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凡人がなるルイ16世  作者: 山口祐輝


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第十七話 自由貿易の落とし穴

1786年。

ヴェルサイユ宮殿。

国王執務室の机上に、一通の外交文書が置かれていた。

幾度も書き直された条文。

品目ごとに記された関税率。

商人、製造業者、農場主たちから集められた意見書。

そして、表紙に記された二つの国名。

フランス王国。

グレートブリテン王国。

七年戦争では、植民地と海洋覇権を巡って争った。

アメリカ独立戦争では、敵味方に分かれて砲火を交えた。

長年にわたって互いを最大の仇敵と見なしてきた二つの大国が、今度は剣や大砲ではなく、商品と貨幣によって利益を分かち合おうとしていた。

それが、英仏通商条約だった。


「通商条約……。」

ルイ十六世は、慎重な手つきで書類をめくった。

紙の擦れる乾いた音が、静まり返った執務室に響く。

「イギリスとの関税を引き下げ、両国間の貿易を拡大する。」

「つい数年前まで戦争をしていた相手と、今度は自由な商売を始めるというのか。」

口調は穏やかだった。

だが、書類を持つ指には、わずかに力が入っていた。

イギリス。

その国名を見るだけで、ルイの胸には説明しがたい不安が湧き上がる。

前世の記憶の中で、イギリスはフランス革命に干渉し、革命戦争における最大の敵の一つとなった。

もっとも、ルイが知っているのは教科書に書かれていた歴史の大筋だけである。

何年に、どの条約が、どのような細目で締結されたか。

その条約が各地方の産業にどのような影響を与えたか。

そこまで詳しく覚えているわけではなかった。

未来を知っている。

しかし、全てを知っているわけではない。

その事実が、こうした重要な決断のたびに、ルイの心を冷たく締めつけた。


机を挟んだ向かい側には、外務大臣ヴェルジェンヌと財務総監カロンヌが座っていた。

カロンヌは、いつものように自信に満ちた態度で口を開いた。

「はい、陛下。」

「アメリカ独立戦争は終わりました。イギリスとの敵対を直ちに忘れることはできませんが、平時においてまで交易を閉ざし続ける理由はございません。」

外務大臣ヴェルジェンヌも続ける。

「戦争によって国威を取り戻した今こそ、和平を経済的利益へ変えるべき時です。」

「両国の商人が互いの市場へ参入できるようになれば、フランスの商品は、これまで以上に広く売れるようになるでしょう。」

「剣で奪うのではなく、交易によって富を得る。」

ルイは小さく呟いた。

「それが本当に可能なら、戦争を繰り返すよりも、はるかに望ましい。」

戦争が国庫に何をもたらすのか。

ルイは嫌というほど思い知らされていた。

アメリカ独立戦争に勝利し、フランスは国際的威信を回復した。

宿敵イギリスへ打撃を与え、アメリカ合衆国の独立を実現させた。

しかし、その代償として王国は莫大な戦費を背負った。

借金は膨れ上がり、利払いは歳入を圧迫し続けている。

どれほど華々しい勝利を収めても、それだけで国庫に金が戻ってくるわけではなかった。

戦争が終わった今、必要なのは平和の利益だった。


ルイは再び条約案へ目を落とした。

前世でも、「自由貿易」という言葉は知っていた。

国家同士が関税や輸入制限を減らせば、商品の往来は活発になる。

それぞれの国が得意な商品を生産し、不得意な商品を他国から買う。

互いの強みを生かすことで、全体としてより豊かになれる。

比較優位。

教科書で習った経済学の基本だった。

(フランスは農業国だ。)

(国土は広く、土地は肥沃で、人口も多い。)

(ワインやブランデー、それにさまざまな農産物を輸出できる。)

(イギリスの市場でフランスの商品が売れれば、農民や商人の収入が増える。)

(収入が増えれば消費も増える。)

(農村が豊かになれば、最終的には税収も増えるはずだ。)

