由香里
サッちゃんが電話をかけてきて、弾んだ声で陸くんと結婚することを報告してきた時、あたしは二人のことを心から祝福することができた。
あたしは、子供の頃からサッちゃんのことが大っ嫌いだった。
サッちゃんが同じクラスに転校してきた時、可哀そうにね、とお母さんは言ったけど、どこが可哀そうなのかさっぱり分からなかった。すぐ怒るお母さんも鬱陶しいお父さんも苛めてくるお兄ちゃんもいなくて、優しいおばあちゃんに可愛がられて暮らしているなんて、むしろ恵まれているじゃないかと思った。それをお母さんに言ったらものすごく怒られて、情けないとため息をつかれた。
それでもあたしはサッちゃんが羨ましかった。いとも簡単に陸くんと仲良くなったことに嫉妬していた。サッちゃんが転校してくるずっとずっと前から、あたしは陸くんのことが好きだった。
陸くんは、お兄ちゃんと同じサッカークラブに所属していた。陸くんにはお母さんがいなかったから、あたしのお母さんが陸くんの面倒を見てあげていた。それで、陸くんはしょっちゅうあたしの家に遊びに来たし、一緒にご飯を食べに行ったりもした。
週末は、あたしはお母さんに連れられて、サッカーの練習とか試合を見に行った。陸くんはいつも活躍していて、すごくかっこよかった。他の子のお母さんたちからも大人気で、そんな陸くんが休憩時間になるとお兄ちゃんと一緒にあたしたちのところに戻ってくるのが、誇らしかった。
あの頃の陸くんは、ギラギラとした目をしていた。
常に損得で物事を考えて、何事も自分にプラスになるように身を振っているような、そんな感じだった。
例えば、あたしとの接し方にも、自分の身の回りのことをしてくれるお母さんの娘だから無下にはできない、といった考えが透けて見えていた。あたしの名前すら覚えてくれなかったし、大人のいないところでは一切話しかけて来なかった。
陸くんに興味を持たれていないのは悲しかったけど、そんな打算的な陸くんのことがすごく大人に見えて、そういうところがあたしは大好きだった。
だけど、サッちゃんが来てから陸くんは変わった。ギラギラした目をあまりしなくなって、その代わりに、サッちゃんを傷つける奴は許さないというような、番犬のような目をするようになった。そして、サッちゃんには見たこともないような優しい目を向けた。
それでもあたしは陸くんのことが好きだった。だから、少しでも陸くんの近くにいられるように、サッちゃんと仲良くした。
少し舌足らずだったサッちゃんは、『リクくん』とうまく発音することができなくて、そんなサッちゃんの喋り方を陸くんは可愛いと言った。それが腹立たしくて、『りっくん』と呼ぶようにサッちゃんに言ったら、それいいね、ありがとう、なんてお礼を言われて、ますますムカついた。
陸くんは、あたしのことを名前で呼ぶようになった。サッちゃんがそうするように言ったからだ。『ユカちゃんはわたしの大事な友達なんだよ』とか言って、いつまでもあたしの名前を覚えようとしない陸くんを咎めた。
ものすごく惨めだった。あたしは、陸くんにとって、お兄ちゃんの妹で、お母さんの娘で、サッちゃんの友達で、それ以上の存在には、決してなれなかった。
中学二年生くらいの時に、サッちゃんから、陸くんのことが好きなのだと打ち明けられた。
告白しちゃいなよ、とか冷やかしながら、やめて、やめて、と心の中で叫んでいた。あたしに脈がないのは分かっていたけど、誰の物でもない陸くんでいてほしかった。
サッちゃんは、向こうは自分のことを妹のようにしか見ていないかも、と悩んでいて、あたしはその可能性に救いを見出した。確かにサッちゃんは同年代の女の子たちよりもずっと子供っぽくて、陸くんがサッちゃんのことを構うのは、恋愛対象としてというよりも、守るべき対象としてのように見えた。
でも、その希望的観測は、陸くんと付き合い始めたことをサッちゃんから告げられた時に打ち砕かれた。
信じたくなくて、じゃあキスしてよ、と言ったあたしの前で、陸くんはためらうことなくサッちゃんの頬に口づけた。キャーキャーと興奮しているふりをして写真を撮ったりしながら、本当はすごく傷ついていた。
