。

それだけで、高等法院は英雄となった。

貴族たちも判事を称賛した。

だが、彼らが求めていたのは必ずしも国民の自由ではない。

自らの特権と財産を守るために、王権を抑えたかった者も少なくなかった。

異なる思惑を持つ者たちが、同じ言葉を叫んでいた。

――全国三部会を招集せよ。

その声が何を呼び覚ますことになるのか、まだ誰も理解していなかった。




ヴェルサイユ宮殿。

ブリエンヌは数枚の報告書を抱え、国王執務室へ入った。

その足取りは重かった。

「陛下。」

ルイは報告書を受け取り、黙って読み進めた。

パリ市民の反応。

新聞の論調。

貴族たちの動き。

高等法院への支持。

地方の高等法院にも、同様の抵抗が広がる兆しがある。

最後まで読むと、ルイは静かに書類を閉じた。

「……こうなるとはな。」

「申し訳ありません。」

「君が謝ることではない。」

「しかし、私の説得は失敗しました。」

「カロンヌも同じことを言っていた。」

ルイは椅子から立ち上がった。

「カロンヌは名士会を説得できなかった。」

「君は高等法院を説得できなかった。」

「だが、二人が無能だったからではない。」

「説得されるつもりのない者を、言葉だけで動かすことはできない。」

ブリエンヌは唇を噛んだ。

「陛下。もはや、これは一つの法案を登録するかどうかという問題ではありません。」

「ああ。」

「財政問題だけでもありません。」

ブリエンヌは高等法院の建言へ手を置いた。

「王は自らの判断で新税を課すことができるのか。」

「それとも、全国三部会の同意が必要なのか。」

「これは王権そのものを巡る争いです。」

ルイは窓辺へ歩いた。

庭園には、いつもと変わらぬ風景が広がっている。

整然と刈り込まれた木々。

幾何学的に配置された花壇。

国王の意思によって、自然さえ秩序立てられたヴェルサイユ。

だが、その宮殿の外では、もはや国王の命令だけでは動かせない巨大な何かが生まれ始めている。

世論。

法。

特権。

財政危機。

そして、全国三部会を求める声。

それらが絡み合い、一つの奔流になろうとしていた。

ルイは両手を背後で組んだ。

震えをブリエンヌに見せないためだった。

「国庫は、あとどれほど持つ。」

「借款が予定どおり集まれば、しばらくは。」

「集まらなければ?」

「支払いの延期を検討しなければなりません。」

「国家の信用が崩れるな。」

「はい。」

「軍への給与は?」

「遅配の可能性があります。」

「官吏は?」

「同じです。」

「穀物の備蓄と輸送は?」

「予算がなければ維持できません。」

一つ問いかけるたび、逃げ道が消えていく。

高等法院に譲れば、改革は止まる。

三部会を招集すれば、革命への扉が開くかもしれない。

強制的に登録すれば、王は専制君主と非難される。

何もしなければ、国家が破産する。

ルイは目を閉じた。

暗闇の中に、処刑台が浮かぶ。

何度逃げようとしても、その影は常に自分の進む先へ回り込んでくる。

未来を変えるために動いてきたはずだった。

それなのに、自分の決断一つ一つが、かえって記憶の中の歴史を呼び寄せているように思えた。

それでも、王である以上、決めなければならない。

恐ろしいからといって、決断を他人へ押しつけることはできない。

ルイはゆっくりと目を開いた。

「ならば。」

声がわずかに掠れた。

一度息を整え、もう一度言う。

「ならば、私は国王として命じる。」

ブリエンヌが顔を上げる。

ルイは振り返った。

顔から恐怖が消えたわけではない。

心臓は激しく脈打ち、足元が崩れるような感覚も残っている。

それでも、その目だけはブリエンヌから逸らさなかった。

「高等法院へ行く。」

「陛下……。」

「親臨座――リ・ド・ジュスティスを開く。」

リ・ド・ジュスティス。

国王自らが高等法院へ臨席し、その権威によって王令の登録を命じる。

高等法院の抵抗を押し切るために国王が用いる、最も強力な手段だった。

そこでは、法の源泉たる国王の前で、判事たちは最終的に命令へ従わなければならない。

「国王の権限によって、改革法案を登録させる。」

ブリエンヌは息を呑んだ。

「陛下。それを行えば、高等法院との対立は決定的になります。」

「分かっている。」

「民衆は、陛下が法を踏みにじったと考えるでしょう。」

「それも分かっている。」

「一度強制登録を命じれば、妥協の道は極めて狭くなります。」

ルイの脳裏に、再び群衆の怒号が響いた。

――専制を許すな。

――暴君を倒せ。

未来から届く声に、今度は目を逸らさなかった。

「それでも、国を止めるわけにはいかない。」

ルイは静かに言った。

「高等法院は、国王にも限界があると言った。」

「確かに、そのとおりなのだろう。」

「だが、責任にも限界があるとは、誰も言ってくれない。」

国王の権力には限界がある。

しかし、国家が崩れたとき、最後に責任を問われるのは国王だった。

改革を強行しても、恨まれる。

改革を断念しても、無能と罵られる。

三部会を開いても、混乱を招いたと責められる。

開かなければ、民意を拒んだと非難される。

どの道を選んでも、その果てに待つのは自分の首かもしれない。

それでも、選ばなければならなかった。

「準備を進めてくれ。」

ルイは命じた。

「私が自ら、パリ高等法院へ赴く。」

「そして、登録を命じる。」

ブリエンヌはしばらく国王を見つめていた。

やがて深く頭を下げる。

「承知いたしました、陛下。」

扉が閉じ、ルイは一人になった。

強く握り締めていた手を開く。

掌には爪が食い込み、赤い跡が残っていた。

覚悟を決めたつもりだった。

それでも、震えは止まらない。

1787年8月6日。

国王ルイ十六世は、親臨座による改革法案の強制登録へ踏み切ろうとしていた。

国家を救うために。

王権を守るために。

そして何より、何も決められないまま破滅することだけは避けるために。

だが、その決断は高等法院を屈服させるのではなく、より激しい抵抗を呼び起こすことになる。

国王と高等法院。

王権と法。

財政再建と特権。

両者の間に残されていた細い橋は、今まさに焼け落ちようとしていた。

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