そう考えれば、悪い話には思えなかった。

むしろ、増税以外の方法で国家の収入を増やすための好機にさえ見えた。


カロンヌはルイの反応を確かめながら、机上へ一枚の資料を広げた。

「イギリスは毛織物、綿織物、金属製品、各種の工業製品に強みを持っております。」

「一方、フランスには広大な農地があり、良質なワイン、ブランデー、油、果実、さらに絹織物や高級品がございます。」

「互いに得意とする商品を売買することができれば、両国の消費者と生産者は、ともに利益を得るでしょう。」

ルイは資料に視線を走らせた。

「関税を全て撤廃するわけではないのだな。」

「もちろんでございます。」

「段階的に引き下げ、貿易を妨げている過度な障壁を取り除きます。フランスの産業を一夜にして無防備にするものではありません。」

その言葉を聞いても、ルイの胸から不安は消えなかった。

理由を説明できない。

だが、処刑台へ向かう足音のように、かすかな警告が心の奥で鳴っていた。

「フランスの製造業は耐えられるのか。」

ルイは尋ねた。

「イギリス製品が大量に入ってくれば、国内の職人が苦しむことにはならないか。」

カロンヌは一瞬だけ沈黙した。

だが、すぐに落ち着いた声で答えた。

「一部の産業には競争が生じるでしょう。」

「しかし、競争はフランスの製造業者にも改善を促します。技術を改良し、生産費を下げ、より良い商品を作る契機となるはずです。」

「競争が産業を強くする、か。」

「はい。」

「そして農産物の輸出が増えれば、農村の所得も向上します。国内市場そのものが拡大し、長期的には工業製品の需要も増えるでしょう。」

筋は通っていた。

少なくとも、紙の上では。


ルイは指先で机を軽く叩いた。

農民の収入が増える。

農村に貨幣が流れ込む。

その金で農民が道具や衣服を買う。

商業が活発になり、産業も成長する。

経済が拡大すれば税収も増え、財政再建へつながる。

それは、ルイが長年望んでいた流れだった。

重い税を新たに課すだけではなく、王国そのものを豊かにする。

民を貧しくして国庫を満たすのではなく、民が豊かになることで国家も豊かになる。

「農民の収入が増えるなら、価値はある。」

ルイは、なおも迷いながら言った。

「地方の貧困を和らげることができれば、飢饉への備えにもなる。」

「ただし、輸入の急増には注意しろ。」

「国内の工房が耐えられないほど商品が流れ込むなら、何らかの対策が必要になる。」

カロンヌは深く頭を下げた。

「承知いたしました、陛下。」




1786年9月26日。

フランスとイギリスの間で、英仏通商条約が調印された。

交渉を担ったイギリス側の代表ウィリアム・イーデンの名から、後にイーデン条約と呼ばれることになる条約である。

フランス語では、Traité de commerce franco-britannique。

あるいは、Traité d’Eden。

条約によって、両国は多くの品目に課していた関税を引き下げることを決めた。

フランスのワインやブランデーは、イギリス市場へ入りやすくなる。

一方で、イギリスの織物、陶器、金属製品、その他の工業製品も、フランス市場へ流れ込みやすくなる。

宮廷では期待の声が上がった。

「戦争の時代は終わった。」

「これからは商業によって競い合う時代だ。」

「フランスの豊かな農産物が、イギリスの食卓を満たすことになる。」

「戦争に費やしていた金が、今度は商人と生産者を豊かにする。」

新聞や冊子も、新たな時代の到来を語った。

フランスの経済学者たちの中には、条約を文明の進歩として歓迎する者もいた。

国境を越えて商品が行き来すれば、国家は戦争よりも平和によって大きな利益を得る。

交易によって結ばれた国同士は、以前より戦争を避けるようになる。

それは理性的で、希望に満ちた未来像だった。

ルイもまた、その未来を信じたかった。


翌1787年。

条約が本格的に施行されると、英仏海峡を渡る商船の数は次第に増えていった。