サッちゃんはすごく浮かれていて、無自覚の惚気を聞かされるのが鬱陶しかった。
サッちゃんが学校のノートに『関口幸』と書いたのを見て、ドン引きした。さすがの陸くんも引くだろうと思って、あたしはリクくんのところにチクリに行った。そしたら陸くんは、ものすごく幸せそうな顔をして、十年早えーよ、いや、五年か?なんて言った。
その時、あたしが好きだった陸くんはもうどこにもいないんだと、心底思い知った。
陸くんが行先も告げずに引っ越した事情は、サッちゃんの口から聞いた。
サッちゃんが寂しそうにしているのは、見ていて清々した。それで、あたしは陸くんがいなくなった後もサッちゃんと仲良くした。慰めるふりをしながら、このまま陸くんが戻って来なければいいのにと思っていた。一年、二年と月日を重ねるうちにそれは現実味を帯びて、それでも陸くんが戻ってくると信じているサッちゃんに、次第にイライラするようになった。
夫の和樹は、大学で入ったテニスサークルの一個上の先輩だった。
第一印象は最悪だった。
飲み会の席で向かいになって、打ち解けたくてお世辞ばかり言っていたら、『そういうの似合わないよ。もっと本音で喋れば』と言ってきた。
近くにいた先輩が慌てて『一年の子に何てこと言うんだよ』と取りなしてくれたけど、あたしは和樹の言葉にすごく動揺していた。
あたしはもともと、よく喋る子供だった。でも、陸くんへの想いを隠してサッちゃんと仲良くしているうちに、言葉を発する前に一度立ち止まって考える癖がついた。おとなしい子だと言われるようになって、そのうちに本音を口に出す方法を忘れてしまった。だから、和樹に指摘された時、図星すぎて動揺したのだった。
和樹にそこまでの深い意図はなかったと思う。おそらく、飲めるようになったばかりのお酒で気が大きくなっていただけだったのだろう。
それでも何かを言い返さないと気が済まなかったあたしは、
『じゃあ本音で喋りますけど、あたし、先輩のこと嫌いです』
と、言ってやった。
和樹はそんなあたしを見て、
『その本音は知りたくなかったな』
と苦笑いした。
飲み会の後も和樹のことが頭から離れなかった。自分がムカついているのかドキドキしているのか分からなくて、付き合ってみたら分かるかなと思った。早くカレシを作ってサッちゃんにマウントを取りたいという気持ちもあった。
好きだと言うのも癪だったから、本音を喋る練習台として付き合ってくれと和樹に言った。そしたら和樹は笑って受け入れてくれた。
飲み会での印象と違って、和樹はおっとりとした人だった。彼の前では、あたしは不思議と本音で喋ることができた。
そんな変な始まり方をしたのに、和樹はあたしのことを大事にしてくれた。こんなあたしのことを、好きだと言ってくれた。
でも、そのくせに和樹は、あたしが陸くんの話をしても嫌がらなかった。それが妙に腹立たしくて、あたしもムキになって陸くんの話をし続けたけど、内心ずっと虚しかった。和樹に本当に好かれているのか、いまいち確信が持てなかった。
別れるきっかけもなくずるずると四年付き合って、あたしが大学を卒業した年に結婚した。その結婚も、あたしが言い出したことだった。和樹は、あたしがしたいと言ったことを、何一つ拒まなかった。
結婚に至ってもまだ、あたしはサッちゃんを意識していた。あたしの方が幸せだとサッちゃんに見せつけたかった。あたしがサッちゃんにずっと嫉妬していたように、サッちゃんに嫉妬させたかったのだ。それなのに、あたしの結婚式でサッちゃんは他の誰よりも泣いて祝福してくれた。
あたしに子供が生まれたら、さすがのサッちゃんも凹むかなと思った。それで和樹に子供を作ろうと言った。そしたら、それまであたしの言うことを何でも受け入れていた和樹が、子供はまだ早いんじゃないかと言った。確かに社会人になったばかりで貯金もないし、と一度は納得したけど、結婚して数年経っても和樹は渋り続けた。子供が欲しくないのかと詰め寄ると、いつかは欲しいけど今はまだ二人でいたいと彼は言った。