ボルドーの港からは、樽に詰められたワインが積み出された。

コニャック地方からはブランデーが運ばれた。

南部からは油や果実が送られ、リヨンの高級絹織物やパリの奢侈品も、イギリスの富裕層へ向けて輸出された。

港湾都市では、取引の増加を歓迎する声が響いた。

「イギリス人が、もっとフランスのワインを買うそうだ。」

「今年は昨年より高く売れるかもしれない。」

「新しい倉庫が必要になる。」

「船も人手も足りないほどだ。」

ワインの産地では、商人が農村を回り、将来の収穫分まで買い付けようとした。

一部の地主や栽培農家は、確かに利益を増やした。

輸出に関わる商人。

港湾労働者。

船主。

樽を作る職人。

商品の流通に関わる者たちは、新たな需要の恩恵を受け始めた。

ルイのもとにも、明るい報告が届いた。

「ボルドー港の取引が増加しております。」

「ブランデーの輸出に期待が集まっております。」

「イギリス市場から、新たな注文が入りました。」

報告書を読んだルイは、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

(成功したのかもしれない。)

(少なくとも、農業と商業には利益が出始めている。)

(これが続けば、地方の収入も増える。)

だが、その安堵は長く続かなかった。


同じころ。

フランス北部や北東部の工業都市では、まったく異なる光景が広がっていた。

港へ運び込まれたイギリス製品が、商人の手によって国内各地へ流れ始めたのである。

綿織物。

毛織物。

陶器。

金属製品。

工具。

日用品。

それらは、多くの場合、フランスの工房で作られた品よりも安かった。

しかも、単に安いだけではない。

品質が一定していた。

同じ大きさ。

同じ形。

同じ厚さ。

大量に注文しても、ほぼ同じ規格の商品が届く。

長年の経験を積んだ職人が一つずつ仕上げるフランスの工房に対し、イギリスでは機械と分業による大量生産が始まっていた。

一人の職人が最初から最後まで作るのではない。

作業を細かく分け、機械を使い、多くの労働者が同じ工程を繰り返す。

生産される量が違った。

必要な時間が違った。

そして、商品の価格が違った。


ある日。

国王執務室へ入ってきたカロンヌの顔には、以前の余裕がなかった。

分厚い報告書を抱え、挨拶を終えると、すぐに本題へ入った。

「陛下。」

「北部の製造業地帯から、深刻な報告が届いております。」

ルイは顔を上げた。

カロンヌの声を聞いただけで、背中に冷たいものが走った。

「何が起きた。」

「織物工房の閉鎖が相次いでおります。」

「閉鎖?」

ルイの指が、机の端を強くつかんだ。

「条約の施行から、まだそれほど時間は経っていないはずだ。」

「それほど早く影響が出たのか。」

「はい。」

カロンヌは報告書を開いた。

「イギリスから輸入される綿織物と毛織物の価格が、あまりにも安いのです。」

「国内の工房では、同じ価格で販売すれば利益が出ません。」

「価格を維持すれば商品が売れず、価格を下げれば経営が成り立たない。」

「そのため、生産を縮小するか、工房そのものを閉鎖する者が増えております。」


ルイは報告書を引き寄せた。

輸入量。

市場価格。

工房の閉鎖数。

解雇された労働者。

紙の上に並ぶ数字を追うたび、呼吸が浅くなっていく。

一行読む。

次の一行へ進む。

さらに悪い数字が現れる。

まるで、国庫の帳簿を初めて読んだ幼い日のようだった。

どこかに希望を示す数字がないかと探しても、見つからない。

「この価格は本当なのか。」

「間違いございません。」

「輸送費と関税を含めても、フランス製品より安いものが少なくありません。」

「なぜ、ここまで差がつく。」

尋ねながら、ルイの中では、すでに一つの答えが浮かび始めていた。

その答えに気づいた瞬間、口の中が乾いた。

(そうか……。)

(イギリスは、今まさに産業革命の中にいる。)

蒸気機関。

紡績機。

機械化。

分業。

石炭。

鉄。

大量生産。

前世の教科書では、数行で説明されていた言葉だった。

「イギリスでは産業革命が起こり、工業生産が急速に拡大した。」

文章にすれば、それだけで終わる。

だが、現実の産業革命とは何か。

それは、安価な商品が海を越え、他国の工房を押し潰すことだった。

一台の機械が、何人もの熟練職人の仕事を奪うことだった。

ある国の発展が、別の国の失業へ変わることだった。

ルイは歴史上の用語として産業革命を知っていた。

しかし、それが自分の王国を襲う力だとは、十分に理解していなかった。


地方では、すでに悲鳴が上がっていた。

「今月は注文が一つも来ない。」

「商人はイギリス製の布ばかり仕入れている。」

「これ以上、職人へ賃金を払えない。」

「工房を閉めるしかない。」

長年続いた家族経営の工房が閉鎖された。

親方は道具を売り、職人は仕事を失った。

徒弟たちは修業を続ける場所を失い、将来の見通しを失った。

失業者の一部は、仕事を求めて都市へ移動した。

だが、都市にも十分な仕事はなかった。

家賃を払えない者。

パンを買えない者。

家族を養えない者。

昨日まで働いていた者たちが、突然、施しを求める側へ追いやられた。

そして人々の怒りは、目に見えない「市場」ではなく、目に見える相手へ向かった。

イギリス人。

輸入商人。

工場主。

財務総監。

そして、条約を認めた国王。


「国王は、フランスの職人よりイギリスの商人を選んだ。」

酒場で、そんな言葉が囁かれた。

「宮廷の連中は、安い外国製品を買えて喜んでいる。」

「そのために、俺たちの仕事が奪われた。」

「王は農民を助けると言った。だが、職人は国民ではないのか。」

噂は事実よりも速く広がった。

条約が全ての不況の原因であるかのように語られた。

経営に失敗した工房まで、イギリス製品のせいだと言い始めた。

賃金を下げたい経営者は、輸入品との競争を口実にした。

不安が不安を呼び、消費者は財布の紐を締めた。

商品が売れなくなり、さらに工房が苦しくなる。

条約がもたらした直接的な打撃に、人々の恐怖が加わり、悪循環が生まれ始めていた。


「私は……。」

報告を聞き終えたルイは、かすれた声で呟いた。

「自由な交易は、両国を豊かにすると思っていた。」

「フランスの農産物を売り、イギリスの工業製品を買う。」

「そうすれば、互いに利益を得られると。」

カロンヌは、すぐには答えなかった。

国王の言葉を否定することも、安易に慰めることもできなかった。

やがて、慎重に口を開く。

「長期的には、その可能性もございます。」

「交易そのものが誤りであるとは申し上げません。」

「ですが、現在のフランス工業は、イギリスと同じ条件で競争できる段階にありません。」

「イギリスは機械化を進め、石炭と鉄を大量に利用し、豊富な資本を製造業へ投じております。」

「一方、フランスの生産は、今なお小規模な工房と熟練職人に大きく依存しております。」

「同じ商品を作っていても、生産力が違いすぎるのです。」

「では、最初から同じ土俵ではなかったのか。」

「少なくとも、工業製品に関しては。」

その答えを聞いた瞬間、ルイは唇を噛んだ。

理論そのものが、完全に間違っていたわけではない。

だが、理論が成り立つためには前提があった。

競争する双方に、ある程度は対抗できる力があること。

打撃を受けた産業から、成長する産業へ労働者が移れること。

失業した者が、新しい仕事を得るまで生き延びられること。

そして、国家が変化に耐える時間を持っていること。

今のフランスには、その全てが欠けていた。


「関税を戻せないのか。」

ルイは尋ねた。

その声には、焦りが滲んでいた。

「今すぐ関税を引き上げ、イギリス製品の流入を抑える。」