子供ができたのは結婚して五年目の年だった。しびれを切らしたあたしが、できやすい日に安全日だと嘘をつくというベタな方法を取ったのだった。
子供ができたと告げた時、和樹は苦笑いして、『ああ、できちゃったの』と言った。全然嬉しそうではなかった。
それでも、だんだん父親になる実感が湧いたようで、愛衣里が生まれた時にはもうすっかり子煩悩な父親になっていた。
愛衣里はめちゃくちゃ可愛くて、サッちゃんを意識していたことがくだらなく思えた。愛衣里を中心とした目まぐるしい生活が始まって、愛衣里をあやす和樹の背中を見ながら、これを幸せと呼ぶのかな、なんて、ぼんやりと思ったりした。
陸くんから電話がかかってきたのは、そんな日々のただ中だった。
サッちゃんの住所を教えるように急かしてきた陸くんはとても強引で、昔の陸くんを思い出した。サッちゃんが結婚したと嘘をついたら陸くんはサッちゃんを諦めるだろうか。そんな邪な考えが一瞬よぎったけど、さすがにそれはサッちゃんが可哀そうすぎるかと思いとどまった。
五分にも満たない陸くんとの通話の後は、しばらく興奮が冷めなくて、仕事から帰ってきた和樹に、浴びせるように陸くんの話を聞かせた。
和樹は、『サチさんが幸せになれるといいね』と落ち着いた声で返してきた。そして、『アイリにもらったお祝いのお礼はちゃんとしたのか』『俺たちがしてもらったようにサチさんにもお祝いをしないとな』と、あたしの興奮に水を差すような言葉を重ねてきた。
陸くんとサッちゃんがうまくいくのを想像するのは嫌だった。
サッちゃんに出産祝いのお礼を言わないといけない。そう思っていたけど、サッちゃんが自分よりも幸せなのを思い知らされそうで、ズルズルと先延ばしにした。
当然、陸くんはサッちゃんの元に戻って、二人は幸せにやっているものだと思っていた。サッちゃんから、陸くんに住所を伝えてくれてありがとう、とか、陸くんと結婚することにした、とか、そんな電話がかかってくることに怯えていた。
だから、三ヶ月くらいしてサッちゃんから電話がかかってきた時、遂に来たかと思った。何とか聞かずに乗り切れないものかと、一方的に喋ったりした。
でも、サッちゃんは陸くんにヤリ逃げされたらしくて、全然幸せそうじゃなかった。拍子抜けするとともに、さすがに同情して、友達らしく慰める言葉がスラスラと口から出た。
サッちゃんとの通話を終えた後、聞いていた和樹が、『随分嬉しそうだね』と言ってきた。びっくりするくらい冷たい声だった。眠っている愛衣里の顔を覗きこんで、『だから俺たちに子供は早いって言ったのに』と呟いた。
それを聞いて、すごくゾッとした。
この人はやっぱり子供が欲しくなかったのだと思った。それどころか、あたしと一緒に生きていくつもりもなかったのかもしれないと思った。いざとなったらすぐに別れられるように子供を欲しがらなかったのかもしれない、なんて、嫌な考えが膨らんで、和樹と暮らしていく自信がなくなった。愛衣里を連れて実家に帰ったのは、その翌日のことだった。愛衣里が不憫でならなかった。
実家暮らしにも慣れた頃、自分の部屋の整理をしていたら、陸くんとサッちゃんの写真が出てきた。陸くんにキスされて、サッちゃんが恥ずかしそうに陸くんを引き剥がそうとしている写真だ。
とりたてて美人なわけではないサッちゃんが陸くんに好かれているという事実が、当時はどうしても受け入れられなかったけど、今なら何となく分かる。あたしが持っていなくて、サッちゃんが持っていたもの。そして、陸くんがそれを求めていたことを。
うまくやってるといいなあ。そう、口に出して呟いてみた。喉にざらざらとした違和感を覚えて、自分の性格の悪さに呆れた。和樹はよくこんな自分と付き合ってくれたものだと思った。
愛衣里をベビーカーに乗せて、散歩がてら買い物に出かけた帰り道、向こうから陸くんが歩いてくるのに気付いた。一瞬、和樹かと思った。陸くんがマスクをしていたとはいえ、雰囲気も背格好も全く違うのに、なぜか和樹に見えたのだ。陸くんだと分かって、驚きながらも落胆している自分がいた。