カロンヌは苦い表情を浮かべる。

「条約を締結した直後に、一方的に関税を戻すことは困難です。」

「イギリスも報復措置を取るでしょう。フランスのワインやブランデーに再び高い関税を課す可能性があります。」

「そうなれば、今度は輸出に期待して生産を増やした農業地帯が打撃を受けます。」

「工業を守れば、農業が苦しむ。」

「農業を守れば、工業が苦しむ。」

ルイは額へ手を当てた。

どちらを選んでも、誰かが傷つく。

そして傷ついた者は、国王に裏切られたと考える。

「では、工房を支援するしかない。」

「新しい機械を導入させろ。技術者を育て、融資を行い、生産性を高める。」

「イギリスと競争できるよう、国家が工業化を助けるのだ。」

「必要な政策であると存じます。」

カロンヌは答えた。

「しかし、陛下。」

その後に続く言葉を、ルイは聞く前から理解していた。

「金がないのだな。」

「……はい。」

国庫には、産業を大規模に支援する余裕がなかった。

工場を近代化するには金が必要だった。

機械を購入し、運河と道路を整備し、技術者を雇い、労働者を育てなければならない。

だが、王国の歳入の多くは、既に過去の借金の利払いへ消えている。

未来へ投資する金を、過去の戦争が奪っていた。


問題は、それだけではなかった。

数週間後。

カロンヌは再び、別の報告書を持って国王の前へ現れた。

「陛下。」

「今度は何だ。」

ルイは反射的に椅子の肘掛けをつかんだ。

最近では、カロンヌが書類を持って入ってくるだけで、胸の奥がざわつくようになっていた。

「商人と投資家の動きに変化が見られます。」

「工業から資金を引き揚げる者が増えております。」

ルイは眉をひそめた。

「今こそ工業を強くしなければならないのに、なぜ投資をやめる。」

「イギリスとの競争に勝てないと判断しているためです。」

カロンヌは一枚の書類を差し出した。

「新たな工房を建てるより、別の資産へ投資した方が安全だと考えております。」

「資金は、どこへ向かっている。」

「土地です。」

「土地?」

「はい。とりわけ、ワイン用のブドウ畑や、輸出の増加が期待される農地でございます。」

農産物の輸出が増えれば、土地から得られる利益も増える。

そう考えた投資家たちは、工場を建てる代わりに農地を買い始めた。

古くから土地を所有してきた貴族だけではない。

商業で財を築いた裕福な市民。

金融業者。

徴税請負人。

海外交易で利益を得た商人。

彼らもまた、資産を土地へ変えようとした。

土地には、単なる収益以上の価値があった。

安定した財産である。

食料を生み出す。

価格が急に失われにくい。

そして何より、土地所有は社会的な名誉につながった。

土地を買い、領地を持ち、貴族のように暮らす。

商業によって得た富を、地位と安定へ変えることができる。

工業への投資が危険に見えるほど、土地は魅力的に見えた。


「土地の価格が上昇しております。」

カロンヌは説明した。

「輸出による収益を期待して買う者もおりますが、値上がりを見込んで買う者も増えております。」

「自分で耕作するつもりもなく、すぐに転売するためだけに土地を買う者まで現れています。」

ルイの表情が強張った。

「投機か……。」

「その傾向がございます。」

土地の値段が上がる。

値上がりを見た別の者が、さらに土地を買う。

需要が増えたことで、価格は一層上昇する。

すると人々は、土地の収益ではなく、将来の値上がりそのものを期待するようになる。

「今買わなければ、二度と買えなくなる。」

「来年には、さらに高く売れる。」

そんな言葉が商人たちの間で交わされた。

土地が土地を呼び、金が金を呼んだ。

価格は、実際に得られる収穫や地代を上回る勢いで上昇していく。


しかし、土地価格の上昇は、全ての農民を豊かにするわけではなかった。

土地を持つ者は利益を得る。

だが、土地を借りて耕す者にとっては、地代の上昇につながる。

小さな農地を買おうとしていた農民は、値上がりによって購入を諦めざるを得なくなる。

借金を返せない農民が土地を売れば、その土地は資金力のある地主や商人に買い集められた。

農産物の輸出が増えている。

土地の価格も上がっている。

表面だけを見れば、農業は繁栄しているように見えた。

だが、その利益は均等に分配されていなかった。

豊かな地主は、さらに土地を増やす。

土地を持たない農民は、高い地代に苦しむ。

同じ農村の中で、富を得る者と生活を圧迫される者が生まれ始めていた。


ルイは報告書を机へ置き、深く息を吐いた。

「自由貿易で農産物の輸出が増える。」

「農業が潤う。」

「だが、その期待によって資金が工業から土地へ流れる。」

「工業への投資が減れば、イギリスとの差はさらに広がる。」

「その一方で、土地の価格だけが上がり、土地を持たない農民は苦しくなる。」

ルイは両手で顔を覆いたくなる衝動をこらえた。

「誰も、このようになるとは言わなかった。」

カロンヌは静かに答えた。

「一つの政策は、一つの結果だけを生むものではございません。」

「経済とは、一つを動かせば、別の場所も動くものです。」

「輸出を増やせば価格が変わり、価格が変われば投資先が変わる。」

「投資先が変われば、産業と雇用が変わります。」

「そして雇用が変われば、人々の生活と感情まで変わるのです。」

「全てを、最初から思い通りに動かすことはできません。」

ルイは椅子から立ち上がり、窓辺へ向かった。

庭園には、整然と刈り込まれた木々が並んでいた。

左右対称の花壇。

一直線に延びる道。

一定の間隔で配置された彫像。

ヴェルサイユの庭園では、自然でさえ王の意思に従っているように見える。

だが、王国は庭園ではなかった。

命令一つで全てを望む形へ整えることなどできない。

関税を下げる。

輸出が増える。

農村が潤う。

税収が増える。

計画の中では、全てが一本の線で結ばれていた。

しかし現実には、その線から無数の枝が伸びていく。

輸入品に押される工房。

職を失う職人。

投資を失う工業。

買い集められる土地。

上昇する地代。

利益を得る地主。

困窮する小作農。

一つの政策が、相反する結果を同時に生み出していた。

ルイは歴史を知っているつもりだった。

1789年。

三部会。

バスティーユ。

革命。

処刑。

その大きな流れだけは、嫌というほど覚えている。

だが、その歴史へ至る途中で、何人の職人が仕事を失ったのか。

どの町の工房が閉じたのか。

誰が土地を買い、誰が土地を失ったのか。

パンの値段が一スー上がることで、どれほど多くの家族が苦しんだのか。

教科書には、そんなことまで書かれていなかった。

歴史を知っていることと、未来を正確に予測できることは違う。

その当たり前の事実を、ルイは今さら思い知らされていた。

「また……。」

窓に映る自分の顔を見つめながら、ルイは呟いた。

「また、新しい問題が増えた。」

経済を成長させようとすれば、既存の産業が傷つく。

産業を守ろうとすれば、消費者は高い商品を買わされる。

農業を豊かにしようとすれば、土地を持つ者へ富が集中する。

工業を支援しようとしても、国庫には金がない。

そして金を得るために増税しようとすれば、特権身分が反対する。

出口が見えなかった。

一つの扉を開けるたび、その向こうに新しい壁が現れる。

「カロンヌ。」

「はい、陛下。」

「工業地帯の状況を詳しく調べろ。」

「閉鎖した工房の数、失業者の数、輸入品の価格、国内の生産費。」

「全てだ。」

「可能であれば、機械を導入する工房への融資も検討しろ。技術の改良を急がせる。」

「承知いたしました。」

「それから、土地価格も監視しろ。」