陸くんはあたしのことがすぐには分からなかったようだった。権田太一の妹だと告げたら、『ああ、権田の……』と存在は何となく思い出してくれたみたいだったけど、名前までは出てこなかった。
家に招き入れたら、お母さんはものすごく喜んで、陸くんを質問攻めにした。陸くんは、サッちゃんの住所を教えろと迫ってきた時の強引さとは打って変わって、訊かれたことに一つ一つ丁寧に答えたけど、『サッちゃんに会ったんでしょ?』というあたしの問いにだけは表情を曇らせた。
そんな陸くんの様子に、腹を立てている自分がいた。十年以上も待たせておいて、サッちゃんをヤリ捨てして、すっとぼけている陸くんを、許せないと思った。
それで、自分の部屋で発掘したキスの写真を陸くんに突きつけた。
陸くんは、びっくりしたみたいな顔で、その写真をじっと見ていた。お母さんが横で『あら、サッちゃんと付き合ってたのね。そうよね、年頃であれだけ仲良しだったら』などと呑気なことを言うのも、耳に入っていないようだった。その後はずっと上の空で、雨が降ってきたのをきっかけに帰る流れになった。陸くんはお母さんが傘を押し付けようとするのを丁重に断って、小走りで走り去っていった。
あたしはサッちゃんに同情した。それで、友達として慰めようと思ってサッちゃんに電話したのに、結局ズケズケとサッちゃんが触れてほしくなさそうなことを訊いてしまって、ますます自己嫌悪に陥った。
自己中心的で性格がねじ曲がっている自分のことが、心底嫌になった。
その数日後、あたしは電車に乗って一ヶ月ぶりに和樹と暮らす家に戻った。
和樹は少し痩せたようだった。ソファーに洗濯ものが乱雑に置かれていて、台所にカップ麺の空き容器が積まれていた。
あたしが離婚届を差しだしたら、『リクとやらのせいなのか?』と訊いてきた。
『そいつがユカリに何かしてくれたのかよ』
和樹は珍しく怒っているようだった。
『何のこと?リクくんは関係ないじゃん』
『じゃあ何でこんなもん』
離婚届を顎でしゃくった。
その反応は少し意外だった。
『だって、全部あたしのわがままだったでしょ』
認識を合わせるために、あたしは和樹に向き合った。
『さすがのあたしもさ、少しは反省したわけ。カズキがあたしの言うこと何でもいいよいいよって言うから、それをいいことに結婚してさ、子供まで産んでさ。カズキの気持ちとか全部置き去りにして。ごめんね?カズキはあたしと生きていく気なかったんでしょ。あたしのことなんか、別に好きでもなんでもなかったんでしょ。だから、別れてあげるって言ってるの』
本音を隠す痛みに懐かしさを覚えながらも、淀むことなく言えた。
『馬鹿にすんなよ』
和樹がテーブルの上で拳を握った。
『好きじゃなかったら、結婚して子供ができるようなことするわけないだろ。俺のこと何だと思ってんだよ』
『じゃあ何で迎えに来なかったわけ?』
あたしのことをまだ好きだと言ってくる和樹を論破したかった。あたしはその優しさにずっと騙されてきたのだ。
『迎えに行けるかよ』
和樹は呻くように呟いた。
『サチさんたちが順調じゃなさそうってだけであんなに嬉しそうにされたら、俺の立場がないだろ』
余裕そうな顔をしていたじゃないか、と思った。
『だってカズキ、あたしがリクくんの話をしても全然嫌がらないじゃん。好きだったら普通嫉妬とかするもんじゃないの。知らないけど』
『嫌だったよ。嫌だったに決まってるだろ。でも、しょうがないだろ。ユカリがそいつのこと忘れられないんだったら、忘れるまで待つしか。一緒に過ごしてたら、いつかはそいつに勝てると思ってたんだよ。台無しだよ、今頃になって出てきやがって』
本気で腹を立てている様子の和樹を見て、あたしは驚いていた。
『カズキって、そんなにあたしのこと好きだったの?』
『今さらかよ』
『だって、あたしがめちゃめちゃ性格悪いの知ってるでしょ。どこが好きなわけ?』
『どこって……』
和樹は気まずそうに目を伏せた。
『意思がはっきりしててブレないとこだよ。俺はユカリがいなきゃ食うもんも決めらんないんだよ』
思わず吹き出した。
『何それ。めちゃめちゃかっこ悪いんだけど』
『どうせユカリのかっこいいリクくんには敵わないよ。俺と別れたいんだったらこれ書くーー』
『馬鹿じゃないの。嫌なら嫌って言えばいいじゃん。嫉妬してたんだったらそう言ってくれないと分からないじゃん。本音で喋れって言ったのそっちのくせにさ』
本当に馬鹿だと思った。我慢して何も言わなかった和樹も、そのことに気づかなかった自分も。
『あのさ、勝ちとか負けとか、そもそもカズキとリクくんは同じ土俵に立ってないの。あたしにとってリクくんは、何ていうか、アイドル的な存在だけど、カズキは一生一緒にいる人なんだから』
そう言い放って、自分の言葉に自分で恥ずかしくなった。黙ったままの和樹に、何とか言いなさいよと言おうとしたら、彼は離婚届を手に取っておもむろに破りだした。
『ちょっ、何す、せっかく書いたのに』
『一生一緒にいるんだろ』
『気が変わるかもしれないじゃん』
『俺は変わんないし、もしユカリの気が変わったら、また役所に行って、一からこれ書いて、今日のこと思い出せばいい。それでも別れたかったら、それはその時だ』
『何それ。いきなり格好つけちゃって。カズキのくせに』
あたしの憎まれ口を笑った後、和樹は真面目な顔をした。
『本当はアイリが生まれる前に、結婚もする前に、こういう話をするべきだったんだよ』
言いながらビリビリに破いた離婚届をぐちゃぐちゃに握りつぶした。
『それで子供はまだ早いって言ってたわけ?それこそちゃんと言ってくれなきゃ分かんないし』
『だって、ユカリから言ってくれなきゃ意味がないよ。俺のこと、一生一緒にいる人だ、って』
『やめて、絶対忘れて』
『録音しとけば良かったな。もう一回言ってくれない?』
『言うわけないでしょ、馬鹿』
恥ずかしすぎて立ち上がった。
『アイリを迎えに行かきゃ』
すぐに帰るつもりだったから実家に置いてきていた。
『俺も行っていい?お義父さんとお義母さんと、お義兄さんにも謝らないと』
じゃあ車を運転しろと言ったら快諾した。それなのに、近づいてきて抱きしめてきた。
『ちょっと。アイリが待ってるから』
『ごめん、一言だけ。ちゃんと言ってなかったから』
『何?』
動悸が速くなっているのを悟られたくなくて、必要以上に不機嫌な声を出してしまった。
和樹は、そんなあたしの不器用さごと受け入れてくれるみたいに、さらに深く腕を回してきた。
『アイリを生んでくれてありがとう。アイリが生まれてきた時、俺、死ぬほど嬉しかった。子供ができたって言ってくれた時、微妙な反応しちゃってごめんね。あの時だって本当は嬉しかったのに、ユカリが本気で俺と生きていくつもりなのか分からなくて、不安が先に出ちゃったんだ。ユカリの言う通りにして後悔したことなんか、一度もないのに』
『長い。全然一言じゃないじゃん』
『ごめん』
和樹が腕を解いた。それ以上聞いていたら泣いてしまいそうだった。
『あたしだって間違えるし。ていうか間違えてばっかだし。そういう時はちゃんと指摘してくれないと困るからね。分かったら行くよ』
和樹の手を引いて玄関に向かいかけた。
『うん。ところで、そういえば車の鍵が行方不明なんだよね』
罵倒しながら、鍵はあたしがすぐに見つけた。
日曜日の昼下がり、サッちゃんからの電話を切ると、和樹がコーヒーをあたしの前に置いた。差愛衣里はお昼寝中だ。
「サチさんたち、結婚するんだ?」
あたしの向かいに腰を下ろしてそう尋ねてくるのを、肯定した。
「アイドルが結婚する心境は、やっぱり複雑ですか?」
インタビュアーのように、マイクを向ける仕草をしてくる。
「馬鹿。純粋に嬉しかったし」
「それは、俺のおかげだと考えていいんですかね」
「馬鹿じゃないの、ホントに」
コーヒーを持ってソファーに移動すると、和樹もついてきた。
「こっちに来たということはイチャイチャしたいって捉えても良いんですかね、ユカリさん」
「うるっさい」
ソファーの前のテーブルにコーヒーを置いて、和樹の口をキスで塞いだ。
「そのうち二人目も欲しいね」
唇を離すと、あたしの下で和樹が微笑んで言った。