「農民が耕作地を失っていないか、地代が急激に上がっていないか、地方長官に報告させるのだ。」

「ただ輸出額が増えたという報告だけでは足りない。」

ルイは振り返った。

その顔から迷いは消えていなかった。

むしろ恐怖は、以前より深くなっていた。

だが、恐れているからこそ、見ないふりをすることはできなかった。

「数字の裏にいる人間を見ろ。」

「輸出が増えたという数字の裏で、誰が豊かになり、誰が貧しくなったのか。」

「それを知らなければ、我々はまた同じ過ちを犯す。」

カロンヌは深く頭を下げた。

「仰せのとおりに。」

カロンヌが退室した後も、ルイは窓辺から動かなかった。

遠くに見えるヴェルサイユの町には、夕暮れが迫っていた。

商人は利益を求めて商品を運ぶ。

投資家は、より安全で儲かる場所へ資金を移す。

地主は土地を増やそうとする。

職人は仕事を守ろうとする。

農民は、次の収穫まで家族を生かそうとする。

誰もが、それぞれの事情に従って行動している。

一人一人の判断は、決して不自然ではない。

だが、それらが積み重なると、王でさえ制御できない巨大な流れになる。

その流れの先にあるものを、ルイは知っていた。

怒り。

暴動。

革命。

そして、断頭台。

無意識のうちに、ルイは自分の首筋へ手を当てていた。

何もない。

刃もなければ、傷もない。

それでも指先には、存在しない傷痕の感触が蘇った。

群衆の怒号。

木製の処刑台。

冷たい拘束具。

頭上で輝く刃。

ルイは慌てて手を離した。

「まだだ。」

誰もいない部屋で、自分へ言い聞かせる。

「まだ、終わってはいない。」

だが、声は小さく震えていた。

王は、ようやく気づき始めていた。

フランス王国の危機は、国庫の赤字だけではない。

農業。

工業。

商業。

投資。

土地。

雇用。

税制。

信用。

それら全てが複雑に絡み合い、どこか一つの歪みが別の歪みを生み出している。

そして、改革を実行するには金が必要だった。

工業を近代化するにも。

道路や運河を整えるにも。

失業者を救済するにも。

凶作へ備えて穀物を蓄えるにも。

国家には金が必要だった。

しかし、その金がない。

王国の財政赤字は、今も増え続けている。

過去の借金の利払いが、未来を救うための資金を奪い続けている。

もはや、小さな節約や一時的な借入だけでは耐えられない。

身分にかかわらず、国土から利益を得る全ての者に負担を求めなければならない。

特権身分にも税を課さなければ、国家そのものが立ち行かなくなる。

だが、それこそが、フランスで最も困難な改革だった。

数日後。

カロンヌは、再び国王執務室を訪れた。

今度、彼が抱えていたのは通商条約の報告書ではなかった。

王国財政の現状を記した、さらに分厚い帳簿。

そして、これまで誰も実現できなかった抜本的な税制改革案だった。

「陛下。」

カロンヌは、机上へ帳簿を置いた。

その音は、棺の蓋を閉じる音のように重く響いた。

「時間がございません。」

ルイは黙って帳簿を見つめた。

その言葉が何を意味するのか、尋ねる必要はなかった。

「改革案を説明しろ。」

「はい。」

カロンヌは一礼し、最初の書類を開いた。

「身分ではなく、土地から得られる収益に応じて負担を求める、全国的な土地税を導入いたします。」

「貴族も、聖職者も、平民も。」

「土地を所有する者であれば、例外なく納める税でございます。」

ルイの喉が小さく鳴った。

それは必要な改革だった。

同時に、特権身分との全面対決を意味する改革でもあった。

そして王は、まだ知らなかった。

財政を救うために招集される名士たちが、国王の最後の希望となるのではなく、王権を追い詰める新たな敵となる。